第63話 怖い人たち
幌馬車が森の奥へ消えていく。
車輪の軋む音が遠ざかっても、俺たちはしばらくその場を動けなかった。
木々の隙間から見えた、白い耳。
ほんの一瞬だった。
それだけなら、見間違いだった可能性だってある。
けれど。
街道脇に残されていた荷車。
荒らされていない積み荷。
そのまま残された金。
微かに甘い匂いの染みついた布。
そして、街道を避けるように森の中を進む、武装した男たちに囲まれた幌馬車。
全部が繋がっていると考える方が自然だった。
「……行く」
俺が言うと、セレーネはすぐに頷いた。
シウンも何も言わない。
役場の男からは、何か見つけても追うなと言われている。
分かっている。
ここから先は、ただの情報収集じゃない。
相手が本当に誘拐犯なら、見つかった時点で何が起きるか分からない。
「シウン」
「ああ。まだ聞こえている」
シウンが森の奥へ目を向ける。
「かなり離れた。これなら気づかれまい」
「頼む」
俺たちは森へ入った。
◇
追跡は思った以上に神経を使った。
街道とは違い、地面は木の根や湿った落ち葉に覆われている。
少し足を滑らせれば枝を踏む。
枝を踏めば音が出る。
普段なら気にも留めない小さな音が、今はやけに大きく聞こえた。
先頭はシウン。
少し離れて俺。
最後尾をセレーネが歩く。
「止まれ」
シウンが手を上げる。
即座に足を止めた。
数秒。
風が木の葉を揺らす音しか聞こえない。
「……どうした?」
「馬車が止まった」
小声だった。
「近い?」
「いや。まだ距離はある」
「じゃあ、なんで……」
「分からん」
三人とも動かない。
まさか気づかれた?
剣の柄へ手を添える。
しばらくすると、シウンの耳が僅かに動いた。
「……進み始めた」
息を吐く。
「休憩か?」
「かもしれんな」
再び歩き始める。
こんなことを何度か繰り返した。
やがて地面に、人の手が入った痕跡が見え始める。
草が刈られている。
轍も一つじゃない。
古いもの。
新しいもの。
いくつもの車輪の跡が重なっていた。
「ここ、何度も使われてる」
俺が言うと、セレーネがしゃがんだ。
指先で土に触れる。
「今日だけじゃない」
「だよな」
人目を避けるための道。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
森の中を、何台もの馬車が往復している。
それも最近になって突然できた道じゃない。
「……思ってたより大きいかもな」
「何がだ?」
「これをやってる奴ら」
その辺の盗賊が、たまたま一人二人を攫った。
そんな規模じゃない気がする。
シウンも何も返さなかった。
やがて。
「朝陽」
先頭のシウンが片手を上げる。
今までより、その動きが鋭かった。
俺とセレーネが止まる。
シウンが振り返り、口元に指を当てた。
――静かに。
それから森の奥を指す。
耳を澄ませる。
最初は何も聞こえなかった。
でも少しして。
男の声。
馬の鳴き声。
金属のぶつかる音。
いる。
俺たちは姿勢を低くし、慎重に進んだ。
一本。
また一本。
木を越える。
そして。
視界が開けた。
「……あれか」
小さく呟く。
森の中に、不自然な空間が作られていた。
高い木製の柵。
その内側に、二棟の大きな建物。
倉庫に見える。
ただし、窓が少ない。
正面には大きな門。
さっきまで追っていた幌馬車が、ちょうどその中へ入っていくところだった。
俺たちは少し離れた茂みに身を伏せた。
ここからなら全体を見渡せる。
「……七」
セレーネが囁く。
「え?」
「見える範囲」
数える。
門の近くに二人。
馬車の周囲に三人。
建物の前に二人。
全員が武器を持っている。
「中にもいるよな」
「たぶん」
「多いな」
シウンが目を細める。
「それだけではない」
「何が?」
「あれを見ろ」
幌馬車が止まった。
後部が開く。
男が一人、荷台へ上がった。
何かを引っ張る。
出てきたのは、人だった。
「……」
若い男。
犬系の獣人だ。
両手を後ろで縛られている。
足元がおぼつかない。
後ろから押され、そのまま地面へ転がった。
起き上がる前に腕を掴まれる。
次。
女。
その次は少年。
全員、獣人だった。
「……クソ」
口から漏れた。
誘拐。
もう疑いようがない。
少年が何かを叫んだ。
ここからでは言葉までは聞き取れない。
逃げようとした。
直後、男に腹を蹴られた。
少年の身体が折れる。
地面に倒れた。
「――っ」
身体が動きかける。
腕を掴まれた。
セレーネだった。
「待って」
「でも」
「今は駄目」
分かってる。
ここで飛び出してどうする。
外にいるだけで七人。
建物の中に何人いるか分からない。
捕まっている人間の数すら分からない。
戦闘になれば、人質に何をされるかも分からない。
「……分かってる」
拳を握る。
爪が掌へ食い込んだ。
男たちは捕まえた獣人を一人ずつ建物へ連れていく。
最後。
小さな身体が見えた。
白い耳。
さっき幌の隙間から見えたものだ。
「子供……?」
小さい。
女の子だ。
歩けないのか、男に抱えられている。
白い兎耳が力なく垂れていた。
「眠ってる?」
「分からない」
セレーネの声も硬い。
全員が建物へ入れられた。
扉が閉じる。
男が鍵をかける。
カチャリ。
ここまで届くはずもないのに、その音が妙に鮮明に聞こえた気がした。
「……戻ろう」
言ったのは俺だった。
セレーネが俺を見る。
「場所は分かった。人数もある程度見た。役場に戻って――」
応援を呼ぶ。
それが正しい。
俺たちだけで突っ込む必要はない。
むしろ、突っ込むべきじゃない。
助けたいなら、なおさらだ。
「それが妥当だろう」
シウンも頷いた。
「よし」
ゆっくり身体を下げる。
来た道を戻ろうとした。
その時だった。
「――動くな」
声がした。
背後。
近い。
近すぎる。
全身から血の気が引いた。
いつからいた?
振り返ることすらできない。
「三人とも、そのままじゃ」
低い男の声。
直後。
首筋に、冷たいものが触れた。
「……っ」
刃。
息が止まる。
ほんの少し動けば皮膚が切れる。
反射的に剣へ手が伸び――。
「触んな」
声の温度が下がった。
手が止まる。
「次、動かしたら切るで」
冗談じゃない。
本気だ。
「朝陽」
セレーネの声。
見ることはできない。
「セレーネ?」
「平気」
でも声が硬い。
セレーネの背後にも誰かいる。
シウンは?
視線だけを動かす。
右。
シウンの背後にも男が立っていた。
短刀が脇腹へ向けられている。
シウンなら。
一瞬だけ、そう思った。
あいつなら、この程度どうにでもできるんじゃないか。
雷獣を殴り倒した龍族だ。
でも。
相手は三人だけとは限らない。
セレーネにも刃物が向いている。
俺が動いた瞬間、誰かが刺されるかもしれない。
「……剣から手ぇ離せ」
ゆっくり手を開く。
柄から離す。
「両手、見えるとこに出せ」
従う。
心臓がうるさい。
背中に汗が流れる。
さっきまで俺たちは、あの倉庫の連中を観察していた。
同じことを。
俺たちもされていた。
気づきもしなかった。
「……何者だ」
聞いてみる。
返事はない。
刃が少し強く押し当てられた。
「質問してええ言うたか?」
「……」
「黙っとれ」
完全にしくじった。
人攫いの仲間。
最初に浮かんだのはそれだった。
倉庫の周囲を見張っていた?
だとしたら。
俺たちは最初から見つかっていたのかもしれない。
「立て」
言われるまま、ゆっくり立ち上がる。
「変な真似すんなよ」
背後から押される。
数歩。
茂みから離される。
倉庫側から見えない位置へ移動させられた。
そこで初めて。
「止まれ」
足を止める。
「ゆっくり振り向け」
振り返る。
男がいた。
真っ先に目に入ったのは、狸の耳だった。
年齢は若い。
二十代半ばくらいに見える。
なのに、纏っている空気は年齢と合っていない。
和装を着崩し、胸元から刺青が覗いている。
鋭い目。
隙がない。
その後ろにも数人。
全員が武器を持っている。
笑っている奴はいない。
俺たちを完全に敵として見ている。
……怖い。
日本にいた頃なら、道の反対側へ渡る。
絶対に目を合わせない。
そんな人たちだ。
「名前」
狸の男が言った。
「……真白朝陽」
「所属は」
「冒険者です」
「どこの」
「バルカン王国。王都ルイで登録しました」
「証拠」
「冒険者証が……」
腰袋へ視線を落とす。
男の目が動く。
「取れ」
「俺が?」
「ゆっくりじゃ」
言われた通りにする。
指先まで見られている。
冒険者証を取り出す。
近くの男が受け取った。
「兄貴」
確認する。
「Dランク。登録は確かにバルカンです」
「名前は」
「マシロ・アサヒ」
狸の男が俺を見る。
「そっち」
「セレーネ」
セレーネが答える。
「シウンだ」
シウンも続く。
「三人で何しとった」
「……あの馬車を追ってました」
「なんで」
「人が乗せられてたから」
「見たんか?」
「白い兎耳が見えた」
男の目が僅かに動いた。
ほんの一瞬。
「それだけで追ったんか」
「違う」
俺は慎重に話す。
「この辺で獣人の行方不明が増えてるって聞いた。街道で荷車も見つけた。荷物も金も残ったまま、人だけいなかった」
「……」
「その近くを、あの馬車が通った」
「役人か?」
「違う」
「依頼を受けた?」
「受けてない」
「ならなんで首突っ込んどる」
答えに詰まる。
男の目が細くなる。
「金か?」
「違う」
「じゃあ何じゃ」
「……放っとけなかったから」
「それだけ?」
「それだけです」
沈黙。
信じてもらえたのか分からない。
狸の男は俺から目を逸らさない。
後ろにいる男たちも同じだ。
「朝陽」
シウンが静かに呼ぶ。
何かあれば動く。
そういう声だった。
「大丈夫」
小さく返す。
正直、大丈夫ではない。
相手の目的が分からない。
「今度はこっちから聞いていいですか」
「……言うてみぃ」
「あなたたちは、あいつらの仲間ですか」
空気が変わった。
男の目が一気に険しくなる。
周囲の連中まで殺気立った。
まずい。
地雷を踏んだ。
「……ワシらが」
低い声。
「あの外道共の仲間に見えるんか」
否定。
すぐには理解できなかった。
「違う……?」
「当たり前じゃろうが」
吐き捨てるような声だった。
でも警戒は解かれない。
刃物も下がらない。
「じゃあ、なんでここに」
「それはこっちの台詞じゃ」
男が一歩近づく。
「二ヶ月追っとる」
「二ヶ月?」
「あいつらをじゃ」
思わず倉庫の方を見る。
「じゃあ……」
「行方不明になった連中を探しとる」
男が言った。
「生きとる奴は、全員連れて帰る」
声に迷いがなかった。
そこでようやく。
ほんの少しだけ。
首筋に向けられていた刃が離れた。
息を吐く。
ずっと止めていたことに、その時初めて気づいた。
セレーネとシウンに向けられていた刃も下がる。
ただし、武器を収めたわけじゃない。
「……あなたたちも、助けに?」
「『も』?」
「俺たちも、そのつもりで」
「三人で?」
「……場所を確認したら役場に戻るつもりでした」
「ならまだ多少は頭回るらしいの」
男が鼻を鳴らす。
「兄貴」
横にいた男が冒険者証を差し出す。
「こいつら、たぶん白です」
「たぶんで決めんな」
「でも、向こうの人間ならバルカンの冒険者証持って三人で尾行なんかせんでしょう」
「偽造かもしれん」
「そこまでやる奴が、あんな素人みたいな尾行します?」
「……聞こえとるぞ」
思わず言った。
二人の視線がこっちへ向く。
「すみません」
今は黙っておこう。
狸の男が大きく息を吐いた。
「サカキ」
「はい」
「周り見とけ」
「分かりました」
男――サカキが仲間を連れ、少し離れる。
残った狸の男が俺たちを見る。
「クガ・ゲンゾウ」
「え?」
「ワシの名前じゃ」
胸元へ親指を当てる。
「クガ組の組長しとる」
「組長……」
嫌な予感がした。
「組って……」
「なんじゃ」
「いや」
日本人の俺には、とても聞き覚えのある響きだった。
刺青。
着崩した和装。
組長。
どう考えても。
いや。
今はどうでもいい。
「クガさん」
「なんじゃ」
「さっき二ヶ月追ってるって」
「ああ」
クガの表情が変わる。
再び倉庫を見る。
「あそこは、終点じゃない」
「……どういう意味?」
「一時的に集めとるだけじゃ」
「人を?」
「ああ」
嫌な言い方だった。
でも、それが一番正確なんだろう。
「何人かずつ攫って、あそこへ放り込む。数が揃ったら別の場所へ動かす」
「どこに?」
「国外じゃ」
「……国外?」
「そこから先はまだ掴み切れとらん」
クガの拳が握られる。
「じゃが、売っとる」
一瞬。
意味が理解できなかった。
「……売る?」
「人身売買じゃ」
言葉が胸に落ちる。
人を攫う。
集める。
運ぶ。
売る。
頭では知っている言葉だった。
日本にいた時だって聞いたことくらいある。
でも。
さっき見た。
蹴られた少年。
縛られた男。
引きずられていった女。
眠っているのか、ぐったりしたまま運ばれていた白い兎耳の女の子。
あの全員が。
商品。
そういうことか。
「……ふざけんなよ」
声が漏れた。
クガが俺を見る。
「そう思うなら覚えとけ」
低い声だった。
「腹立てるだけなら誰でもできる」
「……」
「あそこには人質がおる。ワシらがしくじりゃ、死ぬんはあいつらじゃ」
何も言えない。
その通りだ。
「だから二ヶ月も?」
「ああ」
「場所が分かってたのに?」
クガの眉が動く。
言ってから、まずかったと思った。
「……悪い」
「いや」
クガは怒らなかった。
「そう言いたくなるんも分かる」
倉庫を見る。
「じゃが、ここを潰すだけなら簡単なんじゃ」
「え?」
「火ぃつけて、出てきた奴から殴り倒しゃ終わる」
物騒だ。
でも。
「中の人たちは」
「そういうことじゃ」
人質がいる。
だから正面から行けない。
「それに、運ぶ先も押さえにゃならん。本元を残したら、また別の場所で始める」
「……なるほど」
ただ助ければ終わりじゃない。
俺が思っていたより、ずっと大きな話になっている。
「じゃあ今日も見張るだけ?」
「そのつもりじゃった」
「だった?」
クガが俺を見る。
「予定が変わった」
「なんで?」
「さっき入った馬車じゃ」
白い耳が頭に浮かぶ。
「あれが?」
「ワシらが追っとった別口の連中じゃ」
「……じゃあ」
「あいつら、予定より早う動かすつもりかもしれん」
クガの顔が険しくなる。
「今夜にも移送される可能性がある」
「今夜……」
役場へ戻って。
人を集めて。
またここへ来る。
間に合うのか?
クガも同じことを考えているらしい。
「サカキ」
呼ぶ。
「はい」
すぐに男が戻ってきた。
「裏は?」
「変化なしです。ただ、人数が増えてます。中からさらに四人確認しました」
「全部で?」
「最低十一」
「こっちは」
「六です」
六人。
俺たちを入れて九人。
「捕まっとる奴は?」
「今見える範囲じゃ分かりません」
「……チッ」
クガが舌打ちする。
その時。
倉庫の方から馬の鳴き声がした。
全員が黙る。
木々の隙間を見る。
男たちが動いている。
荷物を運んでいる。
馬へ水を飲ませている。
「準備しとる」
サカキが呟く。
「兄貴」
「分かっとる」
クガが数秒考える。
それから俺たちを見る。
「お前ら」
「……はい」
「さっき、助けるつもりじゃった言うたな」
「言った」
「今でも変わらんか」
セレーネを見る。
目が合う。
頷いた。
シウンは聞くまでもない。
「変わらない」
俺が答える。
「そうか」
クガが俺の冒険者証を投げる。
受け取る。
「なら、選べ」
「何を?」
「ここで引き返すか」
クガが倉庫を見る。
「ワシらと一緒に、あそこへ入るかじゃ」
森を抜ける風が止まった。
遠くで。
重い扉が閉まる音がした。




