第81話 眠れない夜
宿へ戻る頃には、日付が変わろうとしていた。
それでもカグラの街から人の気配が消えることはない。
大獣技場から流れてきた観客が酒場へ吸い込まれ、通りのあちこちでは明後日に迫った大祭の準備が続いている。軒先に連なる提灯はすでに灯され、昼間にはまだ骨組みだけだった屋台にも暖簾や看板が取り付けられていた。
予選を終えたばかりだからだろう。
その光景を眺めていても、どこか現実味が薄い。
五十人から八人。
その中に自分が残った。
しかも、明日の最初の相手まで決まっている。
アルベルト・レイス。
槍と風を使う、バルカンで活動している冒険者。
名前だけなら以前にも耳にしたことがある。
まさか異国の、それも獣王国の武闘大会で戦うことになるとは思わなかった。
「朝陽」
「ん?」
「前」
セレーネに言われて顔を戻す。
目の前に柱があった。
「危なっ」
慌てて避ける。
後ろからシウンの笑い声が聞こえた。
「何をしている」
「ちょっと考え事」
「見れば分かる。随分と器用に歩くものだな」
「ぶつかってないからいいだろ」
「セレーネが言わなければぶつかっていただろう」
「……それはそう」
否定できない。
少し前を歩いていたミニムスが振り返った。
「旦那、明日の相手のことですかい?」
「まあね」
「真面目ですなぁ」
「本戦なんだから考えるだろ、普通」
「オイラなら今日勝った祝いで飲みに行きますがねぇ」
「お前出てないじゃん」
「だから飲めるんですわ」
「最低だな」
「褒め言葉として受け取っときます」
こいつは本当に何でもいいんだな。
ミニムスは宿の前まで来ると、ひらひらと手を振った。
「じゃ、オイラはここで」
「あれ、入らないの?」
「旦那方は明日本戦でしょう? さっさと寝た方がいいですわ。オイラまで居座ってたら休めませんからねぇ」
珍しくまともなことを言う。
「それにオイラはオイラで用がありますんで」
「こんな時間から?」
「カグラは夜が長いんですわ」
にやりと笑う。
何をするのか聞こうかとも思ったが、やめた。
どうせ聞いても適当にはぐらかされる。
「明日は来るんだろ?」
「もちろん。旦那方がどこまで勝ち上がるか、見届けさせてもらいますよ」
「ならまた明日」
「へい。お三方とも、ご武運を」
最後だけ妙にそれらしい言葉を残し、ミニムスは夜の通りへ消えていった。
宿へ入る。
遅い時間だったが、食事は用意してもらえた。
シウンは席につくなり明らかに俺より多い量を平らげ、それでも足りなかったらしく追加まで頼んだ。
「よく食えるな……」
「戦ったのだから当然だろう」
「俺も戦ったけど、そこまでは入らないぞ」
「朝陽が少食なのだ」
「いや、俺普通だと思うけど」
「ならわたしも普通だ」
「その理屈はおかしい」
シウンが汁物を飲みながら首を傾げる。
本気で分かっていない顔だ。
向かいではセレーネが静かに食事を続けている。
「セレーネはどう思う?」
「何が?」
「シウンの食う量」
ちらりと横を見る。
「多い」
「ほら」
「む」
シウンが箸を止めた。
「セレーネまでそちらにつくのか」
「ついてない」
「ではわたしは普通だな」
「多い」
「どちらなのだ」
セレーネはもう答えなかった。
俺は笑いながら飯を食う。
疲れているはずなのに、こうしていると大獣技場にいた時の緊張が少しずつ抜けていった。
食事を終え、部屋へ戻る。
風呂も済ませた。
あとは寝るだけ。
明日は本戦。
最初の試合から俺が出る。
なら、少しでも身体を休めた方がいい。
分かっている。
分かっているのに。
「……眠れない」
暗い天井を見上げながら呟いた。
隣から返事はない。
シウンはとっくに寝ている。
寝つきがいいなんてもんじゃない。
寝具に入ってしばらくしたら静かになり、その数分後には掛け物を蹴飛ばしていた。
今はどんな状態なのか、暗くてよく見えない。
確認する気にもならなかった。
問題は俺だ。
身体は疲れている。
瞼も重い。
それなのに目を閉じると、アルベルトの試合が浮かんでくる。
槍。
長い間合い。
相手の攻撃へ合わせた、僅かな風。
力任せに押し返すんじゃない。
ほんの少し軌道をずらし、そこに自分の攻撃を通す。
俺も風は使える。
でも、あんな使い方はしたことがない。
最初から魔法で距離を取るか。
いや、それならアルベルトも風を使ってくるだろう。
火なら――。
「朝陽」
小さな声がした。
「……起きてた?」
「起こされた」
セレーネだった。
「ごめん。声出てた?」
「少し」
「マジか……」
「明日のこと?」
「うん」
隠しても仕方ない。
「アルベルトの槍、どうやって入ろうかなって」
「まだ戦ってない」
「だから考えてるんだよ」
「考えても同じ」
「そんなことないだろ」
「相手も朝陽を見てる」
言われて、少し黙る。
確かにそうだ。
俺だけがアルベルトの試合を見ていたわけじゃない。
向こうも俺の試合を見ていた。
実際、組み合わせが決まった時にそう言っていた。
「朝陽が考えた通りには動かない」
「……まあ、それはそうなんだけど」
「なら明日見ればいい」
「簡単に言うなあ」
「朝陽は見てから考える方が得意」
思わずセレーネの方を向いた。
暗くて表情までは分からない。
「それ、褒めてる?」
「事実」
「最近それ便利に使ってない?」
返事がない。
「セレーネ?」
「寝る」
「はいはい」
今度こそ黙る。
でも。
少しだけ気が楽になった。
考えてみれば、今までだって最初から全部分かっていた戦いなんてほとんどない。
見て。
考えて。
試して。
駄目なら変える。
それを繰り返してきた。
明日も同じだ。
アルベルトが何をしてくるのか。
実際に見てから考えればいい。
目を閉じる。
さっきまで頭の中を行ったり来たりしていた槍の軌道が、少しずつ遠ざかっていく。
遠くから、まだカグラの街の音が聞こえていた。
誰かの笑い声。
戸を閉める音。
どこかの酒場から漏れる賑やかな声。
その中に。
「ん……」
妙に近い声が混じった。
目を開ける。
隣を見る。
「……シウン?」
返事はない。
暗闇へ目が慣れてくる。
シウンは、寝る前とは全然違う場所にいた。
寝具から身体の半分ほどがはみ出し、片腕を頭の上へ投げ出している。掛け物は完全にどこかへ行った。
「どんな寝相してんだよ……」
これでよく起きないな。
直してやるべきか少し迷った。
やめた。
下手に触って起こしたら面倒だ。
寒くなれば勝手に戻るだろう。
たぶん。
俺は再び目を閉じた。
今度は考え事をしない。
明日は明日。
そう決めて。
いつの間にか、意識が落ちていた。
朝。
何か重い。
最初に感じたのはそれだった。
「……ん」
足が動かない。
寝ぼけたまま何度か動かそうとして、ようやく目を開けた。
障子越しに朝の光が差し込んでいる。
視線を下へ向ける。
「……なんでだよ」
シウンの足が乗っていた。
俺の足の上に。
昨夜よりさらに寝相が悪化している。
身体は斜め。
寝具はほとんど意味を成していない。
片足だけ俺の方まで伸びていた。
「自由すぎるだろ……」
そっと足を退ける。
シウンは起きない。
寝返りを打って、今度は完全に反対側を向いた。
ある意味すごい。
俺は小さく息を吐き、もう一度横になる。
まだ少し眠い。
本戦があるとはいえ、今すぐ起きなければならない時間でもない。
もう少しだけ。
そう思って、反対側へ顔を向けた。
「……」
すぐ目の前に、セレーネがいた。
思わず動きが止まる。
昨日まで、誰がどっちを向いて寝ていたかなんて気にしたこともなかった。
ただ今朝は、セレーネがこちらを向いて眠っている。
近い。
思っていたより、ずっと。
少し身体を動かせば触れてしまいそうな距離だった。
白い寝具の上へ流れた銀髪が、障子から差し込む朝の光を淡く透かしている。
頬にかかった細い髪が、静かな呼吸に合わせて微かに揺れる。
長い睫毛は伏せられたまま。
起きている時の、何を考えているのか分からない目もない。
素っ気ない声もない。
ただ静かに眠っている。
少し開いた唇から、規則正しい息が漏れていた。
その寝息が、ときおり俺の頬へ触れる。
「……」
近すぎないか。
今さら気づいたところでどうしようもない。
呼吸に合わせて胸元が僅かに上下している。
寝返りを打ったせいか、襟元も少し崩れていた。
そこへ銀髪がさらりと流れている。
なんとなく眺めていた視線が、一度だけ止まった。
すぐに顔へ戻す。
セレーネは何も知らずに眠っていた。
こうして見ると、普段とは随分印象が違う。
静かで。
どこか現実離れしていて。
朝の淡い光の中に、そのまま溶け込んでしまいそうだった。
俺はしばらくその顔を眺めた。
……今まであんまり気にしたことなかったけど、綺麗な顔してるんだな。
それくらいだった。
何か特別なことを考えたわけでもない。
ただ、そう思った。
その時。
伏せられていた睫毛が微かに震えた。
「あ」
ゆっくりと瞼が開く。
まだ眠気の残る青い瞳が、すぐ目の前にいた俺を捉えた。
「……」
「……」
目が合った。
セレーネはしばらく何も言わなかった。
まだ頭が起きていないのか、ぼんやりと俺を見ている。
やがて、小さく口を開いた。
「……なに?」
「いや、なにも」
短い沈黙。
セレーネの視線が僅かに動く。
俺の顔を見て。
それから、自分の方へ。
「……最低」
「えっ、なんで?」
意味が分からない。
何もしていない。
起きたら目の前にいただけだ。
セレーネは数秒黙っていた。
「………えっち」
今度は俺が黙る番だった。
セレーネはそれ以上何も言わず、くるりと反対側へ寝返りを打った。
銀髪が寝具の上を滑り、背中だけがこちらへ向く。
「いや、待って。俺、何もしてないからな?」
「……」
「本当に。起きたら近くにいただけで」
「……」
「セレーネ?」
返事はない。
完全に背中を向けたままだ。
「……理不尽じゃない?」
「朝からうるさいぞ……」
反対側から眠そうな声が飛んできた。
シウンだった。
「お前も起きたなら聞いてくれよ。俺何もしてないのに――」
「知らん」
「冷たっ」
「まだ眠い」
「そもそもお前の足が俺の上に乗ってたんだからな」
「そうか」
「そうか、じゃないだろ」
シウンが薄く目を開ける。
自分の寝具。
俺。
背を向けたセレーネ。
順番に見た。
「何があった?」
「だから俺にも分からないんだよ」
「ならよいではないか」
「よくないよ」
「朝陽は細かいことを気にしすぎだ」
「お前が気にしなさすぎるんだよ」
シウンは大きく欠伸をすると、そのまま起き上がった。
寝癖がひどい。
長い髪があちこちへ跳ねている。
「腹が減った」
「起きて最初がそれ?」
「昨日あれだけ動いたのだ。当然だろう」
「昨日寝る前にも食っただろ」
「それは昨日の話だ」
強い。
何も言い返せない。
セレーネもようやく身体を起こした。
さっきのことなんてなかったような顔をしている。
いつものセレーネだ。
髪を手で軽く整え、そのまま立ち上がる。
「飯」
「お前もか」
「朝だから」
「……はい」
どうやら、この話は終わりらしい。
俺だけが納得できていない。
朝食を済ませ、部屋へ戻る。
そこからは昨日までとは空気が変わった。
剣を確認する。
刃に問題はない。
鞘。
留め具。
腰へ下げた時の位置。
昨日の予選で何度も使っている以上、細かく見ておいた方がいい。
セレーネも自分の荷物を確認していた。
シウンは準備らしい準備をほとんどしない。
腕を回し、肩を鳴らしている。
「それだけ?」
「何がだ?」
「準備」
「身体は動くぞ」
「そうじゃなくて」
「なら問題ない」
「……そうですか」
本当に人によって違うな。
俺はもう一度剣を抜き、軽く振る。
昨日の疲れは多少残っている。
でも、動けないほどじゃない。
右手も問題ない。
握る。
開く。
痛みはほとんど消えていた。
「朝陽」
「ん?」
セレーネが見ている。
「手」
「ああ。もう大丈夫」
拳を何度か握って見せる。
セレーネはそれだけ確認すると視線を戻した。
「ならいい」
「うん」
昨日の夜とは違う。
アルベルトのことを考えても、頭の中で何度も戦いを繰り返すことはなかった。
槍。
風。
間合い。
分かっているのはそれだけ。
なら、それだけ覚えておけばいい。
実際に向き合ってから見る。
どう動くのか。
どこを見るのか。
何を狙っているのか。
その方が俺には合っている。
「行くか」
シウンが言った。
「うん」
剣を鞘へ戻す。
セレーネも立ち上がった。
宿を出ると、昨日とは違うカグラが待っていた。
朝から人が多い。
しかも、その多くが同じ方向へ歩いている。
大獣技場だ。
昨日の予選は五十人。
今日の本戦は八人。
試合数は減る。
その代わり、一つ一つを見に来る人間は増えているらしい。
通りを歩いていると、周囲から大会の話が聞こえてくる。
去年の覇者、ゴクウ。
去年の準優勝、ジン。
魔族のネヴィル。
槍使いのアルベルト。
コタロウの名前まで聞こえた。
そして。
「昨日の四属性の――」
聞こえないふりをした。
「朝陽」
「言うな」
「まだ何も言っていない」
「絶対言おうとしただろ」
シウンが笑う。
「有名になったな」
「だから嫌なんだって」
「なぜだ? 強いと認められたのだろう」
「そういう問題じゃないんだよ」
ただでさえ七属性使えることは隠している。
四つ見せただけでも十分すぎるほど目立った。
これ以上余計なことはしたくない。
……とはいえ。
本戦で負けないために必要なら使う。
そこはもう決めた。
「朝陽」
「今度は何?」
セレーネが前を見たまま言う。
「来た」
顔を上げる。
通りの先。
建物の向こうから、大獣技場が姿を現していた。
昨日の夜とは違い、朝の光の下で見る巨大な闘技場。
その入口へ、数え切れないほどの人が吸い込まれていく。
遠くからでも歓声が聞こえた。
まだ試合は始まっていない。
それなのに。
昨日より明らかに大きい。
「すごいな……」
思わず足を緩める。
緊張していないつもりだった。
でも。
あれを見れば、さすがに何も感じないわけにはいかない。
「朝陽」
シウンが振り返る。
「行くぞ」
「ああ」
今度は止まらなかった。
歩く。
セレーネも隣にいる。
大獣技場が近づいてくる。
第一試合。
真白朝陽対アルベルト・レイス。
昨日の夜にいくら考えても分からなかった答えを、これから自分で探す。
大獣技場の門をくぐった。
八人だけの本戦が始まる。




