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過去と未来を繋ぐ者達へ  作者: 卵飯好男
【獣王国ディアナ編】第4章 大獣技場

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第83話 乙女の逆鱗

舞台へ上がったセレーネの向かい側で、ネヴィルがゆっくりと構えた。


 俺はまだ試合の熱が残る右手を握りながら、今度は観客席から二人を見下ろしていた。


 昨日の予選で見たネヴィルの能力。


 石床を白煙とともに腐食させた、あの液体。


 セレーネなら大丈夫だとは思う。


 それでも、あれだけはまともに受けてほしくない。


 ネヴィルは武器を持っていなかった。


 対するセレーネも、いつも通り何も持っていない。


 二人の間にはかなりの距離がある。


 普通に考えれば、魔法を使うセレーネが有利な間合いだ。


 けれどネヴィルには、あの液体を飛ばす手段がある。


 単純な遠距離戦にはならない。


「両者、準備はいいか!」


 審判の声が響く。


 ネヴィルが腰を落とす。


 セレーネは静かに右手を下ろしたまま、その姿を見ていた。


「始め!」


 先に動いたのはネヴィルだった。


 開始と同時に前へ出る。


 速い。


 迷いなく距離を詰めながら右腕を振り抜き、指先から細かな飛沫を散らした。


 セレーネが横へ跳ぶ。


 直後。


 飛沫の落ちた石床から白煙が上がった。


 ジュッ、と耳障りな音がいくつも重なる。


 表面が黒く変色し、僅かに抉れていた。


「やっぱり嫌な能力だな……」


 思わず呟く。


 ネヴィルは止まらない。


 セレーネを直接狙うだけじゃない。


 右。


 左。


 さらに後方。


 液体を広く散らし、少しずつ動ける場所を削っていく。


「なるほどな」


 シウンが呟いた。


「何が?」


「強いというより、戦いにくいのだ。あれは」


 言われてみれば、その通りだった。


 攻撃そのものを避けても、地面に残る。


 一度撒かれた場所には迂闊に踏み込めない。


 何より、少しでも身体に触れればどうなるか分からないという圧がある。


 ネヴィルはその厄介さを分かって使っている。


 セレーネが一歩下がる。


 そこへネヴィルが大きく腕を振った。


 今までより広い。


「《アースウォール》」


 石壁が立ち上がった。


 液体がぶつかる。


 白煙が噴き上がり、石壁の表面がみるみる崩れていく。


 けれど。


 崩れたのは、形になった石だけだった。


 壁を作り出していた魔力そのものが消えたわけじゃない。


「物を溶かしてるのか」


 俺が言うと、ミニムスが頷いた。


「みたいですな。ありゃあ普通の魔法とはちぃと違いやすぜ」


 石壁が完全に崩れる。


 その向こう。


 セレーネの姿はもうなかった。


 ネヴィルが目を動かす。


「《ウォーターボール》」


 横から水球が飛んだ。


「っ!」


 ネヴィルが身を捻る。


 一発目を避ける。


 二発目。


 三発目。


 立て続けに飛んでくる水球から逃れながら、ネヴィルが後退した。


 その足元から蔓が伸びる。


「《ヴァイン》」


「ちっ!」


 跳ぶ。


 一本が足首へ絡みついた。


 ネヴィルは即座に手を伸ばし、液体を落とす。


 白煙。


 蔓が腐食し、千切れた。


 そこへ風が走る。


 身体を押され、ネヴィルの足が僅かに浮いた。


 場外までは遠い。


 けれど着地した瞬間には、もう次の魔法が迫っていた。


「《ファイアボール》」


 火球。


 ネヴィルが横へ転がる。


 炎が石床を叩いた。


 すぐに起き上がり、今度はセレーネから距離を取る。


 開始直後とは逆だった。


 追っていたネヴィルが、追われている。


「……強いな」


 分かっていたはずなのに、改めてそう思った。


 俺も複数の属性を使える。


 でも、セレーネとは違う。


 俺は考えて選ぶ。


 相手を見て、状況を見て、何を使うか決める。


 セレーネには、その迷いがほとんどない。


 水を撃った次には木。


 木を破られれば風。


 逃げた先へ火。


 必要な属性が、必要な場所へ当たり前のように出てくる。


 ネヴィルの表情から、最初にあった余裕が消えていた。


「五つかよ……」


 小さく吐き捨てる。


 セレーネは答えない。


 ネヴィルが右手を振る。


 飛沫。


 風が吹く。


 全部逸れた。


 左手。


 今度は量を増やす。


「《アースウォール》」


 壁。


 防がれる。


「《ヴァイン》」


 足元。


「くそっ!」


 ネヴィルが跳んだ。


 完全に後手に回っている。


 それでも諦めてはいない。


 空中で身体を捻る。


 液体を真下へ。


 蔓が溶ける。


 着地。


 直後にセレーネへ突っ込んだ。


「おっ」


 シウンが僅かに身を乗り出した。


 ネヴィルが一気に距離を詰める。


 近い。


 セレーネが魔法を撃つより先に、腕を伸ばせる距離。


 ネヴィルの右手が迫る。


 セレーネは半歩だけ下がった。


 その手が空を切る。


 ネヴィルの身体が流れる。


 そこへ。


「《タイダルウェイブ》」


 大量の水が真正面から叩きつけられた。


「ぐっ!」


 ネヴィルの身体が押し流される。


 舞台を転がりながら、それでも途中で手をついた。


 場外寸前。


 踏み止まる。


 歓声が上がった。


「危ねえな……!」


 ネヴィルが立ち上がる。


 ずぶ濡れだった。


 それでも笑っている。


「強いとは思ってたけど、ここまでかよ」


「……降参する?」


「するわけねえだろ」


「そう」


 セレーネの返事はいつも通り短い。


 ネヴィルが息を整える。


 今までとは構えが違った。


 両腕を前へ。


 指先だけじゃない。


 腕を伝うように液体が集まり始める。


「……なんだ?」


 嫌な感じがした。


 ネヴィルが両腕を振り抜く。


 一気に広がった。


 今までとは比較にならない量。


 細かな飛沫が正面を覆い尽くし、逃げ道まで塞ぐ。


 セレーネが手を上げた。


「《ブリーズ》」


 風が正面からぶつかった。


 飛沫が押し返される。


 だが、全部じゃない。


 細かすぎる。


 風に巻き上げられた液体の一部が、予想もしなかった方向へ飛び散った。


 セレーネが身を捻る。


 ほとんどは避けた。


 そのはずだった。


 ネヴィル自身も追撃しようと前へ出る。


 セレーネが土を隆起させた。


 ネヴィルが横へ。


 風で巻き上げられた液体。


 砕けた石。


 土煙。


 いくつものものが交錯する。


 ほんの一瞬だった。


 セレーネの胸元へ、小さな飛沫が落ちた。


 ジュッ。


 微かな音。


「――あ」


 俺が気づいた時には、もう遅かった。


 セレーネも気づく。


 胸元から細い白煙が立っていた。


 咄嗟に手で払おうとして――止める。


 触れば危ない。


 風で吹き飛ばす。


 液体そのものは離れた。


 皮膚には届いていない。


 けれど。


 腐食は、すでに始まっていた。


 布地が変色する。


 脆くなる。


 そして。


 はらり、と。


 崩れ落ちた。


 セレーネの小さくも確かな膨らみが、あらわになる。


 ――一瞬。


 時が止まった。


 ネヴィルが固まった。


 審判も固まった。


 俺も。


 シウンも。


 ミニムスも。


 あれだけ騒がしかった大獣技場から、音が消えた。


「…………」


 セレーネ自身だけが、まだ何が起きたのか理解していないように見えた。


 ゆっくり。


 自分の胸元を見る。


「…………っ」


 次の瞬間だった。


 セレーネの顔が、一気に赤く染まった。


 普段の無表情なんてどこにもない。


 目を見開き、慌てて腕を回す。


 辛うじて残っていた布を掻き集めるように胸元へ寄せ、片腕で必死に押さえ込んだ。


 耳まで赤い。


 完全に狼狽している。


 あのセレーネが。


「…………」


 俺も何をしていいか分からなかった。


 目を逸らすべきなのか。


 でも試合中だ。


 いや、そんなこと言ってる場合じゃない。


 そんな俺の混乱より先に。


 大獣技場が状況を理解した。


 爆発した。


「うおおおおおっ!」


 歓声とも悲鳴ともつかない声が一斉に上がる。


 さっきまでの試合とは比べものにならない。


 観客席が揺れた。


「うわぁ……」


 俺は思わず顔を覆った。


 これは最悪だ。


 絶対に最悪だ。


 舞台の中央。


 セレーネは胸元を押さえたまま俯いている。


 肩が僅かに震えていた。


 ネヴィルも完全に困っていた。


「いや、待て」


 両手を上げる。


「今のは狙ったんじゃないぞ」


「…………」


「本当に事故だ。俺だって、こんな――」


 セレーネが顔を上げた。


 真っ赤なまま。


 ネヴィルを睨んだ。


「……」


 ネヴィルの口が閉じる。


 俺も息を止めた。


 怖い。


 でも。


 その表情は長く続かなかった。


 数秒。


 それだけ。


 セレーネが一度、ゆっくり息を吸った。


 吐く。


 そして。


 顔から表情が消えた。


「…………」


 真顔だった。


「お、おい?」


 ネヴィルが一歩下がる。


 セレーネは答えない。


 片腕は胸元を隠したまま。


 空いている右手だけを、静かに持ち上げた。


 魔力が集まる。


 最初は、それだけに見えた。


 でも。


「……ん?」


 俺は眉を寄せた。


 違う。


 一つじゃない。


 今までセレーネが使っていた魔法とは、魔力の流れが明らかに違う。


 水。


 風。


 二つの魔力が同時に動いている。


「なんだ、あれ……」


 俺が呟く。


 隣にいたシウンも答えない。


 ミニムスも。


 さっきまでセレーネの事故に沸き返っていた観客たちも、一人、また一人と異変に気づいていく。


 騒ぎが小さくなる。


 水と風。


 本来なら別々に存在するはずの二つの属性が、セレーネの掌の先で一つの術式へ組み込まれていく。


 空気が冷えた。


 白い靄が生まれる。


 ネヴィルの顔色が変わった。


「ちょっと待て」


 セレーネは無言。


「お前、それ――」


 冷気が広がった。


 ネヴィルの足元。


 水分が一瞬で凍りつく。


「なっ――」


 避ける暇すらなかった。


 氷が石床を走る。


 ネヴィルの両足を捕らえ、そのまま膝まで一気に覆った。


 完全に動きを奪われる。


 それでも終わらない。


 セレーネの掌には、まだ水と風の魔力が渦巻いている。


 誰かが、掠れた声で呟いた。


「……複合魔法?」


 その一言を最後に。


 大獣技場が、静まり返った。


 今度はセレーネの身体を見ている者なんていなかった。


 誰もが、その右手だけを見ていた。


 複数の属性を持っている。


 それだけでも珍しい。


 二つの属性を一つの術式の中で同時に操り、一つの現象へ変える。


 俺にも、それが普通じゃないことくらい分かった。


「……マジかよ」


 声が漏れた。


 ネヴィルが氷から足を抜こうとする。


 酸を落とす。


 氷の表面が白煙を上げた。


 でも、遅い。


 セレーネの右手が僅かに動いた。


 冷気が爆発した。


「うおっ――」


 氷そのものが砕ける。


 同時に発生した猛烈な風がネヴィルを真正面から吹き飛ばした。


 身体が舞台から離れる。


 何もできないまま宙を飛び。


 そのまま場外へ落ちた。


 静寂。


 誰も声を出さない。


 ネヴィルが地面に転がっている。


 セレーネは舞台の中央。


 片腕で胸元を押さえたまま、右手を下ろした。


 審判が我に返る。


「しょ、勝者――セレーネ!」


 その声で。


 ようやく大獣技場が息を吹き返した。


 今度こそ、とんでもない歓声だった。


「複合魔法だ!」


「今の見たか!」


「水と風だぞ!」


「昨日の五属性といい、なんなんだ今年は!」


 観客たちの興味は完全にそっちへ移っている。


 助かった。


 いや、俺が助かったわけじゃないけど。


 セレーネにとっては、その方がまだマシだろう。


 当の本人は勝利を喜ぶ様子もない。


 審判を見ることすらなく、胸元を押さえたまま足早に舞台を降りた。


「……」


 こっちへ来る。


「旦那」


「何?」


「姉さん、こっち来てますぜ」


「見れば分かる」


「怖くないですかい?」


「俺に言うなよ」


 シウンは妙に感心した様子で頷いている。


「見事だったな」


「今そこ褒める?」


「勝ったのだから褒めてよかろう」


「まあ、そうだけど……」


 セレーネが俺たちの前まで来た。


 止まる。


「……」


 顔はまだ少し赤い。


 片腕は胸元を押さえたまま。


「お、お疲れ」


「……」


 返事がない。


 その代わり。


 セレーネが空いている手を俺へ差し出した。


「……なんでしょうか」


「服」


「え?」


「早く貸して」


「あ、ああ」


 ようやく意味が分かった。


 俺は自分の上着へ手をかける。


 途中で止まった。


「……待って」


「なに?」


「それだと俺が裸に……」


 セレーネが俺を見る。


「……朝陽はいい」


「よくないだろ」


「いい」


「よくないって」


「早く」


「はい……」


 圧に負けた。


 上着を脱ぐ。


 セレーネが受け取る。


 すぐに羽織り、前を閉じた。


 俺の服だから、セレーネにはかなり大きい。


 袖から指先が少し出る程度。


 裾も余っている。


 でも本人はようやく安心したらしい。


 胸元から手を離し、小さく息を吐いた。


「……」


「もう大丈夫か?」


「うん」


「ならよかった」


「……朝陽」


「ん?」


 セレーネが俺を見上げる。


「見た?」


「…………」


 来ると思った。


「いや」


「……間があった」


「事故だろ、あれは!」


「見たの?」


「見てないとは言い切れないけど、見ようとして見たわけじゃない!」


「……見たんだ」


「だから不可抗力だって!」


 セレーネの頬がまた赤くなる。


 視線を逸らした。


「……最低」


「俺なんもしてないだろ!」


 隣でシウンが首を傾げている。


「何を騒いでいる?」


「お前は黙っててくれ」


「なぜだ?」


「頼むから」


 ミニムスは口元を押さえている。


「お前も笑うなよ」


「笑ってませんぜ」


「絶対笑ってるだろ」


「オイラは旦那の味方ですって」


「顔が完全に敵なんだよ」


 セレーネは俺たちの会話を無視して席へ座った。


 俺の上着を着たまま。


 返してくれる気配はない。


 仕方なく、俺も上半身に何もないまま隣へ座る。


 なんでセレーネが試合したのに、俺までこんな格好になってるんだ。


 舞台では、さっき凍りついた石床の確認が始まっている。


 ネヴィルも起き上がっていた。


 怪我らしい怪我はなさそうだ。


 あれだけ怒っていたのに、セレーネはちゃんと威力を抑えていたらしい。


 俺はもう一度、舞台に残された氷を見る。


「……複合魔法か」


 思わず呟いた。


 さっきの光景が頭から離れない。


 水。


 風。


 二つの属性を同時に使った。


 いや。


 同時に使っただけじゃない。


 二つを混ぜて、別の現象へ変えた。


 俺は五属性を使える。


 それを知った観客たちは驚いていた。


 自分でも、普通じゃないことは分かっている。


 でも。


 隣を見る。


 セレーネは俺の上着の袖から僅かに出た指先を眺めていた。


「セレーネ」


「なに?」


「さっきの、どうやったんだ?」


「……あとで」


「教えてくれる?」


「朝陽ができるなら」


「なんだよ、それ」


「そのまま」


 セレーネはそれ以上答えなかった。


 俺も追及しない。


 ただ。


 剣に魔力を流した時とは、また違う。


 知らなかった使い方。


 俺がまだ触れたことのない魔法の形。


 それが確かに、目の前にあった。


 そして大獣技場では。


 次の試合を告げる声が響き始めていた。


 ――サルトビ・ゴクウ。


 ――シウン。


 隣にいたシウンが立ち上がる。


「では、行ってくる」


 その顔には、不安よりも楽しそうな笑みが浮かんでいた。

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