第25話
戦いの総司令官だった王太子殿下が、たったお1人でルナトゥリーナまで駆けてこられたのはただことではないはずなのに、私たちは西に太陽が隠れ落ちる寸前までその場で語り合った。
いいの、かしら。と考えなかったわけではないわ。でも彼は動こうとしないのですもの。
殿下は「ベル、俺のベル」と何度も懐かしい愛称で呼んで下さるのだけれど、私はなんとお呼びしたらいいのかわからなくて。だってルドはダミアン様の愛称だったのでしょう?
それに石像だった王太子殿下からはお名前を呼ぶ許可をいただいていないのですもの。
はたとそのことに気がついたようで、殿下は右の手で顔を隠してしまったの。
「あの時ルドと名乗ったことを後悔している。もう聞いているんだろう?」
ダミアン様の愛称だった、ということかしら?と先を読みこくりと頷いた。
「その時の言い訳は後でさせてほしい。今は俺の名前を呼んでくれないか」
婚約者になって5年と4日が過ぎて、初めて名前をお呼びする許可をいただいたのね。嫌味なんかじゃないわ。当時の私は許可をいただいてもお呼びしなかったでしょうし。
「ルフィーノ様」
やっぱり彼は笑うの。その笑顔はあの日のルドのままだったわ。髪の色以外はね。
そして私の髪を一束救い上げると、そっと唇を寄せた。
「黒髪は侯爵の指示だったのか?あれも似合ってはいたが、やっぱりこの白銀の髪がベルに相応しい」
そうなの。ルナトゥリーナへ戻ってからはカツラを被る必要もなくなってしまって、私は本来の自分の髪のままで過ごしていたのよ。殿下――ルフィーノ様はなんだか勘違いをなさっているようだから、そのままにしておこうかしら。悪女になりたくて黒髪にしただなんて絶対に知られたくないもの。
今、私の髪には2本のリボンが結ばれている。あの日片方をルドに渡したリボンよ。ルナトゥリーナへ帰ってきた日の夜、ビクトル兄様から渡された手紙の中にそのリボンが入っていたの。2本のリボンは長い間離れ離れだっとは思えないほど、どちらも色褪せていなくて昔のままだったわ。
17歳となった今では少し可愛らしいものだけれど、ルフィーノ様がお戻りになるまでは毎日これを結ぶと決めていたのよ。
このリボンにもすぐに気がついてくださったようで、愛おしそうに頭を撫でてくれたわ。
手紙には「代わりのお守りを受け取ったから」と書いてあったけれど、ルフィーノ様が下げていた剣に私の編んだ組紐は結ばれていなかった。もしかして役目を果たしたのかしら。お守りとしての。
無意識のうちに剣をちらちらと見てしまう私に気がついたようで、ルフィーノ様は微笑む。今はその笑顔も自然に受け止められるのだから不思議ね。
彼は首元に手を入れて、中から細い鎖の先にしっかりと結ばれている組紐を見せてくれた。
「エリシヴィンの奴等の血で染めるわけにはいかないだろ?ずっとここに入れていた」
それはルフィーノ様が自ら剣を振るって戦っていたことを意味するのでしょうけれど、こうして無事戻ってこられたのですもの、余計なことは聞かずにいましょう。私は黙ってただ笑顔を向けた。
「ご無事でお戻りくださってよかった。聞きたいことがあまりにもたくさんあるのですもの」
違うわ。お会いしたら最初に言う言葉をずっと決めていたじゃないの。
私は慌てて付け足したの。
「長い間誤解しておりました。思い返せば数々のご無礼を働きましたわ。ごめんなさい」
ルフィーノ様は私の左手を取ると、ご自分の右手と重ねてキュッと結び、湖に視線を向けたままお話しになったわ。
「いや、俺が誤解させるよう行動していたんだ。ベルが謝ることはひとつもない」
今のルフィーノ様を見ていれば、彼はルドだった頃とちっとも変っていないことが容易にわかる。ルドと会ったのはほんの1回でしょう?と言われるかもしれないけれど、回数は重要じゃないと思うの。
「何故そうされていたのか、お伺いしても?」
ルフィーノ様はそれは優しい眼差しを向けてこられて、しっかりと頷いて下さったわ。
「ああ、全て話すさ。だがとても長くなる。何せ12年前のことから話さなくてはならないからな」
こんな日が来ることを、あの日の私は微塵も予想することが出来なかったわ。けれどそれは許していただきたいの。だって初めて王都でお会いした時のあなたは紛れもなく石像だったのだもの。
聞かせてくれるのね。12年分の話を。
何日かかるかしら。何日だってかまわないわ。私たちは婚約しているのですもの。2人の時間はたくさんあるわ。これから先ずっと。
シエルラッドにようやく平和が帰ってきて、私たちの前には輝かしい未来が拓けている。急ぐ必要なんてないのね。なのに――
「あっ!」
慌てた声を上げたのは私ではないわ。ルフィーノ様よ。ようやくルナトゥリーナへ来て何時間もここで過ごしてしまったことに気がついたのかしら。ふふ、直に陽も暮れますし邸へご案内いたしましょう。まずは温かい湯を用意してお寛ぎいただきましょう。けれど続いた言葉は
「ベルの兄も無事だ。何日かすればここへ戻ってくるだろう」
まあ!ビクトル兄様のことでしたのね。私ったら、今の瞬間まで兄様のことを忘れていたわ。ううん、忘れてはいなかったと思うのだけれど、少なくとも気にはしていなかったみたい。ごめんなさいね兄様。
「お伝え下さりありがとうございます。両親も安心することでしょう」
それでも私は大切な家族の無事を知らせてくれたルフィーノ様に丁寧にお礼を返すことができた。これは悪女として努力していた時に培ったものだと思うの。そう思うと悪女を目指したことも無駄ではなかったみたいね。
そうだったわ。とても重要なこと――ルフィーノ様は大切な従者を失ったのだったわね。そのお悔みもお伝えしていなかったわ。
「カレスティナ卿のことはお聞きしております。お悔やみ申し上げます」
するとルフィーノ様は石像に戻ってしまったの。全く感情のこもらない目をして黙り込んでしまったのよ。勝利の祝いの時に相応しくない話題だったのね。軽率だったわ。
なんとお声がけしようかと思案していた矢先、ルフィーノ様が仰ったの。それは驚きなんて言葉ではとても足りないほどの衝撃で。
「確かに俺の従者だった男は死んだ。俺が殺したからな」
アンナベッラ編はここで完結です。
次話からはアンサー編[ルフィーノ視点]になります。




