後白河院
本作は『平家物語』をベースとしたフィクションです。
作者の歴史知識は「平家物語を読んだことがある」レベルですので、時代考証等には乏しい点、ご容赦ください。
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「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ……」
深夜の法住寺殿——後白河法皇の住まう御所に、しわがれた、しかし異様な熱を帯びた声が響き渡っていた。
声の主は、天下の主宰者である後白河法皇その人である。御簾の奥、灯明の揺らめく薄暗がりの中で、法皇は自ら鼓を打ち鳴らし、狂ったように当時の流行歌である今様を歌い続けていた。
「遊ぶ子どもの声きけば、わが身さえこそ揺るがるれ……」
額には玉のような汗が浮かび、首筋の血管は青く浮き出ている。すでにおよそ三刻は歌い続けているだろうか。喉はとうに限界を迎え、吐く息には微かに血の匂いが混じっていた。それでも法皇は止まらない。いや、止められないのだ。
周囲に控える近臣や世話をする女房たちは、疲労と眠気でとうに限界を超えていたが、最高権力者の異常なまでの熱狂を前に、ひたすら息を潜めて付き従うしかなかった。誰一人として、この異形の法皇の真意を測りかねていた。
法皇の脳裏には、極彩色の仏画のように、音と拍子だけが渦巻いていた。
(そうだ、この世のすべては幻にすぎぬ。現世の栄華など、朝露のごとく消え去るものよ)
歌の陶酔の中で、法皇は確かな無常観に抱かれていた。かつて雅仁親王と呼ばれ、皇位など回ってくるはずもないと周囲から軽んじられていた若い頃から、彼はそう信じてきた。学問にも武芸にも疎い暗愚な主君と嘲笑され、ただ市井の流行歌にのみ血道を上げていた日々。しかし、運命の悪戯か、気がつけば玉座に座らされ、保元の乱、平治の乱という骨肉の争いを経て、彼はこの国の頂点に君臨する怪物となっていた。
神仏の加護も、血筋の尊さも、武士の力も、突き詰めればすべては空虚な幻影である。だからこそ、今様という刹那の熱狂に身を焦がすことだけが、生きているという生々しい実感を与えてくれるのだ。
「はっ……ははは!」
不意に、法皇は歌を止め、鼓を板敷きの床へと放り投げた。
乾いた音が響き、広間に張り詰めていた空気が一気にゆるむ。
「……法皇様。いかがなさいましたか」
畳の上に置かれた茵の傍らから、恐る恐る声をかけたのは、側近の公家である藤原成親であった。
法皇は肩で息をしながら、先ほどまでの熱狂が嘘のように冷ややかな目で成親を見下ろした。その瞳の奥には、歌で高ぶった感情の欠片も残っていなかった。ひたすらに冷徹な、盤上の駒を見定める打ち手の目である。
「成親。皆を下がらせよ。そなたと話がしたい」
法皇の静かな声に、女房たちは逃げるように母屋を後にした。頑丈な扉に守られた奥の塗籠に成親を招き入れ、二人きりになると、法皇は乱れた衣を直すこともせず、ひじ掛けに寄りかかった。
「……京都の東山、鹿ケ谷の山荘での密議、つつがなく進んでおるか」
法皇の問いに、成親の顔にさっと緊張が走る。
「はっ。同じく側近の西光や、僧侶の俊寛らと共に、着々と。平家の横暴、もはや天下の非難の的でございます。今こそ、あの平清盛入道の専横を断ち切り、本来の政治を取り戻す好機かと」
成親は熱っぽく語った。平家一門が我が世の春を謳歌し、朝廷の人事から富の独占までを思いのままにする現状に、旧来の貴族たちの不満は頂点に達していた。法皇の側近である成親らもまた、平家を打倒するための陰謀を企てていたのだ。
「そうか。清盛めも、すっかり図に乗ったものよな。かつては私の手足となってよく働いたが……枝葉が茂りすぎた大樹は、日差しを遮るゆえ、刈り込まねばならぬ」
法皇は同情を寄せるように頷き、成親の肩に手を置いた。
「頼りにしているぞ、成親。そなただけが頼りだ。私のために、よくやってくれ」
「ありがたき幸せに存じます……! この成親、法皇様のためならば命を懸けて平家を討ち滅ぼしてご覧に入れます!」
感動に打ち震え、平伏する成親を見下ろしながら、法皇の内心にはそよ風すら吹いていなかった。
(愚かな男よ)
法皇は心の底で冷笑した。
成親たちの企みなど、所詮は戦を知らぬ者たちのたわ言にすぎない。強大な武力と財力を持つ平家に、あのようなお粗末な陰謀で勝てるはずがないのだ。失敗することは目に見えている。
だが、法皇はあえて止めない。むしろ、暗にけしかけている。
もし万が一、奇跡的に成親たちが清盛の首を取れば、それでよし。だが、十中八九露見して失敗した時は——
(その時は、こやつの首を清盛に差し出してやればよい。それだけの事だ)
一切の躊躇もなく、昨日まで寵愛していた臣下を切り捨てる算段が、法皇の頭の中ではすでに組み上がっていた。
現世など所詮は幻。人間もまた幻。ならば、自分の権力を維持するための盤面で、どの駒がどう動いて死のうが、それは些末な出来事にすぎない。法皇にとって、情けや義理などというものは、政治の場において何の価値も持たない、取るに足らぬごみくずであった。
「……下がってよいぞ、成親。大儀であった」
「はっ。失礼つかまつります」
希望に満ちた顔で退出していく成親の背中を見送りながら、法皇は再び薄暗い広間に一人残された。
静寂が戻った御所で、法皇はゆっくりと立ち上がり、御簾を上げて夜空を見上げた。西の空、平家一門の屋敷が立ち並ぶ六波羅の方向——清盛のいる方角である。
清盛。かつて共に血みどろの戦をくぐり抜け、共にこの国の頂点を極めた男。
決して嫌いではない。むしろ、あの途方もない野心と実行力は、法皇の退屈な治世において唯一、血湧き肉躍る刺激を与えてくれる存在だった。しかし、二つの太陽は同じ天には昇れない。協調の時代は終わり、今は互いの喉笛を噛み切る機会をうかがう対立の時代に入っていた。
「清盛よ。お前はどう動く? この老いぼれの仕掛けた、つまらぬ罠をどう食い破る?」
法皇の唇の端が、三日月のように歪んで吊り上がった。
血生臭い権謀術数の罠を張り巡らせながら、一方でそのすべてを「むなしい遊び」と見なしている自分自身のおぞましさ。法皇はそれを自覚しながらも、決して立ち止まることはできなかった。
「遊びをせんとや……生れけむ……」
誰に聞かせるでもなく、喉から血の味をにじませながら、法皇は再び低く今様を口ずさみ始めた。夜の闇に吸い込まれていくその歌声は、呪いのように、やがて都全土を血に染める戦乱の幕開けを告げていた。
予想通りというべきか、鹿ケ谷の企てはあっけなく崩れ去った。
密議に加わっていた摂津源氏の多田行綱の裏切りにより、平清盛は激怒とともに軍勢を動かし、陰謀に関わった者たちを一網打尽にした。西光は凄惨な拷問の末に首をはねられ、俊寛は遠い南の鬼界ヶ島へと流された。そして、法皇が「そなただけが頼りだ」と甘い言葉をかけた藤原成親もまた、備前国へ流罪となった直後に崖から突き落とされ、非業の死を遂げた。
次々と届く旧臣たちの悲惨な末路の報せを聞きながら、法皇は顔色一つ変えなかった。
「そうか、成親も死んだか。まあ、武芸の心得もない公家が武家を倒そうなどと、土台無理な話であったのだ」
まるで遠い国の出来事であるかのように、法皇は喉を労るための生姜の白湯を小さくすすった。己がそそのかしておきながら、そこに罪悪感など微塵もない。使えなくなった駒が盤上から取り除かれた、ただそれだけのことであった。
しかし、水面下の火種はそれでは収まらなかった。治承三年、清盛の長男・重盛が病死したことを契機に、法皇がその遺領を平家に無断で没収すると、清盛の怒りはついに抑えきれぬ一線を超えた。数千の軍兵を率いて自らの拠点である福原から京へと攻めのぼり、前代未聞の武力政変を決行する。天皇を補佐する関白や高官たちを次々と解任し、朝廷の主要な役職を平家一門で独占したのである。
そして、平家の数千騎の矛先はついに法皇自身へと向けられた。
福原から大軍を率いて京を制圧した平清盛は、みずからは別の屋敷に深く留まり、法皇の御所を何重もの兵で包囲させた。御所に上がり込んできたのは、清盛の武装した使者たちである。彼らは刀に手をかけるような野蛮な振る舞いは見せなかったが、その一挙手一投足には、法皇の命など指先ひとつでどうとでもなるという、底知れぬ凄みが宿っていた。
「院におかれては、この度のこと、いかに申し開きをなさるおつもりか。入道相国より、鳥羽殿へお移りいただくよう強く願い出よとの仰せにございます」
対する法皇は、怯えるでもなく、怒るでもなく、ただ静かに兵たちの影を見つめ返した。
「申し開きも何も、亡き重盛の遺領を私が裁量で収めたまでのこと。清盛がとやかく言う筋合いはあるまい。……まあよい、清盛の望むままにするがよい」
法皇は抵抗を諦め、京の南にある鳥羽殿への幽閉を受け入れた。
法皇による政治は停止され、天下は完全に平家一門のものとなった。世の者は法皇の没落をうわさし合った。当の法皇は、やがて以仁王の挙兵などを受けて市中の屋敷へと移されるなど緊迫した状況下に置かれながらも、相変わらず流行歌を歌い、経を読み、その時が来るのを待っていた。
(勝った気でいるがよい、清盛。だが、お前の築いた城は大きすぎる。大きすぎる城は、自らの重みで必ず崩れるものだ)
法皇は底知れぬ忍耐力で、その時が来るのを待った。現世の勝敗など、時の流れが簡単に裏返すことを、彼は誰よりも知っていた。
転機は、想像以上に早く、そして唐突に訪れた。
法皇の息子である以仁王の挙兵を皮切りに、関東で源頼朝が、信濃の山奥で木曾義仲が立ち上がり、全国で平家を打倒する火の手が上がった。平家がその反乱鎮圧に奔走し始めた矢先のことである。
法皇の元に、信じがたい凶報が飛び込んできた。
「平清盛様が……お亡くなりになりました」
近臣からの報告に、法皇は手から滑り落ちた数珠が床を打つ音を、ひどく遠くに聞いた。
「……死んだ、だと? あの清盛が?」
「はっ。数日前から原因不明の高熱を出され……水をかけてもたちまち煮え湯となって沸き返るほどの恐ろしい熱に焼かれ……もはや手の施しようもなく、息を引き取られたと」
広間に、重く冷たい静寂が降りた。
法皇はしばらくの間、虚空を見つめたまま身動き一つしなかった。
最大の政敵が死んだのだ。自らの権力を復活させ、再び天下を握るまたとない好機である。報告を聞いた瞬間、法皇の全身を歓喜が貫いた。これで再び天下は思いのままである。(勝った。ついに清盛が死んだ!)
だが、その激しい高揚は、ふいに潮が引くように消え去り、あとには言い知れぬ空しさが押し寄せてきた。ぽっかりと、心臓の裏側に巨大な穴が空いたような奇妙な感覚だった。
(死んだのか。あれほど現世に執着し、天をも焦がすほどの野心を燃やしていた男が、熱病一つで、こうもあっけなく……)
保元の乱で共に戦い、時に手を結び、時にだまし合い、互いの命と権力を懸けて盤上で殺し合ってきた。憎み、恐れ、忌み嫌ったが、後白河法皇という怪物の相手を務められたのは、この日本国において平清盛、ただ一人であったのだ。
「……清盛よ」
法皇はつぶやいた。
「お前がいなくなっては、この盤上はひどく退屈なものになるではないか」
それは、友を失った悲しみではない。巨大な星が落ち、己を映し出す鏡が砕け散ったことへの、絶対的な孤独感であった。
法皇はゆっくりと立ち上がり、冷たい床を踏みしめた。感傷に浸る時間は終わりだ。清盛という巨大な柱を失った平家は、必ず崩壊する。そして、飢えた狼の群れのごとき源氏の武将たちが、都を目指して押し寄せてくるだろう。
(さあ、次の遊びを始めようぞ)
法皇の瞳に、再び冷徹な政治家の光が宿る。しかしその奥底には、清盛の死によってより一層深まった、拭いがたい「この世の無常」の暗い影が、濃くへばりついていた。
清盛という巨大な重石が外れた平家の崩壊は、法皇の予想をはるかに超える速さであった。
跡を継いだ三男の宗盛には、父ほどの器量も覇気もない。信濃から木曾義仲の軍勢が怒涛のごとく都へ迫ると、宗盛は戦わずして都を捨てる決意をした。
彼らは法皇を連れて西国へ逃れようとしたが、法皇は一枚上手であった。平家の動きを察知するやいなや、いちはやく比叡山へと脱出し、平家を見捨てたのである。幼い天皇と三種の神器は持ち去られたが、事実上の最高権力者である法皇が都に残り、平家を追討せよとの命令を下したことで、平家は一転して国家の敵へと転落した。
盤面は、鮮やかにひっくり返った。
都を奪還した英雄として、木曾義仲が意気揚々と京の都へ入った。
法皇は歓喜をもってこの新たな武士の頭領を迎える……はずであった。しかし、御所での対面を果たした瞬間、法皇の胸中を支配したのは、感謝でも安堵でもなく、圧倒的な「嫌悪」であった。
「木曾の義仲、法皇様におかれましてはご機嫌うるわしく……!」
平伏する義仲の声は、御所の天井が震えるほどに馬鹿でかい。身にまとう衣服はどこか泥臭く、高貴な公家たちの前であるにもかかわらず、その立ち振る舞いには宮中の作法など微塵も感じられなかった。
御簾越しに義仲を見下ろしながら、法皇は扇の陰で顔をしかめた。
(なんだ、このむさ苦しい男は……)
清盛には、武骨さの中にも都の文化を理解するだけの教養があった。公家たちと渡り合うだけの狡猾さも、政治の機微を読む目も持っていた。
しかし、目の前にいる義仲はどうだ。粗野で、無学で、まるで山から下りてきたばかりの猿ではないか。
おまけに、義仲の軍勢は都の食糧を食い荒らし、街中で略奪や乱暴を繰り返しているという。統制も取れぬ野盗の群れを率いながら、我が物顔で大通りを歩くこの山猿に、法皇の忍耐はとうに限界を超えていた。
「義仲よ。このたびの大功、誠に見事であった。頼もしく思うぞ」
声色だけは慈悲深き君主を装いながら、法皇の目は冷たく義仲を値踏みしていた。
(この男に都は任せておけぬ。早々に用済みにして、盤から退場させねばならん)
法皇は直ちに、関東で巨大な勢力を築きつつあるもう一人の源氏——源頼朝と密かに連絡を取り始めた。
これに焦った義仲は、法皇に対して無礼な要求を繰り返し、次第に両者の対立は決定的なものとなっていく。法皇は寺の僧兵や都の武士をかき集め、自らの住まいに立て籠もって義仲をけん制した。
だが、ここで法皇は義仲という男の「常識の無さ」を見誤った。
義仲はあろうことか、法皇のいる御所に大軍で襲いかかったのである。
すさまじい雄叫びとともに、御所に火のついた矢が次々と撃ち込まれる。かつて清盛は、法皇を兵で包囲しこそすれ、直接的な刃は御所に向けさせなかった。それゆえ、いま目の前で繰り広げられる暴力は、長年、権威と権謀術数だけで武士を操ってきた法皇にとって、まったくの想定外であった。
「……愚か者が。仏の罰を恐れぬか」
燃え盛る炎と逃げ惑う女房たちの悲鳴の中、法皇は屈辱に唇をかみしめながら輿に乗せられ、別の屋敷へと連行された。
またしても幽閉の身。今度の相手は、清盛のような政治的駆け引きすら通じない、純粋な暴力の化身である。世が世なら、ここで法皇の命運も尽きていたかもしれない。
だが、転んでもただでは起きないのが後白河法皇という怪物である。
幽閉され、義仲の監視下に置かれながらも、法皇は暗い部屋の奥で、底意地の悪い笑みを浮かべていた。
(義仲。お前は取り返しのつかない間違いを犯した。これで心置きなく、お前を討つ大義名分が立ったわ)
法皇が密かに放った使いは、すでに関東の頼朝の元へ到着していた。
「国家の敵である木曾義仲を討ち果たせ」という血を吐くような悲痛な命令を受け取った頼朝は、直ちに弟の範頼と義経を大将とする大軍を都へ向けて出立させたのである。
やがて、頼朝の大軍が迫っているという報せに、義仲の軍は恐れおののき、たちまち崩れ去っていった。
混乱の最中、法皇を救出に現れたのは、鎧兜に身を包んだ若き武将であった。
「院の御所に弓引く逆賊、すでに追い散らしました。鎌倉の頼朝が名代、源九郎義経、お救出しに参上いたしました」
庭前に片膝をつき、平伏する義経の声には、純粋な忠誠と戦への抑えきれぬ生気があふれていた。義仲のような泥臭さはない。洗練された身のこなしと、真っ直ぐすぎる情熱。
法皇は、怯えていたはずの顔を一瞬で柔和な笑みに変え、義経の肩を優しく抱き寄せた。
「おお……そなたが頼朝の弟か。よくぞ、よくぞ来てくれた。私はこの日をどれほど待ちわびたことか」
涙ぐむ法皇に、義経もまた感極まったように平伏した。
法皇の脳裏では、すでに新たな計算が始まっていた。
(よい駒だ。純粋で、単純で、何より比類なき戦の才能にあふれている。この若き天才を私の剣として振るえば、義仲のみならず、平家をも一掃できようぞ)
現世は幻。人もまた幻。
血気盛んな若武者の背中を見つめながら、法皇は冷酷な笑みを腹の底に飲み込み、再び盤上へと舞い戻るのだった。
源義経の登場により、盤上の動きは激流と化した。
一ノ谷、屋島、そして壇ノ浦。義経は法皇の期待をはるかに超える軍略を見せつけ、平家一門を海のかなたへ葬り去った。その過程で、法皇は義経を大いに持てはやし、頼朝の許可なきままに高い位を与え、兄と弟の間に決定的な亀裂を生じさせた。
頼朝が怒り、義経を疎み始めると、法皇は当初こそ両者の調停を試みるそぶりを見せ、義経をかばおうとした。だが、強大な東国武士団を率いる頼朝から大軍を差し向けると脅迫されると、都で孤立する義経など守りきれるはずもない。己の保身と朝廷の存続のため、法皇は無情にも御所の扉を閉ざし、かつて愛用した剣をへし折るように、義経を追討せよとの命令を頼朝に下したのである。
義経もまた、法皇にとっては使い捨ての駒に過ぎなかった。
壇ノ浦の決戦からまもなくのこと。
捕虜となった平宗盛らが、都へ引き出された。罪人として京の大通りを引き回す、無慈悲な見せしめである。
後白河法皇は六条東洞院に自身の牛車を堂々と停車させ、御簾の隙間からその行列を凝視していた。左右には同じく牛車を並べた公卿たちの列が連なり、押し黙ったまま見送っている。
沿道を埋め尽くす民衆の罵声の中、萌黄色に八葉の紋が描かれた立派な車が進んでくる。前後のすだれは取り払われ、車中の平宗盛のやつれ果てた姿は白日の下にさらされていた。
その車の鼻を執り、涙に暮れて牛を進めていくのは、かつて宗盛に仕えた牛飼いの三郎丸であった。忠義の牛飼いの涙と、落ちぶれてなお格式高い車に乗せられるという残酷な対比が、哀れさを一層引き立てていた。
かつて天下の権を握った平宗盛。そして一門の貴公子たち。
いずれも、清盛の屋敷で音楽を共にし、歌の宴で華やかに舞った見知った顔である。あれほど絢爛豪華な衣をまとい、誇り高く振る舞っていた者たちが、今は泥にまみれ、ただうつむいて震えている。
(……これが、平家の果てか)
牛車の御簾の奥で、法皇は冷然と目を細めた。
平家一門の執念が、この大通りで散っていく。自分があれほどの手を回し、あちらへ転がし、こちらへ突き飛ばしてきた盤上の権力闘争の果てが、ここにある。
勝ったのは自分だ。自分を幽閉した憎き平家という巨大な障壁を取り除き、権力を我が手に収めた。すべては、私が望んだ光景ではないか。
そう確信していた。
しかし、その時である。
頬に、冷たいものが伝った。
法皇は自身の指先に触れ、それが涙であることに気づき、自分自身に驚愕した。
(なぜ……私は泣いているのだ?
憎き敵が滅びたというのに、なぜ涙など……)
憐れみではない。いや、少しはあるのかもしれないが、それだけではない。
目の前の惨状を見つめているうちに、法皇の意識は自分自身の存在を超えて拡大した。
自分がそそのかし、けしかけ、己の野望のために盤上から払い落としてきた者たち。その深い業を自覚しながらも、法皇は、彼らも、そして天下を操ってきた自分自身すらも、しょせんは等しく無常の濁流に飲み込まれていく幻に過ぎないという事実に打ちのめされていた。
誰一人として、この無常という大きな流れから逃れられない。
どれほど策略をめぐらそうとも、どれほど富を積み上げようとも、最後はみな、等しく土に帰るだけなのだ。昨日まで天を舞っていた者が、今日は泥をはう。それは、自分もまた「明日には消えゆく幻」であることを突きつけてくる。
「ああ……」
法皇の口から、かすれた吐息が漏れた。
世界全体が、瞬きをしている間に消え去るような、壮大で空虚な無常観。そのあまりの巨大さに、法皇の魂が耐えきれず、涙となってあふれ出したのだ。
「法皇様……?」
付き従う近臣がけげんそうに御簾の中をうかがう。
法皇は慌てて袖で顔を拭い、いつもの不敵な笑みを貼り付けた。
「……何でもない。もうよい、車を戻せ」
冷徹な支配者の顔に戻った法皇は、哀れな敗者の行列を背に、ゆっくりと御所へと車を返させた。
内心の動揺を隠すように、法皇は小さくつぶやく。
「遊びをせんとや……」
もう、その歌声に熱狂はなかった。ただ、空っぽの響きだけが、車輪のきしむ音に消えていった。
平家滅亡から一年が過ぎた春のこと。
後白河法皇は、わずかなお供だけを連れて、都から離れた大原の山奥へと足を運んでいた。目指すは、山のふもとにひっそりとたたずむ小さな寺である。
そこには、平家一門でただ一人、生き地獄の結末を見届け、仏門に入った女がいた。清盛の娘であり、高倉天皇の后、そして壇ノ浦で海の底へと沈んだ幼き安徳天皇の母——建礼門院徳子である。
都の喧騒が嘘のように、大原の里は静まり返っていた。苔むした細道を抜け、粗末な寺にたどり着いた法皇は、思わず息をのんだ。
「……女院よ」
法皇が静かに声をかけると、建礼門院は振り返り、深く頭を下げた。恨み言の一つもぶつけられるかと覚悟していた法皇だったが、彼女の瞳には、怒りも憎しみも、もはや微塵も残っていなかった。
「法皇様。よくぞこのような山深きわび住まいへ、お越しくださいました」
建礼門院は淡々と語り始めた。華やかな栄華の頂点から、平家が都を落ち延びた絶望、そして壇ノ浦で海中へ身を投げたが、自分だけが生き残ってしまった凄絶な記憶。彼女は「私はこの現世で、天上界から地獄界まで、すべての六道輪廻の世界を巡りました」と静かに微笑んだ。
その清らかな声を聞きながら、法皇の胸の奥底で、何かが激しくきしんだ。
(この女は、すべてを失ったというのに、なんと満ち足りた顔をしているのだ……)
法皇は己のしわだらけの両手を見つめた。
勝つために、生き残るために、どれほどの人間を欺き、見殺しにし、この手で地獄へ突き落としてきたことか。成親、義仲、義経、そして目の前の女の血族たちや幼き安徳天皇。
すべてを蹴落として玉座にしがみつき、天下の権を握ったはずの自分の手には、結局、血の匂いと取るに足らぬごみくずしか残っていないではないか。
一門の弔いと我が子の冥福だけを祈り、静かに余生を送る女院の気高さを前にして、法皇は自らの生き様が、ひどく醜く、滑稽で、救いようのないものに思えてならなかった。
「……すまなかった」
気づけば、法皇の口からそんな言葉が漏れていた。誰に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。ただ、自らの業の深さに打ちひしがれ、法皇は涙をこらえるように深く頭を垂れた。
大原の山々に、むせび泣くような春の風が吹いていた。
——数日後。都の六条にある法皇の住まい。
「申し上げます。鎌倉の頼朝の代官・北条時政より、諸国へ守護と地頭を置き、兵糧米を徴収する権利を認めるよう、奏請がございました」
公家たちの血の気の引いた声が、御所に響き渡る。御簾の奥で、法皇はゆっくりと目を見開いた。
かつて義経をけしかけて失敗した今、法皇にこれを拒絶する力は残されていない。国ごとに守護を置き、兵糧米を徴収するという頼朝の要求は、朝廷の実権を根底から剥奪することを意味していた。
大原の山奥で涙を流し、自身の愚かさを悔いたあの日から、まだいくらも経っていない。だが、冷酷な政治の盤面の前で、法皇の瞳からは老人の悲哀は早くも乾き果てていた。
「頼朝め……義経の追捕を口実に、ついに日ノ本すべてを切り取りに来たか」
法皇は奥歯を噛み締め、口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。
「致し方あるまい。要求を認め、守護・地頭の勅許を与えよ」
主権を鎌倉に切り渡す屈辱を味わいながら、法皇は己の胸に巣食う底知れぬ無常の闇を見つめていた。どれほど盤上に罠を張り巡らせようとも、武力という暴力の実体の前に、自らの権謀が砂の城のように崩れ去っていく。それすらも、無常という巨大な遊びの一部にすぎないのだ。
(ああ、わかっている。現世など幻。権力など無常。自分が救いようのない愚か者だということなど、とうの昔に知っている)
神仏の境地と救済に憧れながらも、結局は俗世の血みどろの権力闘争から降りることができない。それこそが、後白河という男に課せられた、逃れられない運命であった。
法皇はひじ掛けに深々と身を預け、誰に聞かせるでもなく、静かに、ひどく熱っぽく唇を動かした。
「仏は常にいませども、現ならぬぞあはれなる……人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ……」
救いと無常を求める最大の怪物の歌声が、薄暗い御所の奥底へ、また一つ吸い込まれていった。




