第84話 龍と猿
「では、行ってくる」
次の試合を告げる声が響く中、シウンが立ち上がった。
その表情には緊張らしいものがない。むしろこれから何が始まるのか楽しみにしているようで、口元には薄く笑みさえ浮かんでいる。
対戦相手は、昨年の優勝者。
サルトビ・ゴクウ。
昨日の予選でもほとんど危なげなく勝ち上がり、さっき発表された本戦表でも名前が呼ばれただけで観客席が沸いた。
どう考えても簡単な相手じゃない。
「相手、去年の優勝者だぞ」
「知っている」
「分かっててその顔なのかよ」
「強いのであろう?」
「だから言ってるんだけど」
「なら、楽しみではないか」
「……そういう奴だったな、お前」
シウンは満足そうに頷いた。
隣ではセレーネが俺の上着を羽織ったまま座っている。
俺の服だから当然サイズは合っていない。袖から出ているのは指先くらいで、裾も普段よりずっと長い。
本人はまったく気にしていないようだけど。
というか、問題は俺の方だった。
「旦那」
「ん?」
「いつまでそんな格好してるんです?」
「俺だって好きで脱いでるわけじゃない」
声のした方を見る。
いつの間にか戻ってきていたミニムスが、呆れた顔で俺を見ていた。
さっきまでいなかった気がする。
「ほら」
何かが投げられる。
「うわっ」
慌てて受け取った。
薄手の羽織。
「どこから持ってきたんだよ、これ」
「そこらでちょいと」
「そこらってどこだよ」
「細けぇことはいいじゃありませんか。旦那が半裸でうろついてる方がよっぽど問題ですぜ」
「誰のせいだと思って……」
言いながらセレーネを見る。
「……なに?」
「いや、なんでもない」
返せとは言えない。
あの服が駄目になったのはセレーネのせいじゃないし、何より本人がまだ俺の上着をしっかり前まで閉じている。
さっきのことを思い出したのか、セレーネが僅かに目を逸らした。
俺もすぐ視線を外す。
危ない。
今は触れない方がいい。
渡された羽織に袖を通す。
「……で、お前どこ行ってたの?」
「ちぃと仕事ですわ」
「仕事?」
「こういう人の集まる催しじゃ、銭もよく動くんで」
「……お前まさか、試合に賭けてんの?」
「まさか」
ミニムスは心外そうに首を振った。
少し安心した。
「オイラ、胴元ですぜ」
「もっと駄目なやつじゃねえか」
「何言ってんです旦那。賭ける側より胴元の方が堅実でしょうが」
「そういう問題じゃないだろ」
「ちなみに旦那の試合、なかなか儲かりやしたぜ」
「俺の試合で商売すんな」
「五属性まで見せてくれるとは思いやせんでしたけどね。あれで次から倍率が――」
「知らん。聞きたくない」
「もったいねえ」
ミニムスが肩を竦める。
こいつ、俺たちを案内していない時は本当に何をやってるんだ。
「ミニムス」
シウンが呼ぶ。
「へい?」
「わたしとゴクウは?」
「もちろん扱ってますぜ」
「そうか」
「聞くなよ」
嫌な予感がする。
シウンは少し考えた。
「どちらが人気なのだ?」
「おい」
「そりゃゴクウの旦那ですな。去年の優勝者ですし、カグラじゃ名も売れてますから」
「ほう」
シウンの口元が上がる。
「ならば、面白い」
「そこで燃えるのかよ」
「当然だ」
立ち上がる。
今度こそ舞台へ向かうらしい。
「シウン」
セレーネが呼び止めた。
シウンが振り返る。
「なに?」
「……気をつけて」
「うむ」
それだけ。
でもシウンには十分だったらしい。
「勝ってくる」
そう言って、舞台へ向かった。
◇
シウンが姿を見せた時にも歓声は上がった。
昨日の予選での戦いを見ていた人も多いのだろう。
ただ。
反対側の通路から男が現れた瞬間、その大きさが一段上がった。
「ゴクウ!」
「今年も頼むぞ!」
「連覇しろよ!」
サルトビ・ゴクウ。
長い金属棍を肩へ担ぎ、まるで散歩にでも来たような足取りで舞台へ向かっている。
「おー、今日も多いなぁ」
観客へ手まで振っていた。
「任せろ任せろー!」
「……軽いな」
「いつもあんな感じですぜ」
ミニムスが言う。
「知り合いなの?」
「カグラに長くいりゃ、嫌でも顔くらい知りますわ」
それもそうか。
昨日の予選でもゴクウは目立っていた。
でも。
何が強いのか。
俺にはまだよく分かっていない。
相手の攻撃を避ける。
金属棍を使う。
動きは速い。
獣人らしく身体能力も高い。
それくらいなら分かる。
ただ、去年この大会を勝ち抜いた理由になるほど圧倒的な何かを、まだ見ていない。
舞台の中央。
シウンとゴクウが向かい合う。
「よろしくな」
「うむ。よろしく頼む」
ゴクウがシウンを眺めた。
「昨日見てたけどさ」
「うむ」
「お前、結構強いだろ?」
「結構ではない」
「お?」
「わたしは強いぞ」
一瞬。
ゴクウが黙った。
次の瞬間には、楽しそうに笑っていた。
「いいねえ。そういう奴、好きだぜ」
「そうか」
「勝ったら飯でも行く?」
「飯?」
明らかにシウンの目が変わった。
「どこへ行く」
「そこ食いつくのかよ」
「カグラにはまだ知らぬ店が多い」
「試合より興味ありそうじゃねえか」
「試合も楽しみだ」
「じゃ、勝った方が奢りな」
シウンが眉を寄せる。
「待て」
「ん?」
「それでは勝った方が損ではないか?」
「細けえな!」
観客席から笑いが起きた。
審判まで困った顔をしている。
「……両者、そろそろいいか?」
「あ、悪い悪い」
「すまぬ」
「なんなんだ、あいつら」
俺も笑ってしまう。
「似た者同士」
セレーネが呟いた。
「確かに」
でも。
ゴクウが肩から棍を下ろした瞬間。
空気が変わった。
口元の笑みは残っている。
構えらしい構えもない。
力んでもいない。
なのに。
「……なんだ?」
どこへ動くのか分からない。
前へ来るのか。
後ろへ下がるのか。
右か。
左か。
棍を使うのか。
蹴るのか。
何も読めない。
対するシウンは素手だった。
両腕を自然に下ろし、真正面からゴクウを見ている。
「両者、準備はいいか!」
「いつでも」
「よいぞ」
審判が腕を振り下ろした。
「始め!」
石床が砕けた。
シウンが一気に距離を詰める。
駆け引きなんてない。
真正面。
そのまま拳を振り抜いた。
速い。
俺が目で追えた時には、もうゴクウの顔の前まで拳が届いていた。
金属音。
拳と顔の間に棍が入る。
ゴクウが両手で受けた。
「うおっ!」
身体が後方へ滑る。
一メートル。
二メートル。
まだ止まらない。
靴底が石床を擦り、ようやく止まった。
「はっは!」
ゴクウが笑った。
「重てえな!」
「まだだ」
シウンが追う。
右脚。
今度は蹴り。
ゴクウが棍を縦に構えた。
激突。
金属棍が大きく撓んだ。
「うわっ」
ゴクウの身体がまた後ろへ押される。
でも今度は違った。
押されながら棍の先を地面へつく。
それを支点に身体を浮かせる。
シウンの蹴りの力を受け流しながら横へ回り、そのまま空中で身体を捻った。
棍の反対側がシウンの脇腹を狙う。
シウンが腕を出した。
ガン、と硬い音が響く。
「……硬っ」
ゴクウの眉が上がった。
シウンの前腕。
そこだけに龍鱗が浮かんでいる。
部分龍化。
「なるほど」
着地。
ゴクウが一度距離を取る。
「昨日のアレ、それか」
「まだ行くぞ」
「話くらいさせろよ!」
シウンが踏み込む。
拳。
ゴクウが頭を傾ける。
二発目。
棍で外へ流す。
三発目。
身体を沈める。
そのまま棍が低く回った。
足払い。
シウンの片脚へ当たる。
普通なら体勢を崩す。
でも。
「ふん」
シウンは動かなかった。
「マジか」
逆に棍を掴んだ。
「捕まえたぞ」
「うわ、最悪」
引く。
ゴクウの身体が一気にシウンへ引き寄せられた。
力が違いすぎる。
棍を握ったまま耐えれば、そのまま捕まる。
ゴクウは。
手を離した。
「え?」
俺だけじゃない。
シウンも僅かに目を見開く。
武器を自分から捨てた。
そのまま引かれる勢いへ逆らわず、ゴクウがシウンへ飛び込む。
肩へ手をつく。
身体を浮かせる。
頭上を越えた。
着地と同時。
背中へ蹴り。
「む」
シウンが一歩前へ出る。
倒れない。
振り返った時には、ゴクウはもう離れていた。
その足元へ金属棍が落ちてくる。
ゴクウが爪先で蹴り上げた。
回転。
そのまま手の中へ戻る。
「……なんだ今の」
武器を奪われたはずなのに。
気づけば何も失っていない。
「面白いな、お主」
シウンが笑う。
「だろ?」
ゴクウも笑った。
「お前もな」
二人が同時に動いた。
今度はゴクウ。
速い。
でもシウンとは違う。
一直線じゃない。
一度右へ身体を振る。
次には左。
低く沈んだと思ったら、棍を地面へ突き立てて身体を跳ね上げる。
軌道が読めない。
肩へ棍。
シウンが腕で受ける。
龍鱗。
次は膝。
脚を引く。
背後へ回った。
シウンが振り返る。
もういない。
「上だ!」
思わず声が出た。
ゴクウが空中にいる。
棍を振り下ろす。
シウンが両腕を交差させる。
両腕へ龍鱗。
衝突。
シウンの足元の石床が僅かに沈んだ。
「軽い」
「そりゃどうも!」
ゴクウが棍を引く。
シウンの拳。
身体を反らす。
拳が鼻先を抜ける。
そのままゴクウは片手を地面へつき、脚を振り回した。
足払い。
今度はシウンが跳ぶ。
「《ウィンドボール》」
「おっと!」
至近距離。
風の塊が飛ぶ。
ゴクウが棍を地面へ突き立てた。
身体を横へ振る。
風が頬を掠め、髪を乱した。
「魔法も使うのかよ!」
「使えるぞ」
「先に言えって!」
「聞かれておらぬ」
「そりゃそうだけどさ!」
ゴクウが着地する。
そこへシウン。
拳。
受ける。
蹴り。
避ける。
もう一度風。
今度は棍を回し、身体を押されながら軌道を外す。
攻めているのはシウン。
明らかだった。
身体能力が違う。
一撃が重い。
防御は龍鱗。
そのうえ魔法まである。
ゴクウが一度でもまともに捕まれば、一気に終わる。
「……でも」
違和感があった。
ゴクウが焦っていない。
追われている。
攻撃を防ぎきれず、逃げている。
なのに。
ずっと笑っている。
「どうした?」
セレーネが俺を見る。
「いや……」
何かある。
まだ分からない。
舞台では、シウンがさらに攻める。
風で右を塞ぐ。
ゴクウが左へ。
そこへ拳。
「そっちは駄目だ」
「だよな!」
棍で受ける。
轟音。
今度こそゴクウが吹き飛んだ。
空中で一回転。
着地。
片膝をつく。
「おお……」
棍を見る。
僅かに曲がっていた。
「これ結構高かったんだけどな」
「すまぬ」
「試合中に謝られると反応に困るんだよ」
「ならば謝らぬ」
「それはそれで悲しいな!」
観客席から笑いが起こる。
シウンも笑っている。
でもゴクウは。
笑いながら、見ていた。
シウンの腕。
脚。
肩。
腰。
視線。
呼吸。
魔法を使う時の僅かな動き。
龍鱗が浮かぶ場所。
「……」
俺は無意識に身を乗り出した。
ゴクウが走る。
棍がシウンの肩へ。
鱗。
止める。
すぐに棍を引く。
腹。
鱗。
今度は脚。
鱗。
背中。
鱗。
どれも効かない。
それでもゴクウは攻撃を止めない。
「何やってるんだ?」
効かないことはもう分かっているはずだ。
なのに、狙う場所を変えながら何度も棍を当てる。
シウンが鬱陶しそうに腕を振った。
「ちょこまかと!」
「捕まえてみろよ!」
「言ったな!」
追う。
ゴクウが逃げる。
シウンが風を放つ。
右を塞ぐ。
ゴクウが左。
拳。
棍。
衝突。
身体を沈める。
シウンの拳が頭上を抜ける。
足元を狙う。
シウンが跳んだ。
「《ファイアボール》」
「火まであんのか!」
炎。
ゴクウが転がる。
石床が焼ける。
着地したシウンがさらに手を向けた。
「まだあるぞ」
「マジ?」
「《ウォーターボール》」
「三つ!?」
水球が飛ぶ。
ゴクウが棍で弾いた。
水が弾け、顔へかかる。
「ははっ!」
それでも笑った。
「いいねえ! どんだけ持ってんだよ!」
「隠してはおらぬ」
「じゃあ最初から使えよ!」
「必要がなかった」
「言うねえ!」
火。
水。
風。
シウンの三属性。
ゴクウの逃げ道がさらに狭くなる。
身体能力だけでもシウンが上。
そこへ魔法が加わった。
普通なら、もうどうしようもない。
なのに。
俺はさっきからゴクウの目ばかり見ていた。
楽しそうに笑っている。
でも目だけは。
ずっとシウンを観察している。
「……セレーネ」
「なに?」
「あいつ、何か狙ってないか?」
「……うん」
「分かる?」
「まだ」
セレーネも舞台から目を離さない。
俺の上着の長い袖から僅かに出た指先が、膝の上で止まっている。
シウンが踏み込む。
右拳。
ゴクウが左へ。
風。
逃げ道が消える。
右へ戻るしかない。
シウンが先回りする。
「もらった」
「――そこだ」
ゴクウの声が変わった。
棍の先端が地面へ触れる。
何かが弾けた。
煙。
一瞬で二人の姿が消える。
「煙幕?」
観客席がざわめいた。
煙の中。
鈍い音。
一度。
二度。
三度。
直後。
シウンが自分から煙の外へ飛び出した。
数歩下がる。
構える。
煙が少しずつ晴れる。
ゴクウがいない。
「どこだ?」
シウンが周囲を見る。
俺も探す。
右。
いない。
左。
いない。
そして舞台の端。
しゃがみ込む影。
「いた」
ゴクウ。
何かをしている。
手元から伸びる細い線。
「糸……?」
シウンが気づく。
踏み出す。
その足が引っかかった。
「む?」
体勢が僅かに崩れる。
手裏剣が飛ぶ。
三方向。
シウンの肩と腕へ龍鱗。
弾く。
当然、傷なんてつかない。
でも。
「違う」
ようやく気づいた。
「倒すためじゃない」
手裏剣を弾くために、シウンが腕を上げた。
ほんの一瞬。
視界が狭くなる。
そこへゴクウが入る。
棍。
腹。
シウンが反応する。
脇腹へ鱗。
金属音。
「そこも硬い!」
ゴクウは止まらない。
肩。
鱗。
脚。
鱗。
背中。
鱗。
全部防がれる。
でも。
違う。
ゴクウは防がせている。
「……鱗だ」
俺が呟いた。
セレーネが僅かに頷く。
シウンの部分龍化。
全身を龍へ変えるわけじゃない。
攻撃を受ける場所だけ。
必要な部分だけを鱗で覆っている。
それがシウンの強み。
少ない動きで、必要な場所を守れる。
でもゴクウは。
その場所をずっと変えさせていた。
肩。
腹。
脚。
背中。
腕。
どの攻撃なら、どこへ鱗を出すのか。
どれくらいの速度で切り替わるのか。
身体を動かしている最中でもできるのか。
魔法を使う時はどうなのか。
「最初から……」
勝とうとしていなかったわけじゃない。
勝つために。
調べていた。
「やっと分かったか?」
ゴクウが笑う。
俺に言ったわけじゃない。
シウンへ。
「何がだ?」
「お前、攻撃される場所だけ硬くしてるだろ」
シウンの目が細くなる。
「だから?」
「いや」
ゴクウが棍を肩へ乗せる。
「分かりゃ十分」
次の瞬間。
シウンが地面を蹴った。
速い。
真正面。
拳。
ゴクウが棍で受ける。
今度は吹き飛ばされない。
衝撃が届く直前。
自分から後ろへ跳んだ。
力を逃がす。
シウンが追う。
着地。
ゴクウが右へ。
風。
でも。
風が放たれるより先に左へ切り返した。
「なに?」
シウンが僅かに遅れる。
棍が肩。
鱗。
引く。
腹。
鱗。
引く。
脚。
鱗。
肩。
鱗。
攻撃が速くなったわけじゃない。
触れる直前で引いている。
シウンの防御だけを動かしている。
「鬱陶しい!」
シウンが腕を振る。
ゴクウが潜る。
足元へ棍。
脚へ鱗。
でも。
来ない。
フェイント。
「っ」
ゴクウが跳ね上がる。
胸。
シウンの鱗が胸元へ移る。
防ぐ。
その瞬間。
ゴクウが棍から手を離した。
「また武器を――」
違う。
棍が落ちる。
シウンの視線が一瞬だけそちらへ向いた。
ゴクウが懐へ入る。
肩。
腰。
脚。
三つがほとんど同時に動く。
「え?」
何をしたのか。
俺には分からなかった。
ただ。
次に見えた時。
シウンの身体が浮いていた。
「なっ――」
投げた。
あのシウンを。
力で持ち上げたんじゃない。
前へ出ていた勢い。
胸を守るために変わった姿勢。
棍へ向いた視線。
全部。
ほんの一瞬だけ重なったところを使った。
「うおおおっ!」
観客席が沸く。
シウンが空中で身体を捻る。
着地。
まだ場外ではない。
むしろ。
「面白い!」
笑っていた。
「ははっ、まだ来るのかよ!」
「当然だ!」
シウンが再び走る。
ゴクウも棍を拾う。
二人が舞台を駆ける。
直線ならシウンが速い。
間違いない。
それなのに追いつけない。
ゴクウは真っ直ぐ走らない。
急に止まる。
方向を変える。
棍を地面へ突き立て、身体を浮かせる。
舞台の縁ぎりぎりへ行ったと思えば、シウンが追いつく直前に内側へ戻る。
「待て!」
「待てって言われて待つ奴いるか!」
「ならば止める!」
風。
広がる。
ゴクウの進路を塞ぐ。
「それ待ってた!」
「なに?」
ゴクウが、逃げるどころか風へ向かって走った。
「そこは――」
地面へ何かを叩きつける。
煙。
直後。
シウンの風が、それを巻き上げた。
「あっ」
煙幕が一気に広がる。
自分の魔法で。
シウン自身が視界を潰してしまった。
「くっ……!」
「いい風だな!」
煙の向こうからゴクウの声。
「お主……!」
「借りるぜ!」
位置が分からない。
声は右。
シウンが右へ向く。
手裏剣。
弾く。
背後から棍。
鱗。
振り返る。
いない。
左から足音。
拳を振る。
空振り。
「ちょこまかと……!」
シウンの声に苛立ちが混ざる。
そして。
「なら――!」
魔力が膨らんだ。
嫌な予感。
「全部吹き飛ばす!」
風が爆発した。
煙幕が散る。
視界が一気に開ける。
「いた!」
舞台の端。
ゴクウ。
「しまっ――」
初めて。
ゴクウの顔から余裕が消えた。
「捕まえたぞ!」
シウンが地面を蹴る。
速い。
もう逃げ場がない。
ゴクウの背後は場外。
左右へ動いても、シウンの方が速い。
拳。
ゴクウが棍を構える。
真正面から受ければ押し出される。
避けても場外。
「終わりだ!」
拳と棍。
激突。
――しなかった。
「え?」
ゴクウが棍を傾けた。
シウンの拳が金属の表面を滑る。
力の向きが逸れる。
「なっ」
シウンの身体が前へ流れた。
ゴクウが横へ回る。
背中を押す。
シウンの片足が舞台の外へ出た。
「シウン!」
まだ落ちない。
残った片脚だけで無理矢理止まる。
「まだだ!」
振り返る。
その瞬間。
ゴクウが笑った。
「知ってる」
足元。
細い糸。
さっき煙幕を使った時。
舞台の端でゴクウが仕掛けていたもの。
残った片脚へ絡みつく。
「な――」
引かれる。
僅かだった。
ほんの少し。
でも。
片脚だけで全身を支えていたシウンには、それで十分だった。
身体が外へ傾く。
手を伸ばす。
舞台の縁。
届く。
その直前。
金属棍が差し込まれた。
殴るためじゃない。
掴ませないため。
シウンの指が空を切る。
身体が落ちた。
地面へ着地。
当然、怪我なんてしていない。
でも。
そこは舞台の外だった。
大獣技場が静まる。
シウンが足元を見る。
舞台を見る。
ゴクウを見る。
「…………」
ゴクウは舞台の縁に立ち、棍を肩へ担いでいた。
「悪いな」
笑う。
「まともに殴り合ったら、オレが負ける」
シウンは答えない。
審判が確認する。
そして腕を上げた。
「場外! 勝者――サルトビ・ゴクウ!」
歓声が爆発した。
「ゴクウ!」
「やっぱり強え!」
「今年も行け!」
「連覇しろ!」
俺は声を出せなかった。
最後まで。
ゴクウはシウンを力で上回らなかった。
シウンの拳をまともに受ければ押される。
龍鱗は破れない。
魔法だってシウンにしか使っていない。
なのに。
勝った。
相手の強さを消していない。
自分がそれを上回ったわけでもない。
シウンを強いまま。
自分が勝てるところまで運んだ。
「……これが去年の優勝者か」
俺の呟きに、ミニムスが小さく笑った。
「だから人気なんですぜ」
「お前の場合、賭けの話に聞こえるんだけど」
「それもありやす」
「それもなのかよ」
舞台の下。
シウンがまだゴクウを見ている。
怒っているかと思った。
悔しいだろう。
俺なら、あんな負け方をしたらかなり悔しい。
でも。
「……ふっ」
シウンが笑った。
「ははっ!」
大きな声。
「負けた!」
あっさり。
言い訳もない。
罠だったから。
煙幕だったから。
そんなことは一つも言わない。
ゴクウが舞台から降りてくる。
「怒ってない?」
「なぜだ?」
「いや、罠とか煙とか使ったし」
「試合であろう?」
「そうだけど」
「わたしを倒すために考えたのだ。見事ではないか」
ゴクウが目を丸くした。
それから。
「やっぱお前、面白えな」
「そうか?」
「ああ」
「なら飯だな」
「そこ覚えてんの!?」
「勝った方が奢るのであろう?」
「……オレが勝ったんだけど」
「うむ」
「オレが奢るの?」
「お主がそう言った」
「普通逆じゃね?」
「わたしもそう言ったぞ」
「そうだった……」
ゴクウが頭を抱える。
シウンは満足そうだった。
「……切り替え早すぎるだろ」
「シウンだから」
セレーネが言う。
「だな」
そのセレーネは、まだ俺の上着を着たままだ。
さっきまでの戦いを見ていたせいで忘れていたけど、改めて見るとやっぱりサイズが合っていない。
袖が余っている。
本人は返す気配すらない。
まあいいか。
俺にも羽織があるし。
シウンが戻ってきた。
「負けてしまった」
「見てたよ」
「あと少しだったのだがな」
「惜しかった」
「うむ。だが、楽しかったぞ」
それから。
俺を見る。
「朝陽」
「ん?」
「あやつ、強い」
「……うん」
「力ではない」
シウンが舞台を振り返る。
ゴクウはもう観客へ手を振っている。
試合前と同じ。
軽い。
ふざけているようにさえ見える。
「あれは、戦うのが上手い」
シウンの言葉が、一番しっくりきた。
強い身体があるから勝つんじゃない。
強い魔法があるからでもない。
強い武器があるからでもない。
相手を見る。
癖を知る。
使えるものを使う。
誘う。
騙す。
崩す。
そして最後には、自分が勝てる場所へ相手を連れていく。
アルベルトさんとは違う。
あの人は、自分の槍と風を徹底的に磨いていた。
セレーネとも違う。
圧倒的な魔法の技量で、相手に何もさせず押し切る。
シウンとも違う。
自分自身の強さを、そのまま相手へぶつける。
ゴクウは。
相手によって、戦い方そのものを変える。
「……すげえな」
無意識に呟いた。
昨日見た時よりも。
いや。
昨日は、何をしているのか分かっていなかった。
今なら少しだけ分かる。
ゴクウが予選で簡単に勝っていた理由。
必要以上のことをしなかったんだ。
倒せるなら、それだけ。
押し出せるなら、それだけ。
シウンみたいな相手だから、初めてここまで色々な手を使った。
「朝陽」
セレーネが俺を見る。
「なに?」
「見すぎ」
「え?」
「ゴクウ」
「ああ……」
確かに。
ずっと見ていた。
でも、目が離せなかった。
「勉強になるなと思って」
「そう」
「なんか、俺が今までやってたのと全然違う」
「……朝陽も似てる」
「俺が?」
セレーネが頷く。
「見て、考える」
「いや、でもあそこまでは無理だろ」
「今は」
「……今は、ね」
またそういう言い方をする。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
アルベルトさんとの戦いで。
俺は見たものを真似した。
失敗して。
手を焼いて。
それでも最後には、剣へ魔力を流せた。
なら。
ゴクウからも。
何か。
「……決勝まで行ったら」
口から漏れた。
シウンが俺を見る。
「戦うことになるな」
「そうなんだよな」
その前に。
俺には次の試合がある。
セレーネ。
隣を見る。
「……なに?」
「いや」
俺の服を着た銀髪の少女が、何でもないような顔で座っている。
さっき複合魔法を使った本人。
俺はまだ、その仕組みすら理解できていない。
なのに。
次に勝てば。
俺が戦うのはセレーネだ。
「……大変だな、これ」
「?」
「なんでもない」
まだ先のことを考える必要はない。
まずは今。
舞台では係員たちが、ゴクウの残した煙幕の跡や細い糸を片づけ始めていた。
その向こう。
次の選手が姿を見せる。
小柄な少年。
見覚えがある。
「くそっ!」
通路の奥からでも声が聞こえた。
「絶対勝つからな!」
「……元気だな」
シウンが呟く。
「いつもあんな感じだよ」
シバ・コタロウ。
少し前。
俺へ真正面から喧嘩を売ってきた少年。
そして。
反対側。
静かに舞台へ向かってくる大柄な男。
トラガミ・ジン。
昨年、この大会で最後までゴクウと戦った男。
ゴクウが技と駆け引きで相手を崩すなら。
あの男は。
見ただけで分かる。
たぶん、まったく逆だ。
次の試合を告げる声が、大獣技場へ響き渡った。




