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ある幸福

 秋の午後の教室は、傾きかけた日差しが机の並ぶ光景を淡く照らし出し、特有の気だるさに満ちていた。

 窓の外からは別のクラスの体育の授業だろうか、生徒たちのくぐもった歓声が微かに聞こえてくるが、分厚いガラスに遮られたその音は、どこか別の世界の出来事のように遠い。

「はい、ここは来週の中間テストに出るから。各自、マーカーを引いておくように」

 年配の古典教師の、起伏のない単調な声が教室に響く。千紘はペンケースから黄色の蛍光ペンを取り出し、キャップを外した。教科書のざらついた紙の上をペン先が滑り、キュッという微かな音が鳴る。

『そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顔の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 黒板に淡々と書き連ねられていく『方丈記』の一節を、千紘はただ静かにノートへ書き写していく。

 板書が終わると、教師は文の書き出しである『ゆく河の流れは絶えずして……』から生徒をランダムに当てて現代語訳をさせ始めた。前の席の男子がたどたどしく答えて座ると、教師は名簿に目を落とし、不意に声を上げた。

「次は……長谷川。その続き、『玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり』。ここを現代語訳してみろ」

 急に指名され、千紘は少し戸惑いながらもすっと椅子を引いて立ち上がった。

「『玉を敷いたように美しい都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い人、低い人の住まいは、長い年月が経ってもなくならないものだが、これが本当にそうなのかと調べてみると、昔あったままの家というのはめったにない』……です」

「よし、正解だ」

 千紘が席に戻ると、隣の席の智司が、ノートの余白に視線を落としたまま小声で囁いた。

「予習してあったんだな。不意打ちだったのにすげえ」

「……ノートに訳を書いてただけだから!」

 千紘は少し頬を熱くして慌てて視線を伏せ、短く返した。不意に彼から声をかけられ、至近距離で見つめられたことが、ただ単純に気恥ずかしかったのだ。それきり前を向くと、智司はそれ以上話しかけてくることはなく、再び静かに自分のノートに向かった。

 千紘にとってこの古典の時間は、心地のいいものだった。

 数百年前の昔に完結し、すでにすべてが決まっている言葉たち。古語辞典を引きながら、古い言葉を一つ一つ確かな現代の言葉へと訳していく。ただそれだけの変わらない時間が、理由もなく千紘の心を落ち着かせた。


 +++++


 放課後の図書室。千紘は窓際の席で宿題を広げながら、時折、古い西洋美術の画集をめくっていた。

 自分で絵を描くのは苦手だし、美術の難しい歴史なんて何もわからないけれど、分厚いページをめくる時間だけは好きだった。

 ラファエロやフェルメールの描く、カンバスの中の女性たち。彼女たちは何百年も前から変わることなく、穏やかな微笑みをたたえ、静かにこちらを見つめ返してくる。額縁の中の少女たちは、この先いつページを開いても変わることなく、ただそこに在り続ける。

 ふと窓の外へ視線をやると、グラウンドで部活の準備に駆け出していく智司の姿が見えた。遠くからでも目立つその真っ直ぐな走り姿をぼんやりと目で追いながら、千紘は再び静謐な画集へと視線を戻す。決して変わらないその静けさに触れていると、現実の慌ただしさから切り離され、ひんやりとした安堵感に包まれた。

 ここ最近、智司からの視線や、帰り道で交わす言葉の端々に、微かな温度の変化を感じていた。それが何であるか気づかないふりをして、千紘は彼と二人きりになるのをなんとなく避けてしまっていた。

 千紘は画集を借りる手続きを済ませ、重い本を鞄にしまった。


 +++++


 図書室を出て、薄暗くなり始めた渡り廊下を歩いていた時のことだった。

 斜めに差し込む強い西日が、リノリウムの床に窓枠の長い影を幾重にも落としている。一人で本の世界に浸っていた心地よい静寂は、そこでひっそりと破られた。

 千紘の前に、智司が待っていたかのように立ち塞がったのだ。

「なあ、長谷川」

 普段の気のいい彼とは違う、少しだけ硬い声だった。

 足元の影が不意に伸びたような気がして、千紘は思わず息を詰める。

「最近、わざと早く帰ってたでしょ」

「……そんなこと、ないよ」

 これまでは智司の部活が終わるのを図書室でなんとなく待ち、一緒に帰るのがいつの間にか二人の暗黙の了解になっていた。特別な約束を交わしたわけでもない、友達以上恋人未満の曖昧な関係。けれどここ数日、千紘は彼と二人きりになるのを意図的に避けていた。

「そっか。なら、よかった」

 智司は短く息を吐き、千紘をまっすぐに見据えた。

「ずっと、言おうと思ってた。……俺、長谷川のことが好きだ」

 沈黙が落ちた。グラウンドの方から聞こえてくる吹奏楽部のチューニングの音が、やけに鮮明に鼓膜を打つ。

 智司のことは嫌いではない。実直で、話していると落ち着くし、優しい同級生だ。だが、今の心地よい距離感に「付き合う」という明確なラインを引かれ、関係が「次」へと進んでしまうことに、千紘は理由のない戸惑いを覚えた。

 千紘は学生鞄の持ち手を両手で強く握りしめ、顔を熱くしながら必死に言葉を探した。何か、波風を立てずにやり過ごせる、もっともらしい理由。ふと、友人の知佳が言っていた言葉が頭をよぎり、千紘はすがるようにそれを口にした。

「あ、あのね、ほら、来年は受験もあるし、そういう時期じゃないっていうか……! 友達の知佳だって、大学までは誰とも付き合わないって言ってたし……!」

 慌てて引っ張り出してきた言い訳は、自分の耳で聞いてもひどく支離滅裂だった。

 しかし智司は、千紘の尻込みを否定も肯定もせず、ただ困ったように小さく微笑んだ。

「急いで答えを出してほしいわけじゃないんだ」

 彼はゆっくりと、千紘を安心させるような穏やかな声で言った。

「ただ、今度の週末、少しだけ時間をくれないかな。駅前の本屋にでも寄って、そのあと少し話すだけでもいいから」

 静かで、確かな重力を持った声だった。

 有無を言わさぬ強引さではなく、けれど確実に退路を塞がれてしまった。千紘には、その真っ直ぐな瞳を前にして、それ以上拒絶の言葉を見つけることができなかった。


 +++++


 日曜日の駅前は、足早に行き交う人々と、乾いた落ち葉を巻き上げる秋風のざわめきに包まれていた。

 制服ではない、見慣れない私服姿の智司の隣を歩くのは、ひどく落ち着かなかった。本屋を巡り、駅前の喧騒から少し離れたカフェに入ったとき、千紘はほっと息をついて自分の財布を取り出した。

「あ、私も払うね」

「いや、いいよ。今日誘ったの、俺だから」

 千紘が千円札を引き出そうとすると、智司は自然な動作で会計を済ませてしまった。

「それに、この間バイト代が入ったばっかりだしね」

 そう言って笑う彼に、千紘は少しだけ戸惑いながら「ありがとう」と小さく頭を下げた。

 窓際の向かい合わせの席につくと、智司は自分のグラスの氷をストローでカタンと鳴らし、少し照れたように千紘を見た。

「図書室でさ、いつもよく大きな画集を見てるだろ?」

「え……うん」

「部活中、グラウンドから図書室の窓って結構見えるんだよ。長谷川、いつも真剣な顔しててさ。……すごく綺麗だなって、ずっと思ってた」

 予想外の言葉に、千紘はグラスに伸ばしかけた手を止めた。

 千紘からすれば、図書室で画集を開く時間は、ただ日常の慌ただしさから離れて一息つくためのものだった。それなのに彼は、そんなささやかな息抜きの時間を勝手に綺麗だと思い込み、自分を外の世界へ連れ出そうとしている。

「俺、大学は工学部に進みたくてさ」

 グラスの水滴を指で無意識に拭いながら、智司は自らの進路について語り始めた。

「将来は機械の設計とか、自分の手で何かを作り出す仕事ができたらなって思ってるんだ。まずは工学部に入るための受験勉強を頑張らないといけないんだけどさ」

 智司ははにかむように笑った。

「でも、机に向かってばっかりなのも息が詰まるから、まだ今も接客のバイトを入れてるんだ。色んな人がいて、全然違う世界みたいで案外楽しいよ」

 彼の実直で落ち着いた声を聞いているうち、千紘は不意に、少しだけ胸がざわつくのを覚えた。

 智司は自分のやりたいことを見つけ、明日へ向かって迷いなく進もうとしている。それに比べて、自分はどうだろう。ただ今のままの静かな毎日を好んで、先の見えない未来へ踏み出すことを無意識にためらっている。

 智司のことを「好きだ」と思う気持ちに嘘はない。けれど、真っ直ぐに前を見据える彼と向かい合っていると、将来のことなどまだ何も考えられない幼い自分が、ひどくちっぽけで頼りないものに思えてきた。

「……やっぱり、楽しくなかったかな?」

 不意に会話が途切れたことに気づき、智司が不安そうに千紘の顔を覗き込んだ。

 千紘は弾かれたように顔を上げ、強く首を振った。

「ううん、楽しいよ、すごく楽しい!」

 自分でも驚くほど甲高い、上ずった声だった。

 その言葉自体は本当だった。けれど、智司の確かな歩幅に追いつけない自分の焦りや戸惑いを悟られたくなくて、千紘はただ誤魔化すように笑って、ぎこちない空気をやり過ごすことしかできなかった。


 +++++


 どうにかデートの時間をやり過ごし、逃げるように帰宅した千紘を待っていたのは、いつもと変わらない休日の午後の匂いだった。

 玄関を開けると、二階にある年の離れた姉の部屋から、微かに甘い香水の香りと、淹れたての紅茶の匂いが漂ってきた。

 来月結婚を控えた姉は、部屋の中央の机に向かい、式で使うリングピローを手作りしているところだった。スマートフォンの画面で作り方の動画を確認しながら、手元に古いシルクのスカーフを広げている。

 その傍らの窓辺に置かれた籐椅子では、祖母がぽかぽかとした日差しを浴びながら、機嫌よく意味のない鼻歌を歌っていた。

 三年前に祖父が亡くなってからというもの、祖母の記憶は少しずつ曖昧になっていった。ついさっき話した内容や、時には目の前にいるのが自分の孫であることすら忘れてしまう。今もきっと、自分がどこで何をしているのか、ふんわりとしか理解していないのだろう。

「おばあちゃん、このスカーフ使ってもいい?」

 姉はまち針を打つ手を止め、明るい声で振り返った。すると、祖母は不思議そうに小首を傾げ、それから少女のように無邪気に笑った。

「あらあ、綺麗な布ねえ。誰の忘れ物かしら。どうぞどうぞ、素敵にしてちょうだい」

 それがかつて自分が一番大切にしていた品だということすら、祖母の記憶からはこぼれ落ちてしまっている。

 そのスカーフは端がひどくほつれてしまい、もう身につけることはできない状態だった。だからといってタンスの奥で眠らせるのではなく、一番綺麗な部分だけを残して結婚式のリングピローに生まれ変わらせるのだと、姉は以前嬉しそうに語っていた。

 姉は悲しい顔をすることなく、古い思い出を新しい未来へ結び直そうとしている。そこには悪意も過去への執着もなく、ただこれから始まる生活への淀みのない明るさが満ちていた。

「ありがとう。それじゃあ、少しだけ形をもらうね」

 姉はあらかじめ引いてあった薄いチャコペンの線に沿って、机の上に置かれていた大きな銀色の裁ち鋏を手にした。

 ほつれた古い布地から美しい部分だけを切り出すため、静かに刃が進められる。擦れ合う冷たい金属が滑らかなシルクを断ち切る特有の音が、静かな部屋に思いのほか大きく響いた。

 千紘の視線は、姉の机の脇、小さな鏡台の横に飾られたセピア色の写真へと吸い寄せられた。そこには、若き日の祖母が今切り落されたばかりのスカーフを首にふわりと巻き、いまの姉とそっくりな顔で眩しく微笑んでいる。

 写真の中の祖母は永遠に若く美しいままだけれど、現実の祖母は籐椅子の上で少しずつ記憶を手放し、現実のスカーフはたった今、姉の未来のために切り離された。たとえそれが新しい形に生まれ変わらせるための選択であっても、元の形は二度と戻らない。

 カフェで聞いた、『自分の手で何かを作り出す仕事ができたらなって』という智司のまっすぐな声が蘇る。

 さらに、教室で自分が現代語訳を読み上げた『昔ありし家はまれなり』という一文がふと思い出され、じわじわと確かな重みを持って千紘の胸をざわつかせた。

 姉も、智司も、ごく自然に今の形を変えて、先へと進んでいく。形あるものは必ず変わり、次に進むためには、今あるものを切断しなければならないのだろうか。

 なんで、永遠ではいけないんだろう。智司の隣を歩くのは嬉しかったし、この部屋の午後はこんなに穏やかなのに。どうして世界は、この幸福な瞬間に栞を挟んで、時間を止めてくれないのだろうか。

 床にひらりと落ちたシルクの切れ端を見つめながら、千紘は自分がこれまで当たり前のように続くと思っていた穏やかな景色が、少しずつほどけていくのを感じていた。


 +++++


「ねえ千紘、これ、短すぎないかな?」

 西日を背にして、姉が無邪気に振り返った。その手には、裁ち切られたばかりのシルクの布地がふわりと握られている。

 千紘の視線は、床に落ちた切れ端に注がれたまま動かなかった。それはもう二度と、祖母が首に巻いていたあの美しいスカーフの姿に戻ることはない。

 耳の奥で、数時間前のカフェで「楽しいよ、すごく楽しい!」と甲高く笑った自分の情けない声がリフレインした。あの時の自分は、ただ前へ進もうとする智司の眩しさから目を逸らし、曖昧なまま立ち止まろうとしていただけだった。

 両親も老い、自分は大人になり、いつか必ずこの優しい世界には終わりが来る。

 古い布を裁ち切り、前を向いて新しい家族を作ろうとしている姉の姿は、千紘の目にはひどく残酷で――そして、胸が張り裂けそうなほど美しく映った。

 世界は有限であり、形あるものは永遠ではない。

 いつか失われてしまうこの瞬間の光や笑顔が、ただ眩しかった。やがて手放さなければならないことが、酷く寂しくて、たまらなく愛おしい。

 千紘は、喉の奥から込み上げてきそうになる熱い泣き声を必死に呑み込んだ。そして、先ほどのカフェでの空っぽな笑顔とは違う、ぎこちない本当の笑顔を作って姉を見返した。

「ううん……すごく、綺麗だよ」

 少しだけ震えたその声は、姉の手にある真新しいリングピローの布地だけでなく、前へ進もうとする姉の姿そのものに向けられていた。

 籐椅子の上で微笑み続ける過去のままの祖母と、未来に向かって裁ち鋏を入れる美しい姉。そして、迷いなく明日へと進もうとしている智司。彼らの間で、千紘はこの穏やかな幸福のさなかで、いつか訪れる確かな変化の予感に静かに息を詰めていた。

 自室に戻り、鞄から図書室で借りてきた画集を取り出す。

 ページを開くと、カンバスの中の女性たちは何百年も前と変わらない、穏やかな微笑みをたたえていた。けれど今の千紘には、額縁の中で永遠を生きる彼女たちが、傷つきながらも形を変えていくこちら側の生者たちを、どこか哀れんで見つめているように思えた。



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