↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/44

神秘の降誕

 <まえがき>

 作者は歴史や美術の専門知識に乏しく、知識レベルは高校世界史以下しかありません。

 本作は歴史的な題材を借りて、ドラマ性を重視し実験的に書いてみたフィクション小説です。

 考証の甘さに歴史好きの方からお叱りを受けてしまうかもしれませんが、

 純粋なエンタメとしてお気軽にお楽しみいただけますと幸いです。


 ------------------


「刷り上がりはどうだ」

 背後からかけられた声に、私は活字の組み版から顔を上げた。振り返ると、修道服に身を包んだマルティン・ルターが、刷り上がったばかりの紙の束を覗き込んでいる。

「ええ、完璧です。ただ……」

 私は、インクの原料である油と煤が混ざった独特の匂いを嗅ぎ、ふと目を細めた。一五二三年のドイツ、ヴィッテンベルク。工房の奥では、活字を鋳造するための炉が轟々と燃え、鉛が熱気を放ちながらドロドロと溶けている。

「この煤の匂いと、肌を刺すような炉の熱を感じると……どうしても思い出してしまうのです。三十年前の、あのフィレンツェで燃え上がった恐ろしい炎を」

 ルターは興味深そうに眉を上げた。

「お前がかつて、かの敬虔なる殉教者、サヴォナローラと同じ空気を吸っていたとはな」

「殉教者……ええ、今はそう呼ばれるのでしょう。しかし当時の私たちにとって、彼は街を焼き尽くす炎そのものでした。私はこの熱を感じるたび、その炎に自ら身を投げ打った、一人の愚かで偉大な画家のことを思い出すのです」

 私は目を閉じた。活版印刷機の規則的な音と炉の熱が遠ざかり、代わりに、絵の具を溶く油と鶏卵の匂い、そして快活な笑い声が鼻腔と耳を満たしていく。


 +++++


「いいか、ヴィーナスの肌ってのはな、ただ白ければいいってもんじゃないんだよ!」

 目を開けると、そこは一四九〇年代初頭のフィレンツェ。ルネサンスの陽光がさんさんと降り注ぐ、サンドロ・ボッティチェリの工房だった。

「ただ白いだけの肉体なら、死体と同じだ。そこには血が通っていなきゃならない。神が吹き込んだ生命の熱がな。そのために、ほんのわずかに緑土(テッラ・ヴェルデ)を下地に忍ばせ、その上から薄く、薄く血の赤を重ねていくんだ」

 サンドロは、顔や衣服に絵の具の染みをいくつもつけながら、カンヴァスの前で身振り手振りを交えて熱弁を振るっていた。当時すでに四十代半ばを迎えていた彼は、フィレンツェで最も人気のある画家の一人だったが、気取ったところは微塵もなかった。

「親方、また手が止まってますよ。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の祭壇画、期限が迫ってるんじゃなかったですか?」

 若き日の私が写本の羽根ペンを止めずに指摘すると、サンドロは悪びれもせずに笑った。

「急いだところで、美の女神は微笑んでくれないさ。お前もメディチ家の図書館から借りたプラトンの写しばかりしてないで、少しはこの神の奇跡たる美しい世界を見てみろ」

 私は当時、メディチ家の蔵書を筆写する人文学者の写字生として働きつつ、最新の技術である活版印刷を学ぶ徒弟でもあった。サンドロの工房は、プラトン・アカデミーの学者や詩人たちが頻繁に出入りする一種のサロンのような場所であり、私はよくここに原稿を持ち込んでは、彼らが織りなす華やかな色彩と喧騒の中で仕事を楽しんでいた。

「見ていますよ。親方の描く女神たちは、本当に息をしているみたいだ。でも、修道院の連中がなんと言うか……」

「修道院? ああ、あのサン・マルコで喚いている黒衣の男のことか」

 サンドロは絵筆をくわえたまま、肩をすくめた。ジロラモ・サヴォナローラ。フェラーラからやってきたあのドミニコ会修道士の説教は、最近になってフィレンツェの市民たちの間で妙な熱を帯び始めていた。

「『虚栄を捨てよ、異教の神々を打ち砕け』ってやつだろう? 放っておけ。あんなものは貧しい者たちの鬱憤晴らしだ。美は神がこの世界に与えた最も確かな恩寵だよ。美しいものを見て心が震えるとき、人間の魂は天上のイデアに近づいているんだ。それを否定するのは、神の創造を否定するのと同じさ」

 サンドロの言葉には、この街の黄金時代を支える新プラトン主義の哲学が満ちていた。彼は自身の芸術に絶対の自信を持ち、美を愛することこそが真の信仰だと信じて疑っていなかった。

「その通りだ、サンドロ。美は神の恩寵である。だが、それを理解できる耳を持たぬ者もいる」

 不意に、工房の入り口から少し鼻にかかったような、しかし独特の威厳を帯びた声が響いた。

 振り返った私たちは、一瞬にして姿勢を正した。そこに立っていたのは、簡素な黒い衣服に身を包んだ男だった。彫りの深い顔立ち、特徴的な平たい鼻。派手な装飾品は一切身につけていないが、その存在感だけで周囲の空気がピンと張り詰める。

 フィレンツェの実質的君主、ロレンツォ・デ・メディチ。人々から『イル・マニフィコ(偉大なる者)』と呼ばれる男が、護衛も連れずにふらりと工房に現れたのだ。

「ロレンツォ様! これは……」

「そのまま、筆を止めないでくれ。今日はただ、お前の色彩を目に焼き付けたくてな」

 ロレンツォはサンドロを制し、ゆっくりと描きかけのカンヴァスに近づいた。その歩みは少し重く、痛風の痛みを堪えているように見えた。当時の彼はまだ四十代だったが、長年の政務と病魔によって、すでに老人のような翳りを帯びていることが、私の目にもわかった。

「素晴らしい。やはりお前の描く春には、永遠がある」

 ロレンツォはカンヴァスを見つめ、深く息を吐いた。

「永遠、ですか」サンドロが控えめに問い返す。

「そうだ。この街の平和がいつまで続くかはわからん。北のフランスも、南の教皇庁も、常に我々の首を狙っている。だからこそ、お前たち芸術家が描く圧倒的な『美』が必要なのだ。フィレンツェがただの金貸しの街ではなく、神の美を地上に現出させる特別な場所だと世界に知らしめることで、野蛮な剣を振るうことを躊躇させる。我々の豊かさと美しさこそが、最も強力な盾となるのだ」

 ロレンツォの視線が、部屋の隅で縮こまっている私へと向いた。

「見ない顔だな。我が友、ポリツィアーノの新しい写字生か?」

「は、はい。今はメディチ家が誇る当代随一の詩人であり、私の主人でもあるポリツィアーノ殿の命で、書簡を筆写しておりまして」

 私は緊張で声を上ずらせながら答えた。ロレンツォはふっと柔らかく微笑んだ。

「精が出ることだ。古代の英知を紙に留めるのも、新たな美をカンヴァスに刻むのも、この街を永遠にするための大事な仕事だ。励めよ」

「……ロレンツォ様」

 サンドロが、絵筆を置き、少し声を潜めて言った。

「サン・マルコの修道士の説教が、日に日に過激になっていると聞きます。彼は、あなた様のことも暗に批判しているとか。なぜ、あのような者を追放なさらないのですか?」

 ロレンツォは窓の外、フィレンツェの赤い丸屋根が連なる街並みへ目を向けた。

「サヴォナローラか。たしかに彼の言葉は耳に痛い。だが、あの男には私欲がない。私を批判する言葉にも、奇妙なほど嘘がないのだ」

「しかし、彼はこの街の芸術すら『虚栄』だと」

「サンドロよ。光が強ければ、影もまた濃くなる。フィレンツェが美と豊かさを極めるなら、それを憎む厳しい道徳もまた、この街の一部として存在せねばならんのだ。それが均衡というものだ」

 ロレンツォはゆっくりと工房の出口へ向かいながら、最後に振り返った。

「私は時折、彼の説教を聴きに行く。あの男の怒りに満ちた声の中に、不思議と神の誠実さを見ることがあるのだ。……放っておけ、サンドロ。フィレンツェは、お前の描く美も、あの修道士の祈りも、両方飲み込めるほどに偉大なのだから」

 そう言い残し、ロレンツォは静かに工房を去っていった。残された私たちの上には、いつもと変わらぬルネサンスの黄金色の光が降り注いでいた。絵の具の匂いと、大理石の粉が舞うこの明るい場所が、ずっと永遠に続くのだと、私は無邪気に信じていた。


 +++++


「行かなければ駄目だ、サンドロ。今日という今日は絶対にだ」

 サンドロの兄、シモーネの熱を帯びた声が、工房の穏やかな空気を切り裂いた。

 数日後、シモーネが血相を変えて工房に飛び込んできたのだ。彼は最近、サン・マルコ修道院へ足繁く通うようになっており、修道士サヴォナローラの熱烈な信奉者へと変貌しつつあった。

「シモーネ兄さん、私は忙しいんだ。メディチ家の仕事もたまっているし、第一、説教なんて性に合わない」

 パレットを持ったまま面倒くさそうに答えるサンドロの腕を、シモーネは無理やり掴んで引っ張った。

「お前は絵の具の匂いに酔って、世の中の現実が見えなくなっているんだ! あの修道士様の言葉を聞けば、お前がどれほど虚栄にまみれた生活を送っているか目が覚めるはずだ。さあ、行くぞ。お前もだ、坊主」

 突然名指しされ、私はインク壺を落としそうになった。

「わ、私もですか?」

「お前も最近、プラトンだのなんだのと異教の哲学ばかり写しているそうじゃないか。魂を腐らせたくなければついてこい!」

 結局、私たちは押し切られる形で筆を置き、シモーネの後を追ってサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂へと向かうことになった。サヴォナローラの説教を聴きに集まる群衆があまりにも膨れ上がり、もはやサン・マルコ修道院の聖堂では収まりきらなくなっていたのだ。

 大聖堂に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。

 冷たい石の床の上には、貴族から職人、物乞いに至るまで、おびただしい数の市民が隙間なく立ち尽くしていた。ざわめきと、何千人もの人間の体臭、そして安物の香油の匂いがドーム型の天井に反響し、息苦しいほどの熱気となって充満している。

「まるで、最後の審判を待つ亡者の群れだな」

 サンドロが私の耳元で皮肉っぽく囁いた。その表情にはまだ、いつもの軽薄な余裕が張り付いていた。

 やがて、堂内が水を打ったように静まり返った。

 説教壇に、小柄な黒衣の男が姿を現したのだ。先日、工房で見たあの男だった。深々と被った頭巾の奥で、鋭い眼光が群衆を見下ろしている。

 サヴォナローラは、しばらくの間、無言のまま堂内を見渡した。沈黙が極限まで引き伸ばされ、人々の緊張が頂点に達したその時、彼の大音声が大聖堂の空間を激しく震わせた。

「見よ! 神の剣が、速やかに、そして確実にこの地に下ろうとしている!」

 その声は、雷鳴のように響いた。少し鼻にかかっているのに、なぜか耳の奥から直接脳を揺さぶるような、異様な力を持っていた。

「フィレンツェの市民よ、目を覚ませ! 汝らは今、泥の海に首まで浸かりながら、それが黄金だと信じて笑っているのだ! 豪奢な衣服、派手な宴、そして……肉欲をそそる異教の神々の絵画!」

 彼は説教壇を激しく叩き、血を吐くような声で叫んだ。

「それは『美』ではない! 汝らの目を神の真理から逸らさせる、悪魔の『虚栄』だ! 教会は娼婦の館に成り下がり、権力者は己の腹を満たすために貧者を踏みつけている。悔い改めよ! 神の怒りの炎がこの街を焼き尽くす前に、自らの手で虚栄を焼き払うのだ!」

 私は恐怖で身震いした。彼の言葉は、ロレンツォ・デ・メディチの統治からルネサンスの芸術に至るまで、このフィレンツェの豊かさのすべてを真っ向から否定し、呪い殺そうとしていた。

 ふと周りを見ると、異様な光景が広がっていた。

 群衆のあちこちから、すすり泣く声が聞こえ始めたのだ。屈強な職人たちが膝をついて胸を打ち、着飾った貴婦人たちが顔を覆って涙を流している。シモーネもまた、熱病に浮かされたように両手を組み、顔をくしゃくしゃにして泣き叫んでいた。

「おお、主よ! 私の罪をお許しください!」

 後に彼らが「泣き虫派(ピアニョーニ)」と呼ばれる所以となる、凄まじい集団の狂乱だった。理性を重んじる人文学の教育を受けてきた私にとって、それは理解の及ばない恐ろしい嵐だった。

 私はたまらず、隣に立つサンドロの袖を引いた。

「親方……親方、帰りましょう。あの者の言葉は恐ろしいです。それに、親方の絵をあんな風に侮辱するなんて」

 いつものように、「大げさな芝居だ」と笑い飛ばしてほしかった。しかし、振り返ったサンドロの顔を見て、私は言葉を失った。

 サンドロは、群衆の中でただ一人、身じろぎ一つせずに説教壇を見つめていた。その大きな瞳には、彼自身も気づいていないであろう涙が、いっぱいに溜まっていた。普段の軽口を叩く余裕など、そこには微塵もなかった。

「……恐ろしい?」

 サンドロは、私の声に反応しているのかどうかも怪しいほど、虚ろな声で呟いた。

「いや……違う。恐ろしいのではない。あれは……真実の響きだ」

 サンドロは、震える手で自身の顔を覆った。その指先には、まだ微かに絵の具の緑土がこびりついている。

「真実、ですか? 親方自身が、美は神の恩寵だと言っていたじゃないですか!」

「そうだ、そう信じて描いてきた。だが……あの修道士の言葉を聞いていると、自分が途方もない嘘をついているような気分になるのだ。私がカンヴァスの上に描き出してきた女神たちは、本当に人々の魂を救っていたのか……? 死と滅びの予感を前にしたとき、私の描いた色彩など、ただの虚しい幻に過ぎないのではないか?」

 狂乱する群衆の中にあって、フィレンツェで最も偉大な画家は、自身の人生のすべてを否定されたような、しかし同時に究極の真理を突きつけられたような、凄絶な表情で立ち尽くしていた。

 その日を境に、ボッティチェリの工房から、あの華やかな笑い声が少しずつ減っていった。

 親方がカンヴァスに向かう時間は減り、代わりにサン・マルコ修道院の方角を見つめて沈思黙考する時間が増えた。色鮮やかな絵の具の匂いに満ちていた空間に、見えない黒い影が静かに、しかし確実に忍び込んでいくのを、私はただ為す術もなく見つめているしかなかった。


 +++++


 一四九二年、四月。フィレンツェ郊外カレッジにあるメディチ家の別荘には、重く湿った沈黙が立ち込めていた。

 部屋を満たしているのは、没薬や薬草が放つ饐えたような甘い匂いと、死の気配だった。私は部屋の隅に置かれた小さな机に向かい、震える手で羽根ペンを握りしめていた。主である人文主義者アンジェロ・ポリツィアーノの言葉を、いつでも羊皮紙に書き留められるようにするためだ。

 しかし、ポリツィアーノの口から紡がれるのは、洗練されたラテン語の詩ではなく、抑えきれない嗚咽ばかりだった。

 天蓋付きの豪奢なベッドに横たわっていたのは、フィレンツェの実質的君主、ロレンツォ・デ・メディチだった。かつてボッティチェリの工房にふらりと現れ、この街の美を称えた『偉大なる者』の面影は、痛風と原因不明の熱によって無惨に削ぎ落とされていた。土気色になった頬はこけ、息をするたびに胸が苦しげに上下している。

 それでも、落ち窪んだその両眼だけは、驚くほど澄み切っていた。

「アンジェロ……泣くのはやめろ。お前の美しいラテン語が、鼻水で台無しになるぞ」

 ロレンツォがかすれた声で冗談を言うと、ベッドの傍らに跪いていたポリツィアーノは、さらに顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。私もまた、涙で滲む視界を必死に瞬きで払い除けていた。黄金時代が終わろうとしている。誰の目にもそれは明らかだった。

 その時、重厚なオーク材の扉が静かに開いた。

 部屋の空気が、一瞬にして冷たく張り詰めた。現れたのは、黒い修道服に身を包んだ男——ジロラモ・サヴォナローラだった。

「なぜ、あなたがここにいる……」

 ポリツィアーノが涙に濡れた目で立ち上がり、警戒するように修道士の前に立ちはだかった。

「街角でロレンツォ様を散々非難しておいて、今更どのような用件で来られたのか」

「下がれ、アンジェロ」

 弱々しく、しかし絶対的な威厳を持った声が、ポリツィアーノを制した。ロレンツォだった。彼はゆっくりと首を回し、部屋の入り口に立つ黒衣の修道士を見つめた。

 サヴォナローラもまた、無言のままロレンツォを見つめ返していた。かつて大聖堂の説教壇から雷の如き怒号を響かせていた激しさは、今の彼には微塵もなかった。ただ、一人の死にゆく迷える魂と向き合う、静かな聖職者の顔がそこにあった。

「修道士殿」

 ロレンツォが静かに口を開いた。

「あなたがここへ来てくれるとは、思っていなかった」

「死を前にして、神の慈悲を求めぬ魂はありません」

 サヴォナローラはゆっくりとベッドに近づき、ロレンツォを見下ろした。

「私は、一つの魂が真の信仰へと立ち返るのを見届けるために参りました。ロレンツォ殿、あなたは神の御前に行く覚悟がおありか」

「覚悟、か」

 ロレンツォは小さく息を吐いた。

「私はこの街に、多くの富と美をもたらした。だが、同時に多くの血も流させた。私の魂が神の天秤にかけられたとき、どちらに傾くのか……私にはわからん」

「富も美も、神の御前では灰と同じ。問われるのはただ一つ、御子イエス・キリストへの純粋な信仰のみです」

 サヴォナローラの声は低く、しかし不思議な温かみを帯びていた。説教壇で見せる狂気にも似た情熱ではなく、罪人を抱きとめるような深い響きだった。

「あなたの罪を悔い、神の無限の慈悲を信じますか?」

 ロレンツォはしばらくの間、じっと天井の豪奢な装飾を見つめていた。やがて、彼はゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。

「ああ。信じよう」

 その言葉を聞いた瞬間、サヴォナローラは静かに目を閉じ、祈りの言葉を口ずさみ始めた。

「私を祝福してはくれないか、修道士殿」

 ロレンツォの願いに、サヴォナローラは目を開け、静かに右手を挙げた。

「父と、子と、精霊の御名において。あなたの魂に、神の平安があらんことを」

 空を切るようにして、ゆっくりと十字が切られる。

 フィレンツェの世俗を極めた男と、信仰の極致を生きる男。本来ならば決して交わるはずのない二つの星が、この死の床という小さな空間で、奇跡のように重なり合った瞬間だった。私はペンを握るのも忘れ、その光景をただ食い入るように見つめていた。

 祝福を与え終えると、サヴォナローラは踵を返し、振り返ることなく部屋を出て行った。彼の黒い背中が扉の向こうに消えた後、ロレンツォは憑き物が落ちたような安らかな顔で目を閉じ、それから間もなくして、静かに息を引き取った。

「ああ……誰か私の頭に尽きせぬ水を、私の目に涙の泉を与えてくれ……!」

 ポリツィアーノの絶望的な慟哭が、部屋に響き渡った。私は震える手で羽根ペンをインク壺に浸し、主の口から溢れ出る哀歌を羊皮紙に書き留め始めた。

『雷の猛威が、我らが月桂樹を突如として打ち倒してしまった。すべてのムーサの合唱に、ニンフの踊りに愛された月桂樹を……』

 涙が羊皮紙に落ち、真っ黒なインクを滲ませていく。

 その夜、私は星一つないカレッジの暗い空を見上げながら、ある確信に身を震わせていた。

 ロレンツォ・デ・メディチという巨大な重石が消え去ったことで、この街を保っていた奇妙な均衡は完全に崩壊した。修道士の静かな祝福は、救いなどではない。それはこれからフィレンツェを飲み込むであろう、恐ろしい嵐の幕開けを告げる鐘の音だったのだ。


 +++++


 一四九四年の秋、フィレンツェの石畳は、かつてない熱狂と恐怖で小刻みに震えていた。

「活字を急げ! もっと早く組めないのか、坊主!」

 印刷所の主(あるじ)の怒声が、ガシャン、ガシャンという重々しいプレスの音を切り裂いた。私は額の汗を拭う暇もなく、油と煤にまみれた指で、小さな鉛の活字を次々と組み版に並べていった。

『Gladius Domini super terram cito et velociter(主の剣が、地の上に、速やかに、そして確実に下る)』

 並べているのは、もはやプラトンでもポリツィアーノの美しい詩でもない。サン・マルコ修道院の院長、ジロラモ・サヴォナローラの説教の一節だった。

「インクが足りません! 表の通りもすごい人で……」

「なら油を足せ! 今日中にこのパンフレットを五百部刷り上げるんだ。飛ぶように売れるぞ!」

 印刷所の扉が勢いよく開き、サンドロの兄、シモーネが転がり込んできた。彼の目は異常なほど見開かれ、興奮で肩で息をしている。

「聞いたか! 逃げたぞ! あの愚か者のピエロが、ついにこの街から逃げ出した!」

「ピエロ様が……メディチ家が追放されたのですか?」

 私が活字箱から手を止めて振り返ると、シモーネは狂ったように笑い出した。

「そうだ! フランス王シャルル様の軍勢がアルプスを越えてやってきたというのに、あの臆病者は戦いもせず、ピサの要塞を無条件で明け渡しやがった。怒った市民たちがシニョーリア広場に押し寄せると、命惜しさに馬に乗って逃げ出しおったわ! これで六十年にわたるメディチの専制は終わりだ!」

 シモーネは、私が組み終えたばかりの活字の版面を指差し、涙声で叫んだ。

「修道士様の予言通りだ。神の剣は本当に下ったのだ! フランスの王は、我々を腐敗から救うために神が遣わした新たなキュロス王なのだ!」

 屋外からは、暴徒と化した市民たちの怒号が響いていた。薄暗い窓から外を覗けば、すぐ目の前で、彼らの棍棒が門柱のメディチ家紋章を鈍い音とともに打ち砕いている。偉大なるロレンツォが亡くなってから、わずか二年。フィレンツェを覆っていた黄金のヴェールは引き裂かれ、血と泥にまみれた現実がむき出しになっていた。

 私は刷り上がったばかりのパンフレットの束を抱え、急いで通りへ出た。群衆をかき分けながら、サンドロの工房へと向かったのだ。メディチ家という最大の庇護者を失ったサンドロ親方が、どれほど取り乱しているか心配だった。

「親方! サンドロ親方!」

 工房に飛び込むと、そこは異様なほど静まり返っていた。

 描きかけのカンヴァスには布が掛けられ、床には顔料の粉が散乱したままだ。サンドロは窓辺に立ち、広場の方角から立ち上る黒煙をただじっと見つめていた。

「坊主か……」

 振り返ったサンドロの顔は青ざめ、一回り小さくなってしまったように見えた。

「親方、危ないですよ! 暴徒たちがメディチ家の息のかかった者たちを襲っています。親方も、ピエロ様から注文を受けていたはずじゃ……」

「逃げやしないさ。どうせ私から絵を描くことを奪ったら、ただの抜け殻だ。暴徒だって、そんなものには見向きもしないだろうさ」

 サンドロは自嘲気味に笑い、私の抱えているパンフレットに目を落とした。

「……お前も、あの修道士の言葉を印刷しているのか」

「親方の言いつけです。それに……」

 私は言葉を濁した。自分の中に芽生え始めている、ある恐ろしい感情を認めたくなかったからだ。

「それに、何だ?」

「……シモーネの言う通りかもしれません。予言は的中しました。この街は金と権力に溺れ、腐敗しきっていた。フランス軍の侵攻は、この街を根本から浄化するための、神の荒療治なのかもしれないと……」

 私は一気に言い切った。サヴォナローラの峻烈な言葉を毎日活字に組み、そのインクの匂いを嗅いでいるうちに、私の心の中にも「泣き虫派(ピアニョーニ)」たちの熱狂が静かに浸透し始めていたのだ。古いものが壊され、純粋で道徳的な新しい世界が生まれる。若かった私にとって、その高揚感はどんな芸術よりも強烈な麻薬だった。

 サンドロは怒るでもなく、ただ哀しげに私を見つめた。

「浄化、か。……たしかに、ロレンツォ様が亡くなってから、この街の美しさはどこか嘘っぽく感じられていた」

 彼はゆっくりと歩み寄り、部屋の隅に立てかけられていた一枚の板絵の前に立った。

「かつて私は、『パラスとケンタウロス』の絵を描いた。メディチの理知が、野蛮な欲望を抑え込むという美しい寓意を信じてな。だが、あれはただの幻だった。いくら美しい色を重ねても、カンヴァスの上に現れていたのは、しょせん世俗の享楽を飾るための、空虚な人形ばかりだったのだ」

 サンドロの震える手が、カンヴァスの端を握りしめる。

「神の剣が下り、メディチが去った。なら、私が描いてきた『美』とは何だったのだ? 権力者の虚栄を飾るための、ただの高級な壁紙だったのではないか? 修道士の言う通り、私は人々の魂を地獄へ引きずり込む悪魔の絵師だったのではないか?」

「親方、そんなことはありません! 親方の絵は……」

 私が反論しようとしたその時、サン・マルコ修道院の鐘が、重く、激しく鳴り響いた。

 新しい時代の幕開けを告げるその鐘の音は、工房の空気をビリビリと震わせた。

 サンドロは私からパンフレットを一枚抜き取ると、そこに印刷された修道士の言葉を、まるで飢えた者がパンを貪るように食い入るように見つめた。

「……教えてくれ、坊主。この修道士の言葉に従えば、私の魂は、本当に真実の神に辿り着けるのだろうか」

 その問いに、私は答えることができなかった。

 黄金のルネサンスは完全に死んだ。修道士の黒い影が、フィレンツェのすべてを覆い尽くそうとしていた。


 +++++


 フィレンツェの街を支配する空気が、甘やかな花の香りから、冷たく重い乳香の匂いへと完全に変わってしまった頃のことだ。

 サヴォナローラが神権政治を宣言し、キリストをこの街の王に推戴してからというもの、街角からリュートの弾き語りや若者たちの恋歌は消え去った。代わりに響くのは、少年たちによる賛美歌と、修道士の説教を復唱する声ばかりだった。私自身も、印刷機から吐き出されるサヴォナローラの言葉に日々触れるうち、粗末な暗い色の服をまとい、街の浄化を真剣に願う「泣き虫派」の青年の一人として通りを歩くようになっていた。

 だが、その純粋な信仰への高揚感は、サンドロの工房の扉を叩くときだけ、鈍い痛みに変わった。

「親方。メディチ家の図書館にあった、ダンテの『神曲』の写本をお持ちしました」

 重い木の扉を押し開けると、そこは真昼だというのに薄暗かった。かつて陽光をいっぱいに取り込んでいた大きな窓は、まるで外の世界から目を背けるように、分厚いよろい戸が半分閉ざされている。

 部屋の空気は淀み、乾ききった亜麻仁油の饐えた匂いだけが漂っていた。弟子の姿は一人もなく、部屋の中央で、サンドロがただ一人、イーゼルに向かっていた。

「……そこに置いておいてくれ」

 振り返りもせず、くぐもった声が返ってくる。私は写本を机に置き、彼が向かっているカンヴァスを背後から覗き込んだ。

 それは聖母子像だった。しかし、かつて彼が描いていた、透き通るような肌と優美な微笑みを湛えた聖母ではない。顔色は青白く、表情は硬くこわばり、どこか怯えているようにすら見えた。その衣服のひだも、風を孕んだような軽やかさは消え失せ、重く、引きつったような線で描かれている。

「親方……また、作風を変えられたのですか」

 私が恐る恐る尋ねると、サンドロは突然、持っていたパレットナイフで、描きかけの聖母の頬をガリッと削り落とした。

「あっ!」

「駄目だ。どうしても……肉の甘さが出てしまう。異教の女神たちを描き続けた罪が、私の指の骨の髄まで染み付いているんだ」

 サンドロはナイフを放り出し、両手で顔を覆った。その肩が、小刻みに震えている。

「親方、なぜそんなにご自分を痛めつけるのですか。たしかに修道士様は虚栄を捨てよと説かれていますが、親方の絵は虚栄などではありません。あなたの描いた『春』や『ヴィーナス』を見て、心が救われた者もたくさんいるはずです」

「救われただと?」

 サンドロは顔から手を離し、血走った目で私を睨みつけた。

「お前は、自分が何を印刷しているのかわかっていないのか。あの修道士の言葉を毎日活字にしているお前なら、わかるはずだろう! 私の描いてきたものは、ただ肉欲を刺激し、人々の目を天上の神から、地上の快楽へと引きずり下ろす悪魔の道具だったのだ!」

「そんな……極端です! 以前、親方は言っていたじゃないですか。美は神が世界に与えた最も確かな恩寵だと。目に見える美しさは、天上のイデアへ至る梯子なのだと!」

「それは詭弁だ!」

 サンドロの怒鳴り声が、薄暗い工房に虚しく響いた。彼はよろけるように壁際へ歩き、そこに立てかけられていた数枚の古いデッサンを床に叩きつけた。

「ロレンツォ様というパトロンを喜ばせるための、耳障りの良い言い訳だった。真実から目を背けるための、傲慢な理屈だったのだ! いいか、坊主。魂の救済に繋がらないものは、すべて『虚栄』だ。美しさなど、死の淵に立てば何の役にも立たない。ロレンツォ様の最期を見たお前なら、それが一番よくわかっているはずだろう!」

 私は息を呑み、言葉に詰まった。

 たしかに、死の床にあったロレンツォに平安を与えたのは、プラトンの哲学でも、美しい絵画でもなく、サヴォナローラの静かな祈りだった。

「……では、親方はもう、あの美しい女神たちを描かないと言うのですか」

 絞り出すようにそう尋ねると、サンドロは床に散らばったデッサンを見下ろしながら、力なく首を振った。

「描けないんだ。カンヴァスに向かっても、大聖堂で聴いたあの修道士の怒りに満ちた声が頭から離れない。恐ろしい神の裁きが、私の指先をすくませるのだ」

 私は胸が張り裂けそうだった。

 印刷工房でサヴォナローラの言葉を組み上げるたび、私はその道徳的な潔癖さに強く惹かれ、心が浄化されていくのを感じていた。腐敗した教会を正し、貧しい者を救済しようとする修道士の教えは、間違いなく「善」であった。

 しかし、その絶対的な「善」が、私がこの世で最も愛した「美」を、今まさに絞め殺そうとしている。

「親方……」

 私は床にしゃがみ込み、散らばったデッサンを拾い集めた。それは、かつて彼が描いた流れるような髪の乙女たちの習作だった。木炭の柔らかい線が、今にも動き出しそうな生命力を宿している。

「私は……修道士様の教えは正しいと思っています。でも、これらもまた、絶対に失われてはならないものだと思うのです。善を尊ぶことと、美を愛することは、本当に両立できないのでしょうか」

 私の問いに、サンドロは背を向けたまま、暗い窓の外を見つめていた。

「もし神がそれを許さないのなら、私は喜んで、己の右腕を切り落とすだろう。神の御前では、芸術などちっぽけな塵に過ぎないのだから」

 その呟きは、誰に聞かせるためでもない、彼自身の魂に向けた残酷な宣告のようだった。

 私は拾い集めたデッサンをそっと机の隅に置き、逃げるように工房を後にした。外に出ると、冷たい風が街を吹き抜けていた。シニョーリア広場の方角から、修道士の説教に熱狂する群衆の歌声が、不気味な地鳴りのように響いてくる。

 私が愛したフィレンツェは、もうどこにもなかった。

 そして、この息を呑むほどの純粋な狂気が、やがて取り返しのつかない炎となって私たちを焼き尽くすことなど、私はまだ知る由もなかったのだ。


 +++++


 一四九七年の謝肉祭(カルネヴァーレ)。例年ならば、仮面をつけた人々が狂騒に酔いしれ、街中が歌と葡萄酒の匂いで満たされるはずの季節だった。

 しかし、今年のフィレンツェは違った。シニョーリア広場の中央には、八角形の巨大な階段状のピラミッドが組まれていた。薪と柴で高く積み上げられたその塔の高さは、優に十五ペデ(約五メートル)を超えていただろう。

「虚栄を燃やせ! 悪魔の誘惑を灰に帰せ!」

 白い服を着た少年たちの甲高い合唱が、広場に響き渡る。彼らはサヴォナローラの命を受け、家々を回って「虚栄の品」を接収して回る少年警察隊だった。

 広場に集まった何万という市民の熱狂的な歓声の中、火が放たれた。

 ごうっ、と空気を吸い込む恐ろしい音とともに、炎が一気に塔を駆け上がる。真っ赤な火柱が天を突き刺し、広場全体が白昼のように、いや、地獄の釜の底のように明るく照らし出された。

 人々は次々と、自らの家から持ち寄った品々を火の海へ投げ込んでいた。

 ヴェネツィア産の豪奢な絹織物、象牙のチェス盤、リュートやハープといった楽器、白粉や香水、そして、古代の神々を象った美しい彫刻や絵画の数々。それらが炎に舐められ、黒く焦げ、弾け飛ぶたびに、群衆は恍惚とした歓声を上げた。

 私は印刷所の仲間たちと共に、熱気で顔を歪ませながらその光景を見つめていた。

 修道士の言葉を信じ、この街の浄化を願う「泣き虫派」の一員として、私もまたこの炎を正義の光だと信じようとしていた。しかし、見事な細工の施された鏡が割れ、美しい装飾写本が燃え上がるのを見るたび、私の胸の奥で何かが悲鳴を上げていた。

 その時だった。

 狂乱する群衆をかき分けるようにして、炎の前に進み出る一人の男の姿があった。

「……親方?」

 白髪の混じった頭髪を振り乱し、よろめくような足取りで歩みを進めるその男は、間違いなくサンドロ・ボッティチェリだった。

 彼の両腕には、数枚のカンヴァスと木の板絵がしっかりと抱えられていた。遠目からでもわかった。それは、かつて彼の工房で私が息を呑んで見つめた、異教の女神たちを描いた世俗画だった。透き通るような肌のニンフ(精霊)、花を纏う春の女神。

 サンドロは炎の前に立ち止まり、抱えていた一番上の板絵を、両手で高く掲げた。

「駄目だ……!」

 私は無意識のうちに叫び、群衆を力任せに押しのけて駆け出していた。顔を焼くような猛烈な熱気に息を詰まらせながら、炎めがけて板絵を放り投げようとしたサンドロの腕に、渾身の力ですがりついた。

「やめてください!!」

 私の悲痛な絶叫に、サンドロは驚いたように目を見開いた。

「坊主……離せ。お前もそこにいたのか」

「駄目です、親方! それは傑作です! あなたが精魂込めて命を吹き込んだ、神があなたに与えた美の結晶じゃないですか!」

 私は泣きながら訴えた。自分の顔が涙と汗と煤でぐちゃぐちゃになっているのがわかった。

「なぜ、自らの手で殺すのですか! メディチ家が憎いからですか? 修道士の過激な糾弾が恐ろしいからですか! お願いですから、目を覚ましてください!」

 私の腕を振り解こうとしていたサンドロの動きが、ふと止まった。

 燃え盛る炎の照り返しを受けた彼の顔には、私が想像していたような狂気も、洗脳された者の虚ろさもなかった。そこにあったのは、ただひたすらに深く、残酷なまでの『澄み切った決意』だった。

「違うんだ、坊主」

 サンドロは、泣きじゃくる私を静かに見下ろした。その声は、轟々と燃える炎の音にかき消されそうなほど穏やかだった。

「私は恐ろしいのではない。ただ……もう、騙し続けることができないだけなのだ。自分が描いてきたものが、真理を持たない空虚な肉体の幻であり、人々の目を真実から逸らすための甘い毒であったということに」

「毒なんかじゃありません! 美は……美こそは、神への大いなる賛美ではないのですか!」

「私が描くべきは、肉体の悦びではない。魂の救済なのだ」

 サンドロは、私がしがみつく腕を、ゆっくりと、しかし抗えない力で引き剥がした。

「目に見える美しさは、容易に人を盲目にする。私は長い間、その甘い虚栄に酔い痴れていた。だが、炎の前に立てばわかる。魂を救わないものは、すべて灰にすぎないのだと。……これは魂を惑わすだけの、ただの薪(たきぎ)だ。私の魂を、真実の神へと向かわせるためのな」

 そう言い放つと同時に、彼は腕の中の絵画を、燃え盛るピラミッドの中へと容赦なく放り投げた。

「ああっ……!」

 私はその場にへたり込み、炎の中に吸い込まれていく女神たちの姿を見つめた。

 火の粉が舞い散り、膠(にかわ)と卵で練られた絵の具が、ジュワッと無惨な音を立てて泡立つ。美しく白い肌がどす黒く変色し、カンヴァスが身悶えするように丸まり、あっという間に真っ赤な炎に飲み込まれていった。

「主よ! 我らが罪を焼き尽くしたまえ!」

 群衆の熱狂的な歓声が、爆発するように響き渡った。

 その凄まじい熱と音の渦の中で、サンドロはただ一人、自らの半身が灰に変わっていく様をじっと見つめていた。その頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちるのを、私は下から見上げていた。

 美を愛する私の心は、今、目の前で完全に殺された。

 人間が己の魂に対して真に「誠実」であろうとするとき、これほどまでに残酷な自己否定を強要されるのか。善を貫くためには、美を火にくべなければならないのか。

 焦げた油と木材の匂いが鼻腔を突き刺す。広場を包む狂おしいほどの熱気の中で、私は声を上げて泣き続けた。それは、美の喪失に対する悲しみであると同時に、これほどまでに恐ろしい「信仰の炎」を生み出してしまった私たち自身に対する、絶望の涙だった。


 +++++


「虚栄の焼却」から数ヶ月が過ぎた頃、フィレンツェの空気はひび割れたガラスのように、いつ砕け散ってもおかしくないほど張り詰めていた。

 サヴォナローラの道徳統制は日を追うごとに過激さを増し、酒場は閉鎖され、賭博や歌舞は厳しく禁じられた。かつては笑い声と葡萄酒の匂いに満ちていた裏路地も、今では密告を恐れて誰もが息を潜める、薄暗く陰湿な通路へと成り果てていた。

 私が印刷所への使いの帰りに、サンタ・クローチェ教会の裏手を歩いていた時のことだ。

「おい、そこの煤けた顔の『泣き虫』。ちょっと待てよ」

 路地の奥から、聞き慣れない下品な嘲笑が響いた。

 立ち止まると、派手な絹のダブレットを着崩し、腰に短剣を提げた数人の若者たちがニヤニヤと笑いながら道を塞いでいた。「コンパニャッチ」と呼ばれる、反サヴォナローラ派の過激な貴族の若者たちだった。

「修道士様のパンフレットでも配達中か? 毎日毎日、よく飽きもせずお経みたいな説教を刷りやがって」

 先頭に立つ、ドルフォ・スピーニと名乗る男の親戚らしき若者が、私の胸ぐらを唐突に掴み上げた。酒臭い息が顔にかかる。

「やめてください。私はただの印刷所の徒弟です」

「徒弟だと? お前ら『泣き虫派』のせいで、この街は息が詰まって死にそうなんだよ! 綺麗な女に声もかけられねえ、美味い酒も飲めねえ。お前らの言う『神の国』ってのは、ずいぶんと退屈な墓場らしいな!」

 若者たちはゲラゲラと下品な笑い声を上げた。私は抵抗しようとしたが、数の暴力の前に為す術もなかった。

「もうあの修道士の説教は聞き飽きたんだよ。毎度毎度『神の剣が下る』『悔い改めよ』って、耳にタコができるぜ。お前らもいい加減、あの狂人の洗脳から目を覚ましたらどうだ?」

 路地には、彼らの騒ぎを聞きつけて近所の市民たちが何人か顔を出していた。

 私は助けを求めて彼らに視線を向けた。だが、そこで私は背筋が凍るような光景を目にした。数ヶ月前まで、広場でサヴォナローラの言葉に涙し、自らの財産を火に投げ込んでいたはずの市民たちが、誰一人として私を助けようとしないのだ。

 それどころか、彼らの目にはコンパニャッチへの同調や、果てのない道徳的緊張に対する「ウンザリした」ような疲労の色が浮かんでいた。

(……空気が、変わっている)

 熱狂のピークが過ぎ去った後、人々の心に残っていたのは、終わりの見えない極端な禁欲生活への疲労だけではなかった。サヴォナローラが教皇庁の腐敗を痛烈に糾弾し続けたことで招いた外交的孤立、さらには後ろ盾であったフランス軍が撤退したことによる不安。そして、商業都市フィレンツェの命綱である他国との交易が激減したことによる、深刻な不況と空腹という冷え切った現実だった。

「おい、放してやれよ」

 不意に、路地の入り口から別の男が息を切らして駆け込んできた。コンパニャッチの仲間の一人のようだったが、その顔は異常な興奮に満ちていた。

「面白い知らせだ! 今、ローマからの早馬が着いた。教皇アレクサンデル六世様が、ついにあの修道士に破門状を叩きつけたそうだぞ! 教皇様を散々こき下ろしてきた報いが、ついに回ってきたんだ!」

「破門だと!?」

 私の胸ぐらを掴んでいた若者が、驚きと歓喜の入り混じった声を上げて私を突き飛ばした。私は石畳に倒れ込みながら、その言葉の持つ絶望的な意味を悟った。

 破門。それはキリスト教世界からの追放を意味する。教皇に逆らい続けるサヴォナローラを擁護すれば、フィレンツェ共和国全体が教皇軍や他国の攻撃に晒される。

「聞いたか、泣き虫野郎! お前らの預言者様は、ただの異端者になっちまったってよ!」

 コンパニャッチの若者たちは、まるで祭りが始まったかのように手を叩いて歓声を上げた。

 その声に呼応するように、周囲で様子をうかがっていた市民たちもざわめき始めた。

「破門だって……? それじゃあ、教皇様を怒らせちまったのか」

「俺たちの商売はどうなる。ただでさえ不景気なのに、教皇庁から取引を停止されたらフィレンツェは干上がっちまうぞ!」

「あいつ、本当に神の使いなのか? ただの口うるさい説教親父なんじゃないのか!」

 ほんのわずかな時間で、通りに渦巻いていた「恐怖」が「疑念」へ、そして「怒り」へと変異していくのを、私は地べたを這いずりながら肌で感じていた。

「おい、お前ら! あの修道士が本物の預言者だって言うなら、今こそ奇跡を見せてみろよ!」

 コンパニャッチの一人が、私に向かって唾を吐き捨てながら叫んだ。

「そうだ! 教皇様の破門状を燃やして、天から火の雨でも降らせてみろ! 奇跡を見せねえなら、あいつはただの詐欺師だ!」

「奇跡だ! 奇跡を見せろ!」

 コンパニャッチの煽りに乗せられ、いつの間にか市民たちまでが拳を振り上げて叫び始めていた。昨日まで聖者と崇めていた男に、今度は見世物小屋の奇術師のような「奇跡」を要求しているのだ。

 私は石畳から立ち上がり、逃げるようにその路地を駆け抜けた。

 背後から追いかけてくる「奇跡を見せろ」という大合唱は、かつて大聖堂で聴いた賛美歌よりもはるかに不気味で、おぞましかった。

 人間という生き物は、かくも容易く手のひらを返すのか。

 あれほどの熱狂を生み出した『純粋な信仰』は、教皇の一枚の紙切れと、ほんの少しの生活の不満で、こうもあっけなく崩れ去るものなのか。

 修道士の説教壇から放たれた炎は、今や彼自身を焼き尽くすための巨大な憎悪の炎となって、フィレンツェの街に燃え広がろうとしていた。


 +++++


 一四九八年、四月七日。シニョーリア広場は、狂気と異臭に包まれていた。

 広場の中央には、人間の背丈を遥かに超える巨大な薪の山が二列に組まれ、その間には辛うじて一人が通れるだけの細い道が作られていた。そこへ油をたっぷりと染み込ませて火を放ち、フランシスコ会とドミニコ会、両派の修道士がこの炎の回廊を歩き抜ける。そして、焼け残った者が真実の教えを語っているのだと証明するのだ。

 中世の遺物、「火の試練」。

 群衆は「奇跡」に飢えていた。教皇からの破門状、長引く不況、極端な禁欲生活への反発。市民の不満は限界に達しており、サヴォナローラが本当に神の使いである証拠を見せろと、血走った目で薪の山を囲んでいた。数万人の体から立ち上る熱気と汗の匂いが、春の生ぬるい風に乗って広場に充満している。

 私は広場の隅で、サンドロの袖を強く握りしめていた。

 親方は、自らの絵を火にくべたあの「虚栄の焼却」の日からさらに白髪が増え、ひどく老け込んでいた。だが今日は、落ち窪んだその眼に異様な光を宿し、祈るように組んだ手を小刻みに震わせながら、回廊の入り口を見つめていた。

「見ているがいい、坊主……」

 サンドロは、熱病に浮かされたような声で呟いた。

「真実の信仰は、必ずこの濁った世界に光をもたらす。神は、あの純粋な魂を見捨て給うはずがない。もし見捨てるというのなら……人間が己の魂に誠実であろうとすることは、すべて徒労だというのか」

 彼にとって、この試練はサヴォナローラの真偽を問うものではない。自らが美を灰にしてまで到達しようとした「絶対的な善と誠実さ」が、この世界に存在し得るのかを証明するための、悲壮な祈りだったのだ。

 しかし、試練は一向に始まらなかった。

 何時間も……ただ何時間も、広場の特設壇上で、両派の修道士たちが言い争いを続けていた。

「聖体を炎の中に持ち込むのは冒涜だ!」

「いや、神の御子と共にあるからこそ炎を退けられるのだ!」

「ドミニコ会の修道服には悪魔の呪文が縫い込まれているかもしれない、着替えろ!」

 果てしのない些末な神学論争と、互いの手続きの不備をあげつらう不毛な押し問答。それを遠巻きに見せられる群衆の忍耐は、すでに限界を超えていた。

「いつまで待たせるんだ!」

「早く火をつけろ! 見世物小屋の猿だって、もっと気の利いた真似をするぞ!」

「なぜ火に入らない! お前ら、本当は怖気づいてるんじゃないのか!」

 怒号が飛び交い、今にも暴動が起きそうな空気が頂点に達した、午後遅くのことだった。

 天は奇跡の代わりに、極めて無慈悲な答えを下した。

 突然、空が墨汁を流したように黒く染まり、耳を劈くような雷鳴とともに、凄まじい土砂降りの雨がフィレンツェの街を襲ったのだ。

「ああっ……!」

 文字通り、天の底が抜け落ちたような豪雨だった。

 瞬く間に広場は水浸しになり、積み上げられた薪は水を吸って重く沈み込んだ。火をつけることなど、到底不可能な状態になった。シニョーリア(政府)の役人が慌てふためきながら現れ、大声で「本日の試練は中止とする!」と叫んだ。

 その瞬間だった。

 奇跡というスペクタクルを見世物として期待していた群衆の間に張り詰めていた空気が、一瞬にして、凄まじい憎悪へと反転したのだ。

「サヴォナローラは偽物だ!」

 誰かが叫んだその声を皮切りに、広場全体が狂ったような怒号に包まれた。

「奇跡を起こせないペテン師め!」

「臆病者! 自分は安全な場所に隠れて、なぜ火に入らない!」

「俺たちを騙したな! 偽預言者をぶっ殺せ!」

 つい先日まで彼を聖者と崇め、その言葉に涙を流していたのと同じ口が、今度は彼を八つ裂きにせよと吠えている。暴徒と化した市民の一部が手近な武器を掲げ、サヴォナローラのいるサン・マルコ修道院へと雪崩を打って向かい始めた。

「逃げましょう、親方! ここにいては殺される!」

 私は雨の音と群衆の怒声に負けじと叫び、茫然と立ち尽くすサンドロの腕を力任せに引いた。暴徒の波に巻き込まれれば、修道士の信奉者である私たちも生きては帰れない。

「駄目だ……」

 サンドロは、土砂降りの雨に打たれながら、焦点の合わない目でずぶ濡れの薪の山を見つめていた。

「嘘だ……。神よ、なぜ応えてくださらない? あの純粋な祈りを、なぜ見殺しになさるのだ? あの人がすべてを捨てて求めた善と誠実さは、この泥水よりも価値がないと仰るのか……!」

 膝から崩れ落ちそうになるサンドロを、私は必死に抱え上げた。

「親方、歩いてください! お願いだから!」

 私は泥水を跳ね上げながら、半ば強引に彼を引きずって広場を逃げ出した。

 背後からは、サン・マルコ修道院の扉が叩き割られる鈍い音と、勝利に狂喜するコンパニャッチたちの雄叫びが響いてきた。

 冷たい雨に打たれながら、私は絶望的な真実を噛み締めていた。

 あの日、シニョーリア広場で美を焼き尽くした恐ろしい炎は、今日は醜い泥水にまみれてあっけなく消え去った。残されたのは、奇跡を盲信し、それが叶わぬと知るや否や暴徒と化す人間の底知れぬ浅ましさと、修道院から引きずり出され、地下牢へと連行されていく修道士の惨めな結末だけだった。


 +++++


 一四九八年、五月二十三日。

 シニョーリア広場には、再び巨大な薪の山が組まれていた。だが、一年前にサンドロが自らの絵を投げ込んだ「虚栄の焼却」のピラミッドとは違う。その中央には、太い木材を組み合わせて作られた、十字架の形をした不吉な絞首台が天を突くようにそびえ立っていた。

 広場を埋め尽くす群衆の熱気は、あの日の比ではなかった。しかし、そこに満ちていたのは純粋な信仰の祈りではなく、血と残酷な見世物を渇望する、獣のような熱狂だった。

「親方……見ない方がいい。帰りましょう」

 広場の最後尾で、私はサンドロの背中を庇うように立ち、必死に声をかけた。

 しかしサンドロは、まるで石像のように動かなかった。彼の顔は白蝋のように青ざめ、虚ろな目はただ一点、広場の中央へと続く細い花道を見つめている。

「見届けなければならない」

 サンドロの唇から、かすれきった声が漏れた。

「人間の最も純粋な魂が、この狂った世界でいかなる結末を迎えるのかを」

 やがて、怒号と嘲笑の波が広場の端からうねり、特設された木道を歩いてくる三人の男たちの姿が現れた。

 サヴォナローラと、彼の最も忠実な側近であったフラ・ドメニコ、そしてフラ・シルヴェストロだった。

 私は息を呑んだ。

 サヴォナローラは、かつて大聖堂の説教壇で雷鳴のような声を響かせていた男とは別人のようだった。過酷な「吊り下ろしの刑」による凄惨な拷問によって両肩の骨は砕け、肉は裂け、自力で歩くことすらおぼつかない。ただ、異端の告白書に署名させるためだけに、右腕の自由だけが残されているという噂は本当だったのだ。彼らは聖職者の衣服を剥ぎ取られ、みすぼらしい下着姿のまま、群衆の罵声の的となっていた。

「偽預言者め! 地獄へ落ちろ!」

「俺たちの商売を邪魔しやがって! 焼け死ぬ前に奇跡を見せてみろ!」

 私は両耳を塞ぎたくなった。つい数ヶ月前まで、彼を「神の使い」と呼び、涙を流してその衣服の裾に触れようとしていた同じ市民たちが、今は石や汚物を投げつけているのだ。人間とは、これほどまでに浅ましく、手のひらを返す生き物なのか。

 最初に絞首台の階段を登ったのは、フラ・シルヴェストロだった。彼は怯えるどころか、ほとんど走るようにして階段を駆け上がり、首に鉄の輪を掛けられる際、下で待つサヴォナローラに向かって大声で叫んだ。

「父ジロラモよ、見よ! イエス・キリストの騎士がいかに喜びに満ちて死んでいくかを!」

 その声は、群衆の怒号を切り裂いて広場の隅まで響いた。次の瞬間、彼の体が宙に浮き、絶命した。続いてフラ・ドメニコが絞首され、最後に、両脇を抱えられたサヴォナローラが階段を登った。

 群衆の嘲笑が、一斉に最高潮に達する。

 しかし、サヴォナローラはもはや何も語らなかった。言い訳も、呪いの言葉も、奇跡への祈りすら口にせず、ただ静かに初夏の青い空を見つめていた。

 処刑を司る司教が進み出て、冷酷な声で宣告した。

「ジロラモ・サヴォナローラ。私は汝を地上の教会から、そして天上の教会から追放する」

 その瞬間、静まり返った広場に、砕かれた両肩を引きずりながらも毅然と顔を上げたサヴォナローラの声が響いた。

「地上の教会から追放することはできても、天上の教会から追放することは、あなたにはできない(Militante, non triumphante: hoc enim tuum non est)」

 それは、すべてを奪われた男が最後に遺した、揺るぎない魂の勝利の宣言だった。

 鉄の輪が首に掛けられ、床板が外される鈍い音が響いた。

 そして、三人の体がぶら下がった絞首台の下に、火が放たれた。

「燃えろ! 燃えろ!」

 炎が彼らの肉体を包み込むと、広場は異様な歓喜と狂乱に包まれた。焦げた肉の匂いが、春の風に乗って広場中に充満していく。かつての聖者は、今やただの黒焦げの肉塊へと変わり果てていった。

 その凄まじい熱と臭気の渦の中で。

「どうしてだ……」

 足元から、地を這うような低い呻き声が聞こえた。

 見ると、サンドロが石畳の上に両膝をつき、両手で顔を覆っていた。その指の隙間からは、血のように赤い涙がとめどなく溢れ出している。

「答えてくれ、坊主! 真の善を求めた結果がこれなのか! 神を愛し、己の魂に対してどこまでも誠実であろうとした人間が、なぜこのような炎に焼かれねばならないのだ!」

 サンドロは、泥にまみれた石畳を血が滲むほど強く叩き、子どものように声を上げて泣き崩れた。

 私は、泣き叫ぶサンドロの背中にすがりつき、ただ一緒に涙を流すことしかできなかった。

 炎の熱気に当てられ、喜悦に歪む群衆の顔が悪魔のように見えた。彼らは善も悪も、美も醜も理解していなかった。ただ、自らの鬱憤を晴らすための「生贄」が欲しかっただけなのだ。

 サヴォナローラの極端な道徳は、間違いなくこの街を窮屈にし、芸術を破壊した。しかし、彼を火あぶりにしているこの大衆の浅ましさに比べれば、彼の抱いていた「純粋さ」がいかに高潔なものであったか。

 遺骨すら聖遺物として崇拝されることを恐れた政府の手によって、彼の灰はすべてアルノ川へと投棄された。

 美を燃やした修道士は、自らもまた炎に焼かれ、灰となって消えた。フィレンツェの黄金時代は、こうして完全な終わりを告げたのだ。血と焦げた肉の匂いという、決して消えることのない深い傷跡を私たちの魂に刻みつけて。


 +++++


 サヴォナローラの死後、熱狂から冷めたフィレンツェの街を支配したのは、沈黙と恐怖だった。

 教皇や政府の迫害を恐れた「泣き虫派」の多くは、ひっそりと息を潜めるか、街を捨てるかの選択を迫られた。熱烈な支持者であったシモーネもボローニャへ逃れることになり、修道士の説教を印刷し続けていた私もまた、彼らと共に亡命の道を歩む決意をした。

 私がフィレンツェを去る前夜。最後に訪れたのは、あのサンドロ・ボッティチェリの工房だった。

 深夜の工房には、一本の蝋燭の火だけが静かに揺れていた。かつてメディチ家の寵愛を受け、華やかな弟子たちで溢れかえっていたその部屋に、今はサンドロただ一人が、背中を丸めてイーゼルに向かっていた。

「親方……明日、私はこの街を発ちます」

 私が声をかけると、サンドロはゆっくりと筆を置き、振り返った。その顔には、広場で血の涙を流していた時の絶望は不思議と消え失せ、底知れぬ静謐さが漂っていた。

「そうか。お前も行くのだな」

「はい。親方も、シモーネと一緒に逃げませんか。ここにいては、いつコンパニャッチの連中に襲われるか……」

「私はここを離れないよ。私には、まだ描かなければならないものがあるからな」

 サンドロは身をずらし、私がカンヴァスを見られるようにした。

 そこに描かれていたのは、異教の女神ではなく、キリストの誕生を祝う天使たちの姿だった。画面の上部では天使たちが輪になって踊り、下部では天使と人間が抱き合っている。そして彼らの足元では、悪魔たちが岩の隙間から地底へと逃げ惑っていた。

「これは……」

「『神秘の降誕』だ」

 サンドロは静かに答えた。

「あの日、広場で燃え上がった炎は、私の愛した美を灰にし、私が信じた修道士を黒焦げの肉塊に変えた。だが……」

 サンドロは、カンヴァスの最上部に書き込まれたギリシャ語の銘文を指でなぞった。

「『イタリアの苦難の時代に、悪魔が解き放たれた間に描いた。その後、悪魔は縛られるであろう』……私は見たのだ、坊主。あの絞首台の上で、修道士が最期に見せた静かな顔を。彼は絶望して死んだのではない。自らの魂の誠実さを、ただ天の神へ捧げて死んでいったのだ」

 蝋燭の光が、サンドロの瞳の奥に宿る強い光を照らし出した。

「炎で焼かれても、決して消えないものがある。私が火にくべた肉体の美しさは灰になったが、魂の底にある真実の祈りまでは、誰にも焼き尽くすことはできない。私はそれを描く。このカンヴァスの上に、肉体と魂が完全に調和した、真の美を描き出すのだ」

 その絵は、圧倒的な暴力を前にして彼が到達した、祈りそのものだった。私は声もなく頷き、その絵に込められた静かな光を深く目に焼き付けた。それが、私が偉大な画家サンドロ・ボッティチェリを見た、最後の姿となった。

 そして——。


 +++++


「おい、聞いているのか」

 不意にかけられた声に、私は弾かれたように目を開けた。

 絵の具と亜麻仁油の匂いは消え去り、そこにあるのは、活字を鋳造する炉の熱気と、インクの煤の匂い。一五二三年のドイツ、ヴィッテンベルクの印刷工房だった。

「すみません、ルター様。少し、昔のことを思い出しておりました」

 マルティン・ルターは、刷り上がったばかりの小冊子を愛おしむように撫でながら私を見た。それは、あのサヴォナローラが火刑に処される直前、獄中で神への祈りを綴った瞑想録——マルティン・ルターが自ら序文を寄せ、ドイツで印刷させたばかりの小冊子『インフェリクス・エゴ』だった。

「お前がその生涯を見届けたあの修道士は、立派な男だったのだな」

「ええ……。ですが、彼は異端として火刑に処されました。人々は彼を偽善者と呼び、その名誉はすべて泥にまみれました」

 ルターは静かに首を振った。

「激しい拷問で両肩を砕かれながらも、彼は残された右腕だけで、獄中からこの書を書き残した。すべてを奪われ、大衆に裏切られた暗闇の中でな」

「彼は、己の弱さを認めて、ただ神の慈悲だけを求めたのですね」

「そうだ。見栄も虚栄もない、一人の人間の最も純粋で誠実な魂の叫びだ」

 ルターは力強く断言した。

「人々が彼を異端と呼ぼうと関係ない。彼こそは、真の信仰の殉教者なのだ」

 ルターの言葉が、三十年の時を超えて、私の胸の奥深くに突き刺さった。

 ジロラモ・サヴォナローラは、大衆の残酷な手のひら返しに遭い、炎に焼かれながらも、自らの言葉を通じて「誠実さ」を貫き通した。

 そして、フィレンツェを焼き尽くしたあの熱狂の中で、サンドロ・ボッティチェリもまた、自らの芸術を通じて「誠実さ」を貫こうと苦悩し、最後には祈りのような美に到達したのだ。

 美を愛することと、善を尊ぶことは、決して矛盾するものではなかった。

 真に恐るべきは、美を装った権力者の虚栄や、善を装った大衆の無責任な熱狂だったのだ。真の誠実さとは、時代や体制がいかに変化しようとも、己の魂の救済に向かって内省し続ける孤独な祈りの内にのみ宿る。

「ルター様」

 私は、活版印刷機から真新しい紙の束を引き寄せた。

「この修道士の言葉は、かつてはフィレンツェという小さな街を焼く炎でした。しかし、あなたの序文とこの印刷機に乗って、今度は全ヨーロッパの闇を照らす暁の光となるのですね」

「ああ、そうだ。この言葉は決して灰にはならない」

 ルターは力強く頷き、工房の奥へと歩き去っていった。

 私は活字箱の前に座り、インクをたっぷりと含ませた羽根ペンを手に取った。

 あの日、アルノ川に捨てられた灰は、海を渡り、長い時を経て、このドイツの地にまで確かに届いたのだ。


 ――私はペンを走らせ始めた。

 華やかなルネサンスの陽光、ヴィーナスの白い肌、虚栄を焼く恐ろしい炎、そして、激動のフィレンツェを不器用に、しかしどこまでも誠実に生き抜いた、あの愚かで偉大な男たちの真実を書き残すために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。