空涙
「えー、理沙まじめすぎ。私たち、まだ2年生だよ?」
「今のうちから資格の勉強とかしとかなきゃ、就活で苦労するの目に見えてるじゃん」
カフェのテーブルで、理沙は同級生たちに向けてそう言い返した。友人たちは「そうだけどさぁ」と曖昧に笑うだけで、危機感を持っているようには見えなかった。目的もなくサークルや飲み会に時間を費やす彼女たちを、理沙は呆れるように見ていた。
——私は違う。簿記や英語の資格勉強に励み、長期インターンにも参加している。時間を無駄にする余暇などない。そうやって自分を武装し、少しでも就活を有利に進められるようにすることで、理沙はえも言われぬ安心感を得ていた。
そんな日常がふつりと途切れたのは、インターンからの帰り道だった。母からの短いメッセージ。『おばあちゃんが亡くなったの。明日の朝、こちらに向かいなさい』。
いや、明日の朝なんて待てない。
理沙は慌てて新幹線のチケットを取り、飛び乗った。車内では資格のテキストを開いたものの、文字が上滑りしてまったく頭に入ってこない。気がそぞろなまま、車窓を流れる暗い景色を見つめた。
(おばあちゃん……最後に会ったの、いつだっけ)
子供の頃は、夏休みのたびに祖父母の家へ行き、縁側でスイカを食べながら祖母の膝の上で笑い転げていた。もしあの頃の自分なら、息が詰まるほど泣きじゃくっただろう。しかし、高校受験を機に足が遠のき、大学生になってからは「忙しい」を理由に、元旦に父から無理やり替わらされて出る短時間の電話での会話だけで済ませるようになっていた。
新幹線の駅には母が車で迎えに来てくれており、そのまま祖母が安置されている葬儀場の控え室へと向かった。急いできたため、着慣れないダークトーンのスーツ姿のままだ。
線香の匂いとドライアイスの冷気に包まれた部屋へ足を踏み入れると、白い布団に寝かされた祖母がいた。枕元に歩み寄る。そこに横たわる顔は蝋のように白く、皮膚の薄い頬、肉の落ちた手、耳元のほつれ毛がやけに目に付いた。それはもう、命ある人というよりは、精巧な作りのモノのようだった。記憶の中にある、縁側で笑っていた温かい祖母とはどうしても結びつかない。
親族がハンカチで目元を拭う中、理沙の心は奇妙なほど凪いでいた。悲しい、という感情が湧き上がってこないのだ。
(私、どうして泣けないんだろう……)
周囲のすすり泣きを聞きながら、理沙は自身の内側にぽっかりと空いた空洞のような冷たさに違和感を覚えた。
少し離れた席では、中学生になる従妹たちが「おばあちゃんっ……!」とハンカチを顔に押し当ててしゃくりあげていた。その純粋な悲しみを見るにつけ、一人だけ乾いた目をしている自分がひどく場違いで、いたたまれない気持ちになる。目をぎゅっと瞑り、祖母との楽しかった思い出を頭の中で反芻して、なんとか涙を絞り出そうとしてみた。けれど、まぶたの裏はただ暗いだけで、一滴の涙も滲んではこない。悲しむことすらできない己の冷たさに、じわじわと罪悪感ばかりが募っていった。
翌日、通夜が始まる前、会場の隅では葬儀スタッフが祭壇の最終確認に追われていた。
「このお花、もう少しだけ外側に向けましょうか。ご遺族の席から、遺影のお顔がよく見えるように」
「そうですね。最後のお別れですから、一番綺麗な状態で」
そんなひそやかなやり取りが聞こえてきた。その手つきはひどく丁寧で、人の死に真摯に向き合う厳かな仕事の姿勢が見えた。
親族控室では、祖母の古い友人たちが思い出話を語り合っていた。
「あの人、いつもお庭の手入れを欠かさなくてねぇ。季節の花が本当に綺麗だった」
「誰にでも分け隔てなく接する、優しい人だったわ。毎日の暮らしを、本当に大切に生きてらした」
彼女たちの言葉を聞いていると、今日という日を慈しみ、周囲の人と温かく関わり合うという、地道でささやかな営みが浮かび上がってくる。
やがて通夜の儀式が終わり、参列者が去った後のロビー。喪主である父が、葬儀スタッフと翌日の火葬の手順について打ち合わせをしていた。
「……一般的なものでお願いします。数は少し多めに見積もっておいてください」
事務的な段取りで処理されていく現実に、理沙は立ち尽くした。遠縁の親戚たちの対応をこなし、気丈に頭を下げ続けていた父。彼は、泣きたくても泣くことができないのだ。悲しいのに泣くことが許されない父と、悲しむべきなのに泣くことができない自分。泣くことすら許されない喪主としての重圧を背負う父の背中は、いつもより少し小さく見えた。
理沙は、泣けない自分を持て余すように父のそばへ行き、自販機で買った冷たいお茶のペットボトルを差し出した。
「お父さん、お茶買ってきたよ。少し休んで」
ペットボトルを手渡すと、父はそれを受け取り、小さく息を吐き出した。その瞬間だけ、父は喪主としての仮面を下ろし、「母を亡くした一人の息子」の顔になった。
「……なんだか、まだ実感がないな」
一口お茶を啜り、父はぽつりと呟いた。
「次から次へと決めることがあって、悲しむ暇もない。でも……さっき来てくれた母さんの友達、みんな本当にいい顔をして昔話をしてただろ。ああやって誰かの記憶に温かいものを残せるなら、母さんはいい人生だったんだよな」
その言葉を聞いて、理沙は自身の中にずっと忘れていた大切な感情を見つけたような気がした。
祖母の友人たちが浮かべていた穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
私はどうだろうか。資格やインターン、目に見える『価値』で自分を武装し、周りより一歩でも先へ行こうと焦るばかりで、あの友人たちのように他者と温度を分け合う時間を無駄だと切り捨ててこなかったか。
自分が必死に積み上げてきた努力そのものを否定するつもりはない。けれど、死という絶対的な事実を前にしたとき、効率や損得だけで築き上げた世界が、ひどく寒々しく、ちっぽけなものに思えた。
翌日の本葬。儀式の最後を飾る出棺の際、棺の中に親族の手で色鮮やかな花が敷き詰められていった。理沙もまた、顔の周りにたくさんの花をそっと置いた。花に埋もれていく祖母はまるで眠っているようで美しかったが、それでもなぜか、理沙はどうしても泣くことができなかった。
こんな時すら涙のひとつも流せないなんて、私はなんて薄っぺらな人間なんだろう。
火葬場へと移動し、火葬炉の扉が閉まる。やがて出てきた祖母は、あっけないほど真っ白な骨に変わっていた。
骨拾いの儀式で、理沙は長い箸を手にした。しかし、箸の先で拾い上げた乾いた骨を骨壺に収めても、心の中を占めるのは「これで本当にすべて終わってしまった」という決定的な喪失感と、とうとう最後まで一滴の涙も流せなかった自分に対する深い自己嫌悪だけだった。
収骨を終え、骨壺を抱えた親族たちが迎えのバスへと向かう中、理沙は控室の椅子から立ち上がれずにいた。
「お母さん……」
帰り支度をする母の背中に向かって、理沙はたまらず声をかけた。
「私、とうとう最後まで泣けなかった。昔はあんなに懐いてたのに、ずっと会ってなかったから、実感が湧かないというか……。従妹たちはあんなに泣いてたのに。私、大切な感情が欠けた、冷たい人間になっちゃったのかな」
懺悔するように俯く理沙を、母は少し驚いたように見つめ、静かに首を振った。
「そんなことないわよ」
母は穏やかな微笑みを浮かべると、理沙の震える手をそっと握った。
「泣けないことを、『ごめんね』って思ってるんでしょ?」
理沙が小さく頷くと、母は優しい声で続けた。
「あなたがそういうふうに、申し訳ないって思ってくれるだけで、おばあちゃんは嬉しいはずだよ。涙が出るかどうかなんて、そんなに大事なことじゃないの」
その言葉が耳に届いた途端、理沙の視界がふいに歪んだ。
自分の冷たさを責めていた心の結び目が、あっけなく解かれていく。胸の奥底でせき止められていた安堵のような感情に背中を押され、ぽろり、と。乾いていたはずの瞳から、不覚にも大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは祖母への遅すぎる哀悼であると同時に、強張っていた理沙の心を解きほぐす、温かい涙だった。理沙は母の手を握り返し、子供のように声を上げて泣いた。
数日後、理沙は東京の日常に戻っていた。
大学近くのカフェでは、相変わらず同級生たちが集まり、取り留めもない話題で笑い合っていた。
他愛のないおしゃべりの中に漂う温度や、ただ誰かと時間を共有することの尊さが、今の理沙には少しだけわかる気がした。
理沙は、開いていたノートパソコンの画面から目を離し、スマートフォンを取り出すと、LINEの画面を開いた。
『無事に東京に着いて、大学に戻ったよ。お母さんもお父さんも、疲れてるだろうからゆっくり休んでね』
送信ボタンを押すと、理沙は小さく息を吐き、静かに微笑んだ。窓の外では、柔らかな春の風が吹き抜けていた。




