作家先生
「井上先生、ついに次回作ですか? いやあ、専業作家への華麗なる転身、同僚として寂しくなりますねえ」
職員室でコーヒーを啜っていると、隣のデスクから国語科の岡口がニヤニヤと笑いかけてきた。
「先生」という呼称には、時に強烈な皮肉が込められる。中学校の英語教師である井上健二は、そのことを誰よりも身をもって知っていた。
井上は一応、ほんの端くれではあるが小説家でもある。いわゆるセミプロというやつだ。
これまでに小規模な公募の賞でいくつか引っかかり、三年前、賞を取った長編がささやかに一冊だけ文庫化された。平積みされたのは発売から一週間だけで、あとは書店の棚の隅でひっそりと背表紙を向けている、あの手の本である。
「勘弁してくださいよ、岡口先生。誰が辞めるって?」
「だって三年前、賞獲って文庫化された時も『これで俺も印税生活だ!』って息巻いてたじゃないですか」
「言ってません。あんなささやかな印税で、どうやって現代の出版不況を生き抜けと? 僕は定年まで、どこかの学校の教壇にしがみつきますよ」
井上が呆れて首を振ると、岡口はさらに身を乗り出してきた。
「でも次回作が出たら、ぜひ僕の現代文の授業で使わせてくださいよ。『この時の作者の意図を答えなさい』って問題を作って、隣のデスクの大先生に直接丸付けしてもらうんで」
「僕の書くような頭の悪いコメディで中学生の国語力が養えるわけないでしょう。大体、僕は英語教師なんですからね」
「そこですよ! 小説家のくせに国語じゃなくて英語ってところが、なんとも井上先生らしくて最高じゃないですか」
小規模な公募でいくつか引っかかり、ささやかな文庫本が一冊出ただけの「大衆文芸作家」。ユーモアやちょっとしたホラーを書いて、読者をクスッと笑わせるのが井上の性に合っていた。
チャイムが鳴り、ガラッと教室のドアを開けると、早速生徒たちの声が飛んできた。
「あ、イノセンだ! ねえねえ、次の本いつ出るの?」
「イノセン言うな。本は当分出ない。それより単語テストの勉強はしたのか」
教壇に立ちながらチョークを手に取ると、一番後ろの席の男子が、椅子をガタガタと後ろに傾けながらニヤつく。
「えー、イノセン厳しすぎ。俺、先生の小説買ってやったんだから、内申おまけしてよ」
「嘘をつけ。こないだ駅前のブックオフの百円コーナーに一冊だけ並んでたぞ。あれ、お前が売ったやつだろ」
「うわっ、ひどい! 俺はちゃんとメルカリで三百円で売ったし!」
「はい、自白した。次の単語テストはマイナス五点からスタートな」
「うわっ! 最悪!」
教室にどっと笑いが起きた。
ひとしきり場を和ませた後、井上は空気を引き締めて小テストと五十分の授業をきっちりとこなした。
終了のチャイムが鳴り、井上が教室を出て廊下を歩いていると、死角になった階段の踊り場からけたたましい電子音が聞こえてきた。
「おい大村、そこはeスポーツの会場じゃないぞ。さっきからガチャの確定演出の音がダダ漏れだ」
「……チッ、イノセンかよ。音出してねえよ、バイブだし」
「嘘をつけ。SSRが出た時のファンファーレがバッチリ聞こえたぞ。スマホ没収される前にさっさと教室戻れ」
「……チッ、出たよ理不尽ルール。教育委員会に訴えてやる」
悪態をつきながらも、大村は素直にスマホをポケットに突っ込み、のろのろと歩き出した。中高と柔道をやっていたからというわけではないが、井上は不良生徒の扱いには割と慣れている。彼らの大半は、単に暇を持て余しているだけなのだ。
生徒たちからは多少の尊敬と、それをはるかに上回るからかいを込めて、二重の意味で「先生」と呼ばれている。すっかり舐められているように見えるかもしれないが、実はこれも井上の計算のうちだった。
井上は自身のことを、教師として「要領よく立ち回れる」部類だと思っている。ふざける時は徹底的に緩め、ピシッと律すべきところは空気を変える。この緩急のつけ方は、エンタメ小説のプロット構成によく似ていた。少し泳がせておいて、必要なタイミングで伏線を回収し、オチをつける。
世の中には創作にかまけて生活能力が破綻している「先生」もいるが、彼は違う。現実のハードな業務をこなしつつ、余暇でエンタメを書き上げる。そのバランス感覚こそが、自分の持ち味だと自負していた。
職員室に戻って自分のデスクに腰を下ろすと、隣のクラスの担任である若い女性教員、高橋が、小さな声でお礼を言ってきた。
「井上先生……先週は、本当にありがとうございました。先生が一緒に保護者面談に入ってくださらなかったら、私、あのクレーマーのお母さんに丸め込まれて、完全にクラスの統制を失ってました」
「気にしないでください。僕も昔、ああいうタイプの親御さんには痛い目を見てますから。高橋先生が毅然とした態度を見せたから、あちらも引き下がったんですよ。また何かあればいつでも言ってください」
「はい……本当に、助かりました」
高橋は深く頭を下げた。
井上は教師として、それなりに多くのことをこなしてきたという自負がある。担任を持った不登校生徒の教室復帰率も、他の教師より高い。
だが、当然ながら万能ではない。全然力になれなかったことだってある。
『先生は! うちの子を見捨てるんですか!』
いつだったか、応接室で母親から泣き叫ぶように怒鳴られた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
万引きや深夜徘徊などの問題行動を繰り返す生徒と向き合おうと躍起になったが、荒れた生活の根っこにある複雑な家庭環境まではどうにもできなかった。心身ともに限界を迎えていた生徒に対し、結局井上は『もう、無理に学校に来なくてもいいんだよ』と逃げ道を示すことしかできなかったのだ。
しかし、それは世間体を気にする親の逆鱗に触れ、結果的に井上は学校からも「保護者の理解を得る前に単独で踏み込みすぎだ」と苦言を呈された。
人間の心は、小説のプロットみたいに都合よくは動かない。伏線を張っても無視されるし、ハッピーエンドの保証なんてどこにもない。
だから井上は、深刻な小説を書かない。いや、書けないのだ。
これまでに応募してきたのもエンタメ系の賞ばかりで、いわゆる純文学の賞には一度も応募したことがない。
かつての井上は、人間の業やドロドロとした感情、取り返しのつかない悲しみをえぐり出し、それを「文学」だと気取って書いていた時期もあった。
でも、もうやめた。
現実の学校現場で、生徒たちの抱える悩みに直面しているだけで十分だ。自分には、他人の痛みをことさら掘り返すような図太い神経はない。現実の重さから逃げて、ただ楽しいフィクションに引きこもっていたいだけの臆病者なのだと、井上自身は思っていた。
「井上先生、そろそろ出られますか?」
学年主任の声にハッとして、井上はパソコンのモニターから目を離した。
「あ、はい。今出ます」
手帳と少しのプリントを鞄に詰め込む。
今日はこれから、一人の生徒の家へ見舞いに行くのだ。
++++++
彼女の名前は、守矢佳穂。
中二までは井上の担任クラスではなかったが、英語の授業ではいつも一番前の席で、誰よりも大きな声で笑う、ひときわ明るい生徒だった。
守矢家のチャイムを鳴らすと、母親が少し申し訳なさそうな顔で出迎えてくれた。
「先生、お仕事のあとでお疲れのところ、わざわざすみません。佳穂、リビングには出てきているので……」
「いえ、お気になさらず。顔を見に来ただけですから」
通されたリビングでは、スウェット姿の佳穂がソファに寝転がってスマホをいじっていた。昨年の春、父親を交通事故で亡くしてから鬱ぎ込み、やがて不登校になった彼女。そのまま自動進級で中三になり、今年の四月から井上が担任を持っている。
井上の顔を見るなり、彼女はパッとスマホを放り投げて笑った。
「あ、イノセンだ。ちわー」
「ちわー、じゃない。一応、これでもお前の今年の担任なんだけどな。体調はどうだ」
「うーん、絶賛だるだる病。ていうか先生、また太った?」
母親がお茶とクッキーをテーブルに置いた。
「佳穂、先生に失礼でしょ。……あ、ごめんなさい先生、仕事の電話がかかってきちゃって。少しだけベランダに出てもいいですか? すぐ戻りますので」
「ええ、どうぞ。お気になさらず」
母親が申し訳なさそうにスマホを耳に当ててリビングから出て行くと、ソファに座り直した佳穂が、クッションを抱え込みながら、からかうように笑った。
「ねえ、先生」
「なんだ。一応、今週の範囲のプリント持ってきたぞ」
「英語の先生の方じゃなくて、小説家の『先生』の方に聞いてるの」
「……嫌な予感がするな。サインなら書かないぞ」
「出た! 自意識過剰。そうじゃなくてさ、先生の書く小説って、明るくて楽しいお話ばっかりだよね。こないだ先生に借りた文庫本、読んだよ」
「お、貸した甲斐があったな。読者様には感謝だ。どうだった?」
「面白かった。なんにも考えずに笑えたし。主人公、ちょっとバカすぎない?」
「あれがいいんじゃないか。エンタメの基本だ」
照れ隠しでお茶をすする井上に、佳穂は少しだけ上目遣いになった。
「先生はさ、そういう明るいお話しか書かないの?」
「そうだな。明るくて楽しい話しか書かない。大衆文芸作家だからな」
「ふーん……」
佳穂は抱きしめていたクッションに顎を乗せ、視線をテーブルの上のクッキーに落とした。さっきまでのふざけたトーンが、ほんの少しだけ、凪いだように静かになる。
「ねえ、先生。私なんて、格好の素材じゃない?」
「は?」
「だってさ、いつも明るかった中学生の女の子が、お父さんを事故で亡くして不登校になっちゃうんだよ? 悲劇のヒロインみたいで、すっごくお涙頂戴の感動モノじゃん。……先生の書く小説の『重たい裏設定』とかに、ちょうどよくない?」
冗談めかした口調だった。唇は笑っていた。
けれど、その声の震えと、自らを安っぽい悲劇の枠にはめ込もうとする、その痛々しい防衛機制に、井上は息を呑んだ。不器用なSOSのサインだった。
「……守矢の言う通りだ」
静寂の中、井上はゆっくりと息を吐き出して口を開いた。
「……確かに、お前の抱えている現実は、そういう小説の題材になるのかもしれないな」
「だったらさ」
佳穂はわざとらしく、明るい声で笑ってみせた。
「私を使ってもいいよ。私、イノセンの小説に出演してみたいし」
「残念だが、それはお断りだな。出演もNGだ」
井上は静かに首を振った。
「……お前は、俺の小説向きの登場人物ではない。俺はエンタメ作品しか書けないからな」
「シリアスもの、挑戦すればいいじゃん」
井上はまっすぐに佳穂の目を見て、小さくため息をついた。
彼女の現実をそのまま書けば、きっと悲しくて美しい、崇高な物語になるだろう。
だが、井上は彼なりの人生のなかで、すでに知っていた。
物語のなかの「悲しみ」と、現実の悲しみは違う。
小説のページに印字された孤独や不幸と、いま目の前で生身の人間が抱え込んでいる痛みは、同じ名前をした全く別の生き物なのだ。
他人の痛みを切り取って、崇高な物語に仕立て上げる権利も技量も自分にはないことが、彼にははっきりと分かっていた。
「俺はただ、重たい現実から逃げて、安全な場所で楽しい話を書いていたいだけの臆病者なんだよ」
飾らない、ひどく情けない本音だった。
井上の言葉に、佳穂はしばらく目を丸くして黙っていた。
五月の生ぬるい風が、母親が出ていった少しだけ開いた窓からリビングに吹き込んだ。
やがて彼女は、クッションに顔をうずめたまま、ふっと息を吹き出した。
「……なにそれ、先生ダッサ」
その声には、さっきまでの張り詰めた痛々しさはなく、中学生らしい年相応の響きと、呆れたような息づかい、それにほんの少しの安堵が混じっていた。
「そういうわけで、僕の次回作は当分出ない。エンタメものもちょうどネタ切れでな。……だから、とりあえず今は、このプリントの英単語だけでも目を通しておけ」
井上がテーブルにプリントを置くと、クッションに顔を埋めたままの佳穂が「……イノセンのバカ」とくぐもった声で悪態をついた。
「ダサくて結構。本当に器用な大人はな、時と場合によってダサいフリもできるんだよ」
「自分で器用とか言うやつ、絶対仕事できないじゃん」
「うるさい。来週もまたプリント届けに来るからな」
井上が冷めかけたお茶を飲み干して立ち上がったとき、ガラッと窓が開いて母親がベランダから戻ってきた。
「先生、申し訳ありません。お待たせしてしまって……」
「いえ、ちょうどおいとましようと思っていたところです」
人間の心は、都合よく回収できる伏線なんかじゃない。
現実の痛みを根本から救い出すような力は、彼にはない。
だからただ、あいつがいつかまた、心の底から笑えるような、とびきり楽しいくだらない小説を書いてやる。
それが、しがない大衆文芸作家であり、無力な担任である井上健二の、せめてもの悪あがきだった。




