漆黒将軍
突然の出現。それは,少なくともエリィとノーブルにとってはそれ以外の何物でもなかった。
「!?」
エリィが弾かれたように椅子から腰を浮かせて振り返る。そしてその目が大きく見開かれる。
「ちょ…ま…」
やっとそれだけを言ってあんぐりと口を開けたまま,今度はノーブルを振り返るエリィ。
「馬鹿な…」
しかしノーブルの驚きは,エリィのそれを上回っていた。そう言ったきり絶句するノーブル。
「…」
さすがにまったくの平常心とも行かなかったが,それでもクーラの驚きは二人のそれよりも随分と軽いものだった。
もし全員を驚かせることで主導権を握るのが相手の目的だとすれば,それに乗らない方がいい。何となくそう判断して彼は自然体のまま,しかしどんな状況にも即応できるよう臨戦態勢をとる。
「…驚かせたようだな。少々事情があってこうなった」
ややあって,ヴァニティが口を開く。
(く…)
それだけで,クーラはどうしようもなく気圧される。
「…!」
そこでハッと我に返り,臨戦態勢を取ろうとするエリィ。
「…手紙を…持ってきてくれたのだろう?」
それを手で制しながら言うヴァニティ。
「え?え,ええ…」
それに気勢を削がれてしまうエリィ。
(…)
このあたりの間の測り方はさすがに百戦錬磨の強者と言ったところか。クーラは油断なく様子を窺いながら思う。
「…これでも,冒険者の流儀は弁えているつもりだ」
だがヴァニティは意外な事を言い出す。
「え,え…?」
「…陛下に請われて将軍となる前は冒険者だった。それだけの話だ」
その様子に変わったところはない。だがだからこそ,なぜその話が出てきたのかが余計に分からない。
「…」
ぽかんとするエリィ。
「…クーラ大尉,だったかな?」
結局謎は謎のまま,そこで視線をクーラへと移すヴァニティ。
見られている。その感覚だけでぞくぞくと背筋が凍え,平静を装うのだけで精いっぱいとなるクーラ。
「ええ…お初にお目にかかります」
「…すまないな。椅子を…用意させれば良かったな」
「いえ,お構いなく。無理を言って割り込ませてもらったのはこちらです」
「…そうか」
そう言って歩き出したヴァニティは,エリィに座るよう促しながら,やや遠回りで卓の反対側へと回る。
それで圧が弱まり,クーラはやっとのことで小さく息を吐く。
(しかし…)
やはりおかしい。これだけの圧ならば,自分だけではなくエリィやノーブルにも何らかの影響が出るはずだ。
だが先ほどと同様,二人の様子には全く変わったところが見られない。
「…さて,分かっているとは思うが一応挨拶しておこう。帝国の漆黒将軍…ヴァニティだ」
ヴァニティはそう言って笑い,椅子へと腰を下ろす。
「あ,あの…”風”のエリィです…」
どう接していいのか分からない,と言った複雑な表情でそう言い,ぺこりと頭を下げるエリィ。
「…久しいな。元気そうで何よりだ。一時はかなり心配もしたが」
また予想外な事を言い出すヴァニティ。
「!?」
目が点になるエリィ。
「な,な,何を…」
「…ああ,いや…」
そこでちらりと他の二人を気にするヴァニティ。
「…その話はおいおい,な…」
「あ…は,はぁ…」
(…?)
それで何となく納得してしまったらしいエリィを不審に思うクーラ。
この二人の間には特別な何かがあるのだろうか。”紅き流星”がらみの何かは当然あるだろうが,この成り行きはそこから推測されるどの展開とも随分とかけ離れている。
「…で,そちらが…」
それでその話を切り上げ,ヴァニティは視線を移す。
「こうして近くでお会いするのは初めてですね,将軍。私はノーブル」
さすがにこちらは手慣れたものだ。ノーブルの言葉にはどんな感情の揺らぎも感じる事ができない。
「…”仮面の賢者”の噂は聞いているよ。先のマイシャでもかなりの活躍だったと…」
「情報が早いのですね。将軍ほどの方に覚えて頂いていたとは,光栄です」
にこやかに笑いながら言うノーブル。
それに笑みを返してから表情を引き締め,視線をエリィに戻して口を開くヴァニティ。
「…では早速だが,その手紙を見せて頂こう」
「あ,は,はい…」
あたふたとエリィがバックパックから手紙を取り出しているのを感じながら,クーラはまた逡巡する。
先ほどは向こうが,警戒されることを良しとしないかのように意図的に距離を取った。だが向こうにしてみればこの機会があるわけだから,別に事を急ぐ必要も無いと見る事もできる。
(…)
しかし結局クーラはそれをやめた。今の漆黒将軍には殺気の欠片も感じられない。それでも逃げ出したくなるほどの威圧を感じているのも確かだが,すぐに行動を起こす事はなさそうだ。先ほどのやりとりを見る限りこの男は,いや,エリィもそうなのだろうが,先に何かを確かめたがっている。そう感じたのだ。
むしろ気になるのは,先ほどからエリィの近くをふらふらと動き回る小さな威圧感。小さいといってもこちらにとってかなりの脅威である事は間違いない。そして先ほどの事から考えて,こちらも実体化する可能性がじゅうぶんにあり,漆黒将軍があり得ないほど和やかにしているのもそちらに仕掛けさせる算段のゆえ,とも考えられるのだ。
気づいていないふうを装って警戒を続ける。五分でやりあってはエリィを守るのは絶対に不可能だろうが,不意をつけば致命の一撃を一度だけでも防げるかも知れない。
「どうぞ…その…白廉将軍からの手紙です…」
「…これか」
エリィが差し出した封書を受け取り,ヴァニティはそれを裏返す。
「…ん?しかしこれには,差出人が書かれていないが…」
「え?」
それを聞いてエリィがまた目を丸くする。
(…?)
驚いたという事は,エリィは差出人が書かれていると思っていたのだろう。つまり封書には何らかの記載があったが,その書式はエリィには読めなかったという事になる。
「ええ,そうです」
そこでまたノーブルが口を挟む。
「書いてあるのは暗号めいた一文と一字だけ…正直,少々不自然さを感じながらここまで参りました」
(暗号…)
どうやらノーブルには読めるらしい。らしいが,その意図は分からないらしい。
「…これは,間違いなく白廉将軍からの物なのか?」
エリィに視線を移し,ヴァニティは言う。
「え?え,ええ…そのはず…」
どぎまぎするエリィ。
(あまり詮索されたくはないが…)
素知らぬふうを装いながら,クーラは思う。
「そのはずではありますが,とはいえ…」
そこですかさずノーブルが口を挟む。
「本当にその中身を白廉将軍がお書きになったかも定かではありません。我々には彼の筆跡を鑑定する事もできなければ,その手紙を開けて中身を見るような信義に悖る真似もできませんから」
「…それもそうだな」
苦笑するヴァニティ。
「おや?」
と,そこでノーブルが声の調子を変える。
「…何か?」
「いえ…将軍は,我々が手紙を届けに来ると知った上でここまでの案内を出したと思っていたのですが。予めご本人から連絡を受けていたのではないのですか?」
「…」
しばし沈黙するヴァニティ。だがすぐに,素っ気なく言う。
「…そこは軍機でな」
「これは失礼を致しました」
素っ気なく返して,頭を下げるノーブル。
「…」
再び裏面の文字を眺めるヴァニティ。ややあって彼はおもむろに口を開いた。
<…征け>
パチンッと小さな乾いた音を立てて封が開く。
中の書状を取り出そうとした彼は,その奥に目を丸くするエリィの姿を認めた。
「…どうした?」
「ま,魔法…?」
(…という事は,書かれていたのも上位古代語か)
こちらもエリィには判別できなかっただろうが,漆黒将軍が発した言葉も上位古代語のそれだ。
「…この程度は一般教養だ」
苦笑するヴァニティ。
「うぐ…」
悔しそうな悲しそうな怒った表情をするエリィ。
「…封印をかけたのは先方だ。私はただそれを…」
それを気にしたのか,ヴァニティが労りともとれる不自然な言葉を発する。
「私は読めなかった!」
そこで遂にエリィが切れる。考えようによっては凄い事だ。敵の重鎮を前に激高するなど,およそあり得ない。
「どうせ私は教養の無い…」
「…すまない」
(なっ!?)
だがそこでまたしても予想外。あり得ないエリィの反応に,あり得ない対応で応酬したのかとさえ思わせるような言葉。
「えっ!?」
それですっかり毒気を抜かれ,また目を丸くするエリィ。
「…そういうつもりで言ったのではないが,辛い思いをさせたようだ」
「…」
素直に謝るヴァニティが予想外過ぎて,ぽかんとするエリィ。
「…そういちいち驚かれるのは,さすがにあまり気持ちの良いものではないな」
「え…ちょ…?」
「…それほど不思議な事をしているわけではあるまい?」
今度は微笑するヴァニティ。
(…)
いよいよあり得ない。これではまるで年下の彼女に接する彼氏か,さもなくば妹を見守る兄だ。
一体この二人の間には何があったのだ。まさか,”紅き流星”も含めた因縁とは愛憎劇なのか?クーラは困惑しながらも,何とか妥当な答えを出そうと苦心する。
「そ,そんなワケないでしょ!?」
慌てて否定するエリィ。勿論それはヴァニティの言葉を否定したのだろうが,あまりのタイミングの良さにクーラは内心どきりとする。
「あり得ないわよ,私たちは敵…」
言いかけた彼女をヴァニティが見据える。鋭さを増したその視線を受け,言葉に詰まるエリィ。
「…そうなのか?」
静かに言うヴァニティ。
「う…」
「…ならばなぜここまで来た?命を捨てに来たとでも言うのか?」
「…っ」
まずい。クーラはやや前かがみになる。もちろん,いざとなったら飛び込むためだ。
「少なくとも今は,敵ではありませんね」
しかしそこで,またノーブルが割り込む。
「私たちは依頼を請けてここまで来ました。そして将軍はその依頼先。少なくとも今は,そういう関係です」
「…そういう事だ。今はまだ,な…」
そう念を押して,視線を手紙に戻すヴァニティ。
(…)
クーラは前傾を解く。そこには若干の違和感。戦端すら開きかねないその言葉の割にまったく殺気は感じなかったし,圧にも何ら変化は無かった。言葉としてはそうだがそんな気などまるでなく,むしろ反応を確かめただけのようでもある。
「…それに」
もうすっかり先ほどと同じ穏やかさに戻って,中身を取り出しながらヴァニティは口を開く。
「…これから学んでも遅くはない」
「えっ…?」
また目を丸くするエリィ。
「…さして難しい事ではないのだ。気に病むくらいなら,さっさと克服してしまえば良いさ」
微笑を浮かべながら素早く中身を確認したヴァニティは,それを元の通りしまう。
「ちょ…な,なんであなたにそんな事心配されなきゃなんないのよっ!」
むきになるエリィ。
「…役作りの為にも必要だろう?」
苦笑しながら,しかしヴァニティは不意に言葉で斬り込んで来た。
「えっ…?あ…!」
一瞬ぽかんとして,その次の瞬間にはハッとするエリィ。
「…聡明で思慮深く気品に溢れるアリシア女王を演じているのだ。そのくらいはしてほしい所だな」




