第75話 月夜見神社
「……食った」
店を出たところで、俺は思わず腹をさすった。
昼飯はミニムスに任せた。
任せた結果、出てきたのは炊きたての米に焼き魚、汁物、それからいくつかの小鉢が並んだ定食だった。
味付けもどこか懐かしくて、気づけば久しぶりに腹いっぱいになるまで食べてしまった。
「旦那、結構食いましたな」
「だって美味かったんだよ」
「朝陽は米が出てくるとよく食べるな」
隣を歩くシウンが楽しそうに言う。
「好きなんだよ。なんか落ち着くっていうか」
「故郷の食事に似ているのだったな」
「うん。かなり」
答えながら横を見る。
セレーネは何も言わず歩いていた。
「……セレーネ」
「何?」
「まだ食うの?」
その手には、店を出る時に買った団子が握られている。
三本。
正確には、さっきまで四本だった。
「別腹」
「便利な言葉覚えたな……」
俺が呆れている間にも一本が消えた。
シウンが興味深そうに覗き込む。
「そんなに美味いのか?」
「美味しい」
「わたしにも一つくれ」
「嫌」
「即答か」
「自分で買って」
「けちだな」
「普通」
二人のやり取りを聞きながら、俺は少し笑った。
朝から歩き回っているせいか、カグラの街にも少しずつ目が慣れてきた。
それでも、ふとした瞬間に足が止まりそうになる。
軒先に揺れる暖簾。石畳の脇を流れる細い水路。行き交う人たちが身につけた、和装によく似た服。
そこに獣の耳や尻尾が加わるだけで、見慣れたような景色がまるで別のものになる。
尻尾を通すために背面が工夫された服もあれば、大柄な獣族が出入りしやすいよう間口を広く取った店もある。
似ている。
でも、やっぱり日本じゃない。
その違いを探しながら歩くのが、思っていたより楽しかった。
「で、午後はどこ行くんだ?」
俺が聞くと、先を歩いていたミニムスが振り返った。
「そうですなぁ。旦那たち、カグラらしい場所を見たいんでしょう?」
「せっかく来たしな」
「なら、ちょうどいいところがありますぜ」
「また金取る場所じゃないだろうな」
「オイラをなんだと思ってるんです?」
「金に汚い案内人」
「ひどい!」
即答すると、ミニムスが胸を押さえた。
シウンが頷く。
「間違ってはいないな」
「姉さんまで!?」
「……合ってる」
「嬢ちゃんも!?」
三対一になった。
ミニムスはしばらくぶつぶつ言っていたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「月夜見神社ですわ」
その名前に、俺は少しだけ足を緩めた。
「神社?」
「そう。カグラじゃ有名な場所ですぜ」
神社。
そこまであるのか。
「行ってみたい」
思わず口にすると、ミニムスがにやりと笑った。
「決まりですな」
「わたしも構わないぞ」
シウンが答える。
その横で、セレーネは残っていた団子を食べ終えていた。
「セレーネは?」
「行く」
短い返事だった。
「じゃあ行くか」
*
大通りから外れ、しばらく歩く。
店の数が少しずつ減っていき、代わりに木々が増えていった。
祭りを目前にした王都はどこへ行っても賑やかだったが、この辺りまで来ると、その音も少し遠くなる。
やがて、道の先に大きな鳥居が見えた。
「うわ……」
思っていた以上に、そのままだった。
もちろん細かいところは違う。
使われている木材も、装飾も、俺が日本で見たものと完全に同じじゃない。
それでも、鳥居を見間違えるはずがない。
その向こうには長い参道が続いている。
両脇には桜と紅葉。
淡い花びらと赤や橙の葉が、同じ風に揺れていた。
朝から何度も見ているはずなのに、やっぱり綺麗だ。
「ここが月夜見神社ですわ」
鳥居の前で、ミニムスが足を止める。
「月夜見……」
俺はもう一度その名前を口にした。
「ツクヨミを祀ってるんです」
「ああ」
日本神話に出てくる月の神。
そして、この世界に来てから何度か耳にした名前でもある。
「月光教とは違うのか?」
「別物ですぜ」
ミニムスはそう答えて鳥居をくぐった。
「こっちは昔っからカグラの暮らしに馴染んでるもんでして。願い事したり、旅の無事を祈ったり。まあ、難しいこと考えず来る奴も多いですわ」
「へえ……」
俺も後に続こうとして、ふと横を見る。
セレーネが鳥居を見上げていた。
「セレーネ?」
「何?」
すぐにこっちを向いた。
「いや。行かないのかと思って」
「行く」
それだけ言って、俺の横を通り過ぎる。
俺もその後を追った。
参道には思っていたより人がいた。
家族連れらしい獣族。
年老いた夫婦。
旅装の冒険者。
祭りの準備の途中なのか、何人かで大きな荷物を運んでいる者もいる。
鳥居の外とは空気が違う。
静かというより、みんな自然と声を落としている感じだった。
「朝陽」
少し前を歩いていたシウンが振り返る。
「これは何をする場所なんだ?」
「神様にお願いしたりする場所……かな」
「かな?」
「俺もそんな詳しくないんだよ」
「お主の故郷にもあるのだろう?」
「あるけど、神社にめちゃくちゃ詳しい高校生なんてそんなにいないって」
「こうこうせい?」
「あー……学校に通ってる人」
「なるほど」
たぶん分かってない。
でもシウンはそれ以上聞かず、周囲を興味深そうに見回していた。
やがて手水場らしき場所を見つける。
そこで俺はまた足を止めた。
「これもあるのか……」
「知ってるのか?」
「似たようなのなら」
柄杓を取る。
記憶を辿りながら手を清めていると、シウンがすぐ横まで来た。
「どうするんだ?」
「まず手を洗って……」
「こうか?」
「待て待て、全部ぶっかけるな」
危うく頭から水を浴びそうになったシウンの手を止める。
「面倒だな」
「そういうもんなんだよ」
「朝陽」
今度は反対側から声がした。
見ると、セレーネが柄杓を持っている。
「次」
「はいはい」
結局、俺は二人にやり方を教えることになった。
少し離れたところでミニムスが笑っている。
「旦那、すっかり引率役ですな」
「お前も手伝えよ!」
「いやぁ、楽しそうだったんで」
「覚えてろよ」
そんなことをしながら拝殿へ向かう。
途中には絵馬が掛けられた場所があり、その隣にはお守りらしきものを並べた小さな授与所もあった。
「これも似てるな……」
思わず呟く。
シウンは完全に興味を引かれたらしい。
「これは?」
「願い事を書くんじゃないか?」
「書けば叶うのか?」
「いや、絶対じゃないと思うけど」
「では何のために書く?」
「そう言われると困るな……」
願掛けなんて、深く考えたこともなかった。
「お願いすることで頑張れるとか、そういうのじゃないか?」
「自分が頑張るのか?」
「たぶん」
「なら最初から自分で頑張ればよいではないか」
「正論やめろ」
シウンは首を傾げている。
そこへミニムスが割って入った。
「まあまあ姉さん。願い事ってのは、そういう理屈だけじゃないんですわ」
「そうなのか?」
「自分じゃどうにもならんことだってありますからねぇ」
その言葉に、シウンが少し考える。
「なるほど」
俺もなんとなく絵馬を眺めた。
自分じゃどうにもならないこと。
そう言われると、いくらでもある。
元の世界に帰れるのか。
そもそも、なんで俺はここにいるのか。
あの日、駅で何が起きたのか。
右も左も分からないままこの世界で目を覚ましてから、ずっと答えが出ていないことばかりだ。
「旦那も書きます?」
ミニムスに言われて我に返る。
「いや、いい」
「帰りたい、とかでも?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……それは」
帰りたい。
当然だ。
父さんと母さんがいる。
学校だってある。
だけど――
今すぐ全部放り出して帰れると言われたら。
俺はどうするんだろう。
ほんの少し前までなら、考えるまでもなかった気がする。
「朝陽?」
セレーネが俺を見ていた。
「いや、なんでもない」
俺は笑って誤魔化した。
「書かなくていいや。願い事って、なんか人に見られると恥ずかしいし」
「誰も見ない」
「そういう問題じゃないんだよ」
「変なの」
「ほっとけ」
セレーネは俺から視線を外すと、並んだ絵馬を見た。
「セレーネは?」
「書かない」
「即答だな」
「願うだけなら、どこでもできる」
「……それもそうか」
シウンはまだ絵馬を見ている。
「わたしは少し興味がある」
「書く?」
「いや」
シウンは腕を組んだ。
「叶えたいものが思いつかん」
「それはそれで幸せなんじゃないか?」
「そうなのか?」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「俺に人生の答え求めんなよ」
シウンが笑った。
そのまま四人で拝殿まで進む。
参拝の作法は、俺の知っているものと少し違っていた。
ここはミニムスの方が詳しい。
言われるままに立ち、周囲の人たちを真似る。
手を合わせる。
目を閉じる。
――さて。
何を願えばいい。
帰れますように。
真っ先に浮かんだのはそれだった。
でも、その言葉だけで終わらせることができなかった。
帰りたくないわけじゃない。
そんなはずはない。
ただ、俺にはまだ分からないことが多すぎる。
この世界のこと。
俺自身のこと。
ここで出会った人たちのこと。
だったら。
――もう少しだけ、この世界のことを知れますように。
願い終えて、目を開けた。
横を見る。
シウンはもう終わっていた。
セレーネだけが、まだ目を閉じている。
風が吹き、髪が頬にかかる。
桜の花びらが一枚、その肩へ落ちた。
何を願ってるんだろう。
少し気になった。
でも、聞くのは違う気がした。
やがてセレーネが目を開ける。
視線が合った。
「……何?」
「いや」
「見てた」
「ちょっとだけ」
「最低」
「なんで!?」
昨日からその言葉の判定が厳しすぎる。
シウンが横で笑い出した。
「お主たちは本当に仲がよいな」
「よくない」
「なんでセレーネが否定するんだよ」
「普通」
「何が?」
「普通の仲」
「いや、それはそうだけど……」
なんだろう。
否定されたら否定されたで、少し引っかかる。
別に何も間違ってないのに。
「へへっ」
前から変な笑い声が聞こえた。
ミニムスが口元を押さえている。
「なんだよ」
「いやぁ、別に?」
「その顔絶対なんか思ってるだろ」
「オイラ、何も言ってませんぜ」
「言ってないから腹立つんだよ!」
逃げるミニムスを追おうとしたところで、服の袖を掴まれた。
「朝陽」
セレーネだった。
「何?」
「花」
自分の肩を指差している。
さっき落ちた桜の花びらが、そのまま残っていた。
「取って」
「自分で取れるだろ」
「見えない」
「いや、場所教えたら――」
「取って」
「はいはい」
手を伸ばし、指先で花びらを摘まむ。
「取れた」
「ありがと」
「ん」
セレーネは何事もなかったように歩き出した。
俺もその後を追おうとして――
反対側の袖を掴まれた。
「朝陽」
「今度は何だよ」
シウンが自分の肩を見ている。
何も付いていない。
「わたしにも何か付いていないか?」
「付いてない」
「本当か?」
「本当だよ」
「よく見ろ」
「近い近い!」
ぐっと顔を寄せてくるシウンから身体を引く。
「何もないって!」
「そうか」
「なんでちょっと残念そうなんだよ」
「別に?」
どこかで聞いた返事だった。
前を見ると、少し先を歩いていたセレーネが振り返っている。
じっと俺とシウンを見ていた。
「……セレーネ?」
「何?」
「いや、なんでもない」
「そう」
ぷい、と前を向く。
「……なんなんだよ」
呟いても、誰も答えてくれなかった。
ただ、そのさらに前を歩くミニムスだけが、肩を小刻みに揺らしていた。
「おいミニムス」
「なんです旦那?」
「笑ってるだろ」
「気のせいですわ」
「こっち向け」
「次、行きますぜー!」
「逃げんな!」
静かな参道に、俺の声が響いた。
周りから視線が集まる。
慌てて口を閉じると、シウンがまた笑った。
セレーネも前を向いたまま、ほんの少しだけ肩を揺らしている。
「……笑ってる?」
「笑ってない」
「絶対笑ってるだろ」
「うるさい」
「はいはい」
鳥居の向こうには、午後のカグラが広がっていた。
祭りまでは、あと二日。
まだ見ていない場所も、知らないことも山ほどある。
俺たちは再び、四人で街の中へ戻っていった。
次回から第4章に入ります。




