第4話
それは11歳の誕生日を迎えた翌日のことでした。
シエルラッド王国南部地方で11歳の誕生日は、特に貴族子女においては少しだけ特別な意味合いを持っています。その話は追々話すとしまして、まずはその日の出来事からお話ししましょうか。
◇◇◇
誕生日の翌朝、アンナベッラは父の書斎に呼ばれた。
「来たか」
読んでいた書類を置いて、眼鏡を外した侯爵が顔を上げる。
「おはようございます、お父様」
「向こうで座って話そうか」
立ち上がった父に従い、暖炉のそばにあるソファーへと移動すると、2人は向かい合って腰を下ろした。アンナベッラが父の書斎で2人きりで過ごすのは初めてのことだ。
(そうね、もう私は小さな子供ではないのですもの。)
一人前のレディーとして扱われているようで、アンナベッラは嬉しかった。
が、父の顔から笑みが消えた。じっと彼女の瞳を覗き込んでいる。
アンナベッラはここで初めて気がついた。もしかしてお叱りを受けるため呼ばれたのかもしれないと。でも彼女に思い当たることはひとつもなかった。昨日だってそれは素晴らしい誕生パーティーを開いてくれたのだから。
(気がつかぬうちに何か粗相をしていたのかしら。)
頭をフル回転させて昨日の出来事を思い返していく。
そこでようやく侯爵が口を開いた。
「王都へ行くことになった。王命だ」
「へ?」
拍子抜けしたアンナベッラは、ひどく間抜けな声を上げた。
どんな話しをされるのかと、それはドキドキしていたから。
侯爵が王都へ行くことは珍しいことではない。毎年、1年のうち数ヵ月は王都で過ごしているからだ。
それよりも何故昨日のパーティーの時にそれを話さなかったのか、そちらの方がアンナベッラには不思議だった。パーティーには家族が皆揃っていたというのに。
それにどうしてこんな朝早く、アンナベッラだけを呼び出してまで告げるのだろう、と。
「いつお発ちになるのですか?」
「明日、王都に戻るビクトルと共に向かう」
ルナトゥリーナ家次男のビクトルは、騎士として王宮に仕えている。今回はアンナベッラの誕生日を祝うため、休暇を取ってルナトゥリーナ領に戻ってきたのだ。
最初アンナベッラは「たったの3日でお戻りになるなんて。」と寂しく思ったが、ルナトゥリーナ家の本邸から王都までは片道2週間かかる。新人騎士の兄にとって、1ヵ月もの長期休暇を取ることがいかに大変なことであるか、そう思い至ると口を噤んだ。
「いつ頃お戻りに?」
「うん――」
それきり侯爵は、組んだ手の上に顎を乗せて考え込んでしまった。どうしたというのだろう。
(長い間お戻りになれないのかもしれないわね。寂しいけれど平気よお父様。邸にはウィルフレド兄様も、ナディア様もいらっしゃるもの。お父様もご存知でしょう?私はもう小さな子供ではないの。泣いて困らせたりなんかしないから安心してくださいな。)
大抵の場合王都へは侯爵と夫人が揃って向かう。留守を預かるのは長男のウィルフレド・アルチェスタ子爵と、その夫人ナディアだ。父と母に数ヵ月の間会えないことが寂しくないと言えば嘘になる。しかしアンナベッラは幼い頃から聞き分けのよい子だったから、一度として泣きぐずったことはなかった。
けれど、意外な言葉が返ってきたのだ。
「お前なんだ、アンナベッラ」
「はい?私、ですか?」
「第一王子殿下の婚約者候補にお前の名が挙がった。王命により早急に王都へ向かう。今日のうちに支度を整えなさい」
「こんやく――?」
侯爵家の一人娘だ。この手の話は充分に教え込まれていた。しかしどこか自分とはまだ関係ない、遠い世界のことだと、この瞬間までアンナベッラは信じ切っていた。
(私が、婚、約。
結婚のお約束をする、ということよね?
第一王子殿下と言うとルフィーノ=シエルラッド殿下だわ。
知っているのはお名前と、お歳が私より4つ上ということだけ。王都へ行ったことのない私はもちろんお顔を拝見したこともないわ。
わかっています。侯爵家の娘に生まれたのだから、いずれはお父様がお選びになった方の下へ嫁ぐことになると。わかってはいた。いたけれど――)
「おお、泣くなアンナベッラ」
「泣いてなど――?!」
涙が頬を伝って、ぽたりと手の甲に落ちる。その滴を見てアンナベッラは初めて自分が泣いていることを知った。
(そうか、私は今悲しんでいるのね。)
嫌よ、王都になんか行きたくないわ。
そう言えたならどれほどよかったか。
「突然で驚いただろう。だが安心しなさい。私がついている」
「いつ、帰ってこれますか?ナディア様の赤ちゃんが産まれるまでに帰ってこれますか?」
言ってすぐにアンナベッラは後悔した。
ウィルフレドとナディアの嫡子はもうじき産まれるだろうと、昨日のパーティーの時にも話題になっていたのだ。きっと彼女たちが王都に到着するよりも先に、元気な産声を上げるに違いない。
「王子殿下のお側に行くのは嫌か?」
「お、お父様!」
「問題ない。今はお前と私の2人しかいない。正直に気持ちを話してくれないか」
キラリと一度は光を取り戻したアンナベッラの瞳も、次の瞬間には昏い影を落とす。
「私はルナトゥリーナ侯爵家の長女なのですもの」
ぽたぽたと手の甲に水が溜まっていく様を、声もなく見つめている。
再びアンナベッラが顔を上げると、眉を八の字にした侯爵がじっと彼女を見つめていた。
「正直にと言ったではないか。だがお前が何と言ったところでこの父に叶えてやることはできない。許せ」
王族へ嫁ぐということがいかに栄誉なことか、それがシエルラッド王国のどれほど多くの令嬢が夢見る場所であるかは、アンナベッラも充分に理解していた。加えてルナトゥリーナ家にとっても例外なく誉であるということも。
それでも彼女には辛い罰のように重くのしかかってくるようで、息苦しく思えた。
「まだ正式に決まったわけではない。候補と言うだけだ。しかし一度名が挙がった以上、選ばれなかった先に待ち受けることは覚悟せねばならん」
侯爵は安心させたいのか脅したいのかわからないことを言った。彼もまだ気持ちが追い付いていないのかもしれない。
しかし、侯爵の言葉は至極当然なことだ。
候補と言うからには、ほかに幾人もの令嬢が選ばれているのだろう。その中から1人を除いて全員が、いずれ役目を解かれる。王家から用済みと判断された時分に良い嫁ぎ先など残っているはずがない、そういうことなのだろう。
「ありがたくお受けいたします。婚約者候補としてのお務めを精一杯果たして参ります」
戦場へ赴く騎士の如く彼女は決意した。そう、これは彼女にとっては戦なのだ。但し全力で敗北するための。
「お父様、私が選ばれなくてもお許し下さいますか?」
一瞬目をぱちくりとさせたかと思うと、侯爵は珍しく破顔した。
「当然だとも。アンナベッラ、お前はどこに出しても恥ずかしくない自慢の娘だ。お前を見極めることすら出来ぬ王子など、こちらから願い下げだ」
「ふふ、お父様。そんなことを仰っては投獄されてしまいますわ」
大好きな父が味方してくれるのだ。彼女の心は少しだけ軽くなった。
(そうよ、選ばれなければよいのだわ。そうすればすぐにでもルナトゥリーナ領へ帰ってこられるでしょう。)
「ようやく笑顔を見せてくれたな。よし、それでは朝食に行こうか。皆私たちを待っている」
父が差し出した手を取り、アンナベッラは書斎を後にした。
王都行きの準備は僅か1日。さあ急がなくては。




