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死蝋

本作はボカロP「いよわ」様の「あだぽしゃ」を見て作りたくなった小説です。

(解釈小説とは言えない内容です)


<本家様>

https://www.youtube.com/watch?v=Wr-2xcQkke4

<歌詞>

https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/44432.html

——————————————————————————————


「長野県警です。突然のお電話で恐縮ですが、誠二さんの奥様でいらっしゃいますか?」

 一瞬、頭の中が真っ白になった。詐欺か何かの類だろうか。それとも同姓同名の人違いか。そもそも、静岡に住む私の携帯に長野県警から電話が来る理由がない。

「……元、妻です。三年前に離婚していますが。何の用ですか?」

 警戒心をむき出しにして答えると、スマートフォンの向こうで、警察官が僅かに言い淀む気配がした。

「左様でしたか。実は今回、誠二さんが入山前に提出された登山計画書の緊急連絡先に、奥様……いえ、元奥様のお名前と電話番号が記載されておりまして。我々も、現在も同居されているご夫婦だと思っていたものですから」

 なるほど、と私は内心でため息をついた。別れて三年も経つのに、いまだに堂々と『妻・芽衣』の文字と私の番号を使い回していたのだ。どこまでもものぐさで、自分の都合の良いようにしか世界を捉えられないあの男らしい怠慢だった。書類の書き換えすら面倒がり、私がまだ自分の所有物であるかのように錯覚しているのだろう。警察が言葉を失うのも無理はない。

「それで、実は誠二さんが冬山で遭難しまして、現在、松本市内の救命救急センターで意識不明の重体です。実家のご家族や他のご親族にも連絡を取ろうとしたのですが、電話番号が使われていなかったり、応答がなかったりと、全く連絡がつかず……至急、病院へ向かっていただくことは可能でしょうか」

 昔から自分勝手な彼は実家と折り合いが悪く、親兄弟とも半ば絶縁状態だったはずだ。身から出た錆とはいえ、周りを散々振り回してきたツケがこんなところで回ってきたのだろう。

「無関係です」と、喉の奥まで出かかった。実際、私には長野まで赴く義理など一切ない。もしこれが単なる骨折や捻挫なら、間違いなく電話を切っていただろう。

 だが、私は通話を切らなかった。

 あの、己の強さを微塵も疑わず、傲慢に世界を見下していた男が、自然の猛威に敗れて凍死しかけている。

「至急、向かっていただくことは可能でしょうか」という警察の焦った声が、耳の奥で反響する。

 その無様な姿を、この目で見てみたい。そんな、氷のように冷たくて悪趣味な好奇心が、胸の奥でひっそりと鎌首をもたげたのだ。娘の父親の生死を確認しなければならない、という母親としての義務感も嘘ではない。だが、そのもっともらしい理由以上に、私の背中を強く押していたのはその底暗い欲求だった。

 どちらにせよ、親権者として一度は顔を出さなければ、この先の厄介な手続きも進まないだろう。私は小さく息を吐いた。

「……わかりました。向かいます」

 窓の外を飛ぶように流れていく雪景色は、ひたすらに白く、無機質だった。静岡から特急列車を乗り継ぎ、過剰なほど暖房が効いた車内に座っていても、私の足先は芯から冷え切っていた。それは単に長野へと向かう外気のせいではなく、数時間前に告げられた事実と、自分自身の内側に巣食うどす黒い感情が、ひどく冷ややかなものだったからだ。

 数日前の猛吹雪。彼は下山予定時刻を過ぎても戻らず、仲間からの通報でヘリコプターが飛んだのだという。大規模な捜索隊が組まれ、ようやく雪の窪みで倒れているところを発見された。

 ヘリを飛ばし、何十人もの大人を動員したのだ。世間にどれだけの迷惑をかけ、どれほどの人間を危険に晒し、どれほどの税金と費用を浪費したのか。あいつはいつもそうだ。自分のやりたいことのためなら、周囲がどれだけ尻拭いをさせられるかなど想像も及ばない。そういう想像力の欠如が、最終的にあの男を雪山で凍れさせたのだと、私は乾いた目で窓の外の雪を睨みつけた。

 長野県、松本市内にある総合病院の救急病棟に着いたのはすっかり日が落ちた頃だった。重い冬のコートを羽織ったまま長い廊下を歩き、集中治療室の前に辿り着くと、鼻をつくような強い消毒液の匂いがした。

「失礼ですが、奥様……いえ、元奥様でいらっしゃいますね。こちらへ」

 担当医と看護師に案内され、私は分厚いガラス越しにベッドを見下ろした。そこに横たわっていたのは、私の知っている「誠二」という傲慢な生物の、惨めな抜け殻だった。

 顔面は土気色を通り越して真っ白に透き通り、血の気というものが一切ない。自発的な動きは微塵もなく、ただ冷たい蝋細工のように横たわっている。死蝋――いつか本で読んだ、水底などで腐敗を免れ原形を留めた死体のことを、私はふと思い出した。本来の定義とは違うのだろうが、今のあいつは私にとってまさに死蝋だった。生きているのか死んでいるのかもわからない境界線で、生気を失い、ただの惨めな物体としてそこに存在している。

 かつての彼は、生命力の塊のような男だった。競技登山に打ち込み、隆起した筋肉と分厚い掌で、どんな険しい岩肌も力強く掴み取ってきた。私自身、初めはその野性味と、圧倒的なまでの力強さに惹かれたのだ。私を抱き寄せたあの腕の熱さを、今でも記憶の底で覚えている。

 しかし、加温ブランケットから外へ投げ出されたその手は、見る影もなかった。動脈に繋がれた点滴の管や指先のモニターの配線に絡め取られ、重度の凍傷によって指先は血の気を失って蝋のように白く濁り、所々に赤黒い水ぶくれが異様に腫れ上がっている。かつて彼が誇っていた栄光の手は、今は完全に生気を失い、ベッドの端からだらんと無惨に垂れ下がっていた。仮に命を取り留めたとしても、もう二度と、あの手で岩を掴むことはできないだろう。それどころか、自分の力で箸を持つことすら叶わないかもしれない。

 意識を失ったままの誠二の口元には太い人工呼吸器の管が挿管され、心電図のモニターが規則的で無機質な電子音を響かせている。自力で体温を保つことすらできなくなったその体は、温風を送り込む太いホースが繋がった医療用の加温ブランケットにすっぽりと覆われ、ただ無様に機械の力で温められている。野蛮で、誰の指図も受けず、自分の強さを微塵も疑わなかった男が、今は無数の管に繋がれなければ熱を生み出すことすらできない。

「これが、今のあなたの有り様ね」

 私はガラスに冷たい指先を触れ、心の中でひっそりと呟いた。

 かつて私を強引に惹きつけ、そして私を徹底的に絶望させた男の、あまりにも惨めな末路。そこには、一滴の同情も、悲しみも湧かなかった。ただ、雪山の冷気よりもさらに冷たく澄み切った虚無感と、「世間に迷惑をかけてまで手に入れたかったものがこれなのか」という底冷えのするような呆れだけが、静かに、そして確実に私の胸の内に降り積もっていた。

 ピッ、ピッ、と等間隔で鳴り続ける心電図の電子音は、まるで二人の間に横たわる決定的な距離を計測するメトロノームのように無機質に響いていた。その単調な音を聞いているうちに、私の意識はゆっくりと、あの熱病に浮かされていたような過去の日々へと引き戻されていった。

 彼と出会ったのは、まだ大学生だった私がアルバイトをしていた古びたボウリング場だった。彼は二十代半ばのころだっただろうか。

 彼は入り浸っている柄の悪い客の一人で、些細なことで難癖をつけては私を強引にナンパしてきたのだ。客と店員という立場をわきまえない、ろくでもない出会いだったが、存外、私自身はそんな彼を気に入っていた。もともと、顔色を窺ってくるような軟弱な男は好きではなかったからだ。

 床用ワックスの甘ったるい匂いと、ピンが弾け飛ぶ喧騒の中で、誠二はいつも一際目立っていた。野蛮で、声が大きく、傲慢で、周囲の視線など一切気に留めない男。繊細さの欠片もないその振る舞いは、ある種の暴力的な生命力に満ちていて、当時の私の目にはひどく眩しく映ったのだ。

 私自身、決して性格が良いとは言えないし、自分が高飛車な人間だという自覚もあった。だからこそ、自分の思い通りに世界をねじ伏せようとする彼の強引さに、都合よく乗っかったのだと思う。「何という男だ」と呆れながらも、私にすり寄ってくるその熱情を受け入れる私は、「何と都合のいい女だろう」と心のどこかで自嘲していた。お互いの若さと、都合の良さと、馬鹿げたエネルギーだけで結びついた関係。私たちは勢いのままに同棲を始め、籍を入れ、娘が生まれた。

 だが、生活という現実の中で、彼の「野蛮な生命力」は、単なる「幼稚なエゴ」へとその正体を露わにしていった。

 彼は、自分の理解できないものを徹底的に見下した。複雑な人間関係や、繊細な言葉のニュアンス、社会的な体裁といったものを全く解さない。いや、解そうともしなかった。自分の力と直感だけが世界のルールであり、それ以外はすべて間違っていると本気で信じ込んでいる男だった。

 決定的な破綻は、娘がまだ言葉もおぼつかない頃に訪れた。

 当時、私は長年の夢だったインテリアデザインの仕事を本格的に立ち上げようと奔走していた。育児の合間を縫い、少しずつ築き上げた人脈。その日は、仕事の命運を握る重要なクライアントであり、ビジネスパートナーでもある男性と、今後の契約について打ち合わせをしていた。

 そこへ、誠二が乗り込んできたのだ。

 私が別の男性と二人きりでカフェにいる。ただそれだけの理由で、彼は私の仕事の背景も、相手の立場も一切想像しようとはしなかった。

 休日の穏やかなカフェで、彼はパートナーの男性の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄り、大声で罵倒した。「俺の女に手を出してタダで済むと思うな」と、まるで縄張りを荒らされた獣のように本気で叫び、私の仕事相手を公衆の面前で徹底的に侮辱したのだ。

 私がどれだけ必死に状況を説明しようとしても、彼は聞く耳を持たなかった。まるで、言葉というものを失い、ただ目の前の敵を威嚇することしかできない、文字すら読めぬ猿のように。

 結果として、その男性は呆れ果てて立ち去り、進行していたプロジェクトはすべて白紙になった。何年もかけて積み上げてきた私の夢の一部が、彼の泥のついた靴で無残に踏みにじられた瞬間だった。

 その日の夜、アパートの狭いリビングで、私は彼を激しく責め立てた。腹の底から湧き上がる怒りと悔しさで気が昂り、声は甲高く上擦って、自然と涙が溢れ出た。私の人生を、仕事を、なんだと思っているのかと。

 しかし、誠二はソファにふんぞり返り、缶ビールを煽りながら平然と言い放ったのだ。

「俺は間違ったことはしていない」

 私の仕事を尊重しているふりをしながら、その本質を何一つ理解していなかった男の、決定的な一言。

 その顔を見た瞬間だった。私の中で煮えたぎっていた怒りが、嘘のようにスッと引いていくのを感じた。悲しみでも、絶望でもない。ただ、全身の血が急速に冷え、怒りすら凍りついていくような悪寒が走り――そして、すっと正気に戻っていくのがわかったのだ。

 ああ、この人は、本当に何もわかっていないのだ。

 強いわけでも、頼りになるわけでもない。ただ、自分の無知に気づいていないだけの愚か者なのだ。

 自分の傲慢さゆえに、一番身近な人間の心すら殺してしまっていることに気づかず、「俺は正しい」と得意げにふんぞり返っている。自らの肥大化したエゴという熱に浮かされ、気づけば羽を焦がして無様に墜落していくイカロスのように滑稽で、ただただ哀れに思えた。

 あの瞬間に、私の中の「誠二」という人間は、完全に死んだのだ。

 あの夜を境に、私たちの関係は完全に終わった。もはや修復するための話し合いすら無意味だった。私が一方的に彼という存在を精神的な視界から完全に排除し、ほどなくして荷物をまとめ、幼い娘を連れてアパートを出たのだ。

 彼の方も、私が離れていく理由を最後まで理解していなかったと思う。ただ「女がヒステリーを起こして出て行った」程度にしか受け取っていなかっただろう。それがまた、彼という人間の限界だった。

 別居し、やがて正式に離婚が成立してからも、彼と完全に縁を切ることはできなかった。家庭裁判所で取り決めた面会交流があり、娘の権利として月に一度、父親に会わせる必要があったからだ。

 月に一度の面会日。誠二は、まるで何事もなかったかのように「気楽な父親」として娘の前に現れた。彼は相変わらず声が大きく、野蛮で、けれど子供と一緒に公園を走り回るだけの体力と単純さは持ち合わせていた。

 遠くのベンチから、無邪気に笑い声を上げる娘と、その手を引く誠二の姿を眺める時間は、私にとって一種の拷問だった。なぜ、私の人生の大切な一部を平然と踏みにじった男が、あんなにも屈託のない笑顔で娘と遊べるのか。しかも、私に対する恨みや気まずさなど微塵も感じさせない振る舞いが、かえって私の神経を逆撫でした。もうとっくに別の女がいるのではないかという疑念すらよぎったが、もはや嫉妬も興味も湧かない。ただ、彼のその無神経さが信じられず、胸の奥でドロドロとした陽炎のような嫌悪が渦を巻いた。

 私が少しでも嫌な顔をすれば、聡い娘はすぐに空気を察知するだろう。だから私は、自分の中にある高飛車なプライドや、肥大化した自我を必死に押し殺した。

「娘が楽しそうにしているなら、それでいい」

 そう自分に何度も言い聞かせ、能面のような作り笑いを顔に貼り付けて面会の時間をやり過ごした。物理的な距離を置き、事務的な連絡しか取らないという歪な関係性を保つことで、ようやく私の日常には薄氷の上に成り立つような平穏が訪れていた。

 時が経つにつれ、その苛立ちすらも風化していった。彼に対する怒りすら湧かなくなったのは、ある決定的な事実に気がついたからだ。

 私たちには、最初から、一生分かり合えない決定的な溝があったのだ。

 離婚して他人に戻ったはずなのに、私は心のどこかで「彼に自分がどれだけ傷ついたか理解してほしい」「悪いことをしたと反省してほしい」という未練にも似た執着を抱えていたのだろう。だが、それはどちらが良い悪いという問題ではなく、見ている世界も、言葉の定義も、大切にしている基準も、根本から違う別の生き物なのだ。それに気づいた時、憑き物が落ちたように心が軽くなった。

 そうだ、私たちはもう、無理に互いのことを好きでいようとしなくていいのだ。私が彼の幼稚さを許してやる義理もないし、彼に私の痛みを理解するよう求めること自体が間違っていたのだ。世間一般の「円満な元夫婦」だの「理解し合える親同士」だのといった幻想に縛られる必要はない。

 彼がいなくたって、私は私の足で立ち、失いかけた仕事も少しずつ立て直している。私は、ここではない別の場所で、自分の力で十分に幸せになれるのだ。だからもう、私の人生に彼が立ち入る余地はないし、私の顔なんてさっさと忘れてしまってほしかった。

 一度完全にすれ違ってしまった私たちは、もう二度と、来た道を戻るような逆向きの電車に乗ることなどできない。乗る気もない。それぞれが、交わることのない別のレールの上を、ただ前を向いて進んでいくだけなのだ。

 そうやって、自分の中で「誠二」という存在を完全に過去の遺物、あるいは処理済みの廃棄物として心の奥底にしまい込んでいたというのに。

 まさか、その数年後に、こんな形で呼び出されることになるとは夢にも思わなかった。

 病室に響く規則的な電子音が、私を過去の回想から冷酷な現在へと引き戻した。

 目の前のベッドには、私がとうの昔に見限った男が、生死の境を彷徨いながら横たわっている。

 集中治療室の空気は重く、そしてひどく乾燥していた。

 もしこのまま彼が目を覚まさず、等間隔で鳴っている心電図の波形が平坦な直線に変わってしまったら。間違いなく娘は泣くだろう。あんな独善的な男であっても、娘にとっては月に一度、公園で思い切り遊んでくれる「優しいパパ」なのだから。大好きな父親が雪山で死んだと知れば、娘の小さな心は深く傷つくはずだ。その悲しみを想像すると、母親としての私の胸は確かに痛む。娘の涙を拭うのは、他の誰でもない私なのだ。

 だが、それはあくまで「娘の悲しみ」に対する痛みであって、ベッドに横たわる誠二自身に向けたものではなかった。

 私自身の心の奥底をどれだけ探ってみても、そこにはさざ波一つ立っていなかった。悲哀も、焦燥も、同情も、回復を願う祈りすら、何もない。恐ろしいほどに凪いでいて、ただ分厚く凍りついた湖面のように静まり返っていた。

 むしろ、氷のように冷たく澄み切った一つの残酷な本音が、私の脳裏を支配していた。

『これ以上、誰にも迷惑をかけずに、このまま息を引き取ればいいのに』

 ヘリコプターを飛ばし、救助隊を危険にさらし、別れた元妻をこんな雪山の麓まで呼びつけて。これ以上、他人の人生を振り回し、私と娘の平穏な生活を乱すくらいなら、いっそここで静かに終わってくれた方がどれだけ都合がいいだろうか。

 かつて彼にとって「都合のいい女」だった私は、最後の最後で、そんな「都合のいい結末」をこの男に望んでいる。なんと残酷で、冷酷な女だろうと自分でも思う。だが、それが今の私と彼を繋ぐ、唯一の真実だった。

 面会を終え、廊下に出た私を待っていたのは、今後の治療方針と同意書へのサインを求める担当医だった。

 私は差し出されたバインダーを一瞥し、静かに首を振った。

「サインは一切いたしません。三年前に離婚した完全な他人ですし、今後、医療費の保証人になるつもりもありません。実家の家族とは絶縁状態とのことですが、行政を挟むなりしてそちらを探してください。何があっても、二度と私には連絡を通さないようにお願いします」

 感情を交えず淡々と告げた私に、医師も同席していた警察官も困惑したように絶句した。当然だろう。冷酷な女だと蔑まれても構わなかった。

 厄介払いのように早々に立ち去ろうとする私を呼び止め、看護師が大きめの分厚いビニール袋を渡してきた。警察から引き継いだ、彼が遭難時に身につけていた衣服や所持品だという。これだけは持ち帰ってくれと懇願され、私は渋々それを受け取った。

 中を覗くと、溶けた雪と泥に塗れた彼の登山用コートが押し込まれていた。一刻も早く低体温症から彼を救うためだろう、分厚い生地は救命の過程で無惨に切り開かれている。バラバラに裂かれたわけではないが、もはや本来の役割を果たすことはない。かつて彼が何よりも誇っていた高価な装備の、惨めな残骸だった。

 ふと、微かな哀れみが胸をよぎる。

 しかしそれは、ベッドで死蝋のように眠る彼に向けたものなのか。かつて、このコートを着て笑う彼を愛してしまった、愚かな過去の自分に対するものなのか。あるいは、父親を失うかもしれない娘へのものなのか。私自身にもよく分からなかった。

 ただ一つ確かなのは、彼が奇跡的に目を覚まして生きながらえようと、このまま冷たい遺体となって焼却炉へ送られようと、私の人生のレールが彼と交わることはもう二度とないということだ。

 私たちは一生分かり合えないまま、永遠に交わらない平行線のうえを、それぞれの足で歩いていくだけなのだ。

 私はビニール袋の持ち手を握り直し、ガラスから完全に背を向けた。指先に残っていたわずかな熱は、無機質な空気に奪われてとうに消え失せていた。

 静かに踵を返し、病室のドアから遠ざかる。背後で微かに、しかし規則的に鳴り続ける機械音へ向けて、私は心の中で冷たく、そして静かに言い放った。

「お互い、勝手に幸せになりましょうね。もう二度と、すれ違うことすらありませんように」

 重い扉を押し開け、廊下へと足を踏み出した瞬間だった。

 ふいに遠くのナースステーションから、無機質な電子チャイムの音が鳴り響いた。それはまるで、二人の関係の完全な終わりを告げる、ひどく冷たくて無機質な鐘の音のように、殺風景な病院の廊下に響き渡った。

 外はまだ、凍えるような雪が降っていることだろう。

 彼のコートが入った重いビニール袋を引きずるように持ちながら、一人で帰路につく私の足取りは、自分でも驚くほど、しんと静かで軽やかだった。

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