第60話 水車郷
雷獣との戦いから一夜。
俺たちは、再びカグラへ向かう街道を歩いていた。
「……痛え」
右肩を回した瞬間、鈍い痛みが走る。
昨日よりはマシだ。それでも雷獣に吹き飛ばされた身体が、一晩寝た程度で元通りになるわけじゃない。剣を握る右手にもまだ痺れが残っている。
「無理に動かさない方がいい」
隣を歩くセレーネが言った。
「分かってる。確認しただけ」
「さっきも確認してた」
「気になるんだよ」
「動かすから治らない」
「はいはい」
「返事が軽い」
いつもの調子で返しながら、少し前を歩くシウンを見る。
長い黒髪。和装。昨日までと何も変わらない後ろ姿。
あの腕が黒い鱗に覆われて、雷獣の突進を真正面から受け止めた。
思い出しても意味が分からない。
「……龍族」
口から漏れた。
「なんだ?」
シウンが振り返る。
「いや。ほんとに龍族なんだなと思って」
「昨日もそう言っただろう」
「言ってたけどさ」
本人にとっては、それほど大したことでもないらしい。
「俺、龍族なんて初めて見たんだよ」
「そうなのか?」
「そうなのかって……普通そんな何人も会うもんなの?」
「知らん」
「知らんのかよ」
「わたしは同族に囲まれて育ったからな。外の者が龍族とどれほど出会うものなのかまでは知らん」
「ああ……」
それなら分からないのも当然か。
昨日の悪質な勧誘といい、強さに反して外の世界について知らないことが多すぎる。
「でも、あれだけ強いなら最初から言ってくれればよかったのに」
「聞かれなかったからな」
「……それで済む話なのか?」
「何か問題でもあるのか?」
「いや……ないけど」
シウンが不思議そうに首を傾げる。
駄目だ。
たぶん、この人にとっては本当にそれだけなんだ。
俺が諦めて前を向くと、セレーネと目が合った。
「なんだよ」
「別に」
「今ちょっと笑ってただろ」
「笑ってない」
「絶対笑ってた」
「朝陽」
「ん?」
「前」
「え?」
慌てて正面を向く。
街道脇に立っていた道標が、目の前まで迫っていた。
「うおっ」
避ける。
シウンが呆れたようにこちらを見る。
「お主、昨日あれだけ動けていたのに、なぜ今日は看板にぶつかりそうになるのだ」
「戦ってない時まで集中してられるか」
「そういうものか?」
「そういうもんだよ。たぶん」
危なかった。
そのまま通り過ぎようとして、ふと足を止める。
「……ん?」
道標には、二つの行き先が書かれていた。
一方は王都カグラ方面。
もう一方は――。
「《水車郷》?」
聞き覚えがある。
背負っていた荷物からガイドブックを取り出し、ページをめくった。
「あった」
アカツキ地方。
山と田園が広がる、ディアナの里山地帯。
茶畑や棚田が多く、その一角にいくつもの水車小屋が集まった小さな集落がある。
《水車郷》。
道標によれば、ここから脇道へ入ればそう遠くないらしい。
「……どうする?」
俺が二人を見る。
「何が?」
「寄ってく?」
セレーネはガイドブックを覗き込んだ。
シウンも反対側から覗く。
「水車とはなんだ?」
「そこから?」
「知らんものは知らん」
「水の力で回るでっかい車みたいなやつ。米とか蕎麦とか挽いたりするんだと思う」
「水で車が回るのか?」
「説明すると難しいな……見た方が早い」
「ならば行こう」
「決断早いな」
「知らぬものがあるのだろう?」
シウンは当然のように言った。
「なら、見てみたい」
こういうところは、少し意外だった。
もっと落ち着いた人なのかと思っていたけど、知らないものを見つけた時だけ妙に食いつきがいい。
「セレーネは?」
「どっちでもいい」
「じゃあ決まり」
カグラへ向かう道を外れる。
別に急ぐ旅じゃない。
寄れる場所があるなら、寄っていけばいい。
◇
水車郷へ近づくにつれ、景色が変わっていった。
山の斜面に沿って、何段もの田んぼが広がっている。
棚田。
教科書か何かで見たことがある。
その向こうには茶畑が並び、竹林の間を細い水路が走っていた。
水の音。
風に揺れる竹の音。
土と草の匂い。
バルカンとはまるで違う。
「……日本みたいだな」
「朝陽の故郷?」
「ああ。俺が住んでた場所はこんな田舎じゃなかったけど」
少なくとも、この景色を見て異世界だと思う日本人は少ないだろう。
やがて、低い音が聞こえてきた。
ゴトン。
ゴトン。
一定の間隔で繰り返される音。
川から引かれた水路の先に、大きな木製の水車が見えた。
一つじゃない。
少し離れた場所にも。
さらにその奥にも。
「おお……」
シウンが足を止めた。
大きな水車がゆっくりと回っている。
流れてきた水が羽根板を押し、軸が回転し、その動きが小屋の中へ伝わっていく。
「これが水車か」
「そうそう」
「面白いな」
シウンが近づいていく。
じっと見る。
少し位置を変えて、また見る。
「水が落ちる力を使っているのか」
「たぶんな」
「なるほど」
一度仕組みを理解すると早い。
別に頭が悪いわけじゃない。
本当に、知らないだけなのだ。
「中はどうなっている?」
「俺に聞かれても知らないよ」
「朝陽の故郷にもあるのだろう?」
「あるけど、水車の中まで見たことない」
「役に立たんな」
「急に辛辣!」
セレーネが水車の横を通り過ぎていく。
「行くよ」
「あ、待って」
集落へ入る。
家はそれほど多くない。
木造の家々の間を水路が走り、至るところから水の音が聞こえる。
田んぼから戻ってきた獣人。
軒先で野菜を干している獣人。
荷車を引く獣人。
子供たちまで、ほとんど全員が獣人だ。
ディアナに入ってから何度も見た光景なのに、未だに少しだけ不思議な感じがする。
「人族だ」
案の定、子供の一人が俺を指差した。
「ほんとだ!」
「旅人?」
「剣持ってる!」
何人か集まってくる。
「冒険者?」
「一応な」
「何ランク?」
「D」
「おおー!」
予想外に素直な反応が返ってきた。
「Dってすごい?」
「そこそこじゃない?」
「そこそこって言うな」
まあ、間違ってはいない。
Fから始めて、E、D。
半年でC目前まで来た。
でも、結局昇格する前に王都を出たから、今も俺の登録上のランクはDのままだ。
「こら、お前たち。旅人を囲むんじゃない」
奥から声が飛んできた。
犬のような耳を持つ中年の男が歩いてくる。
「すまんな。こんなところまで外の旅人が来るのは珍しくてな」
「いえ」
「カグラへ向かう途中か?」
「はい。ちょっと寄り道を」
「ならゆっくりしていくといい。宿もあるし、飯なら蕎麦がうまいぞ」
「蕎麦」
思わず反応する。
「食べたい」
セレーネも反応した。
「お前もか」
「悪い?」
「いや」
シウンが俺たちを見る。
「蕎麦とはなんだ?」
「……よし。食おう」
「なぜ急に嬉しそうなのだ」
「知らないものを食った時のお前の反応、ちょっと面白いから」
「失礼な奴だな、お主は」
男が笑う。
「昼にはまだ少し早い。先に村を見て回るといい」
「ありがとうございます」
言われた通り、集落の中を歩いてみることにした。
◇
水車小屋。
茶畑。
小さな田んぼ。
干された山菜。
木造の家。
派手なものは何もない。
ユノハナみたいな観光地でもない。
でも、俺はこういう場所も嫌いじゃなかった。
そこで暮らしている人がいる。
それだけで、旅をしている感じがする。
「朝陽」
「ん?」
セレーネが少し先で立ち止まっていた。
その視線の先。
水路脇に、数人の男たちが集まっている。
「どうしたんだ?」
近づいてみる。
「水が弱くなってるんだ」
さっきの男が水路を指差した。
確かに、水量が少ない。
「上で詰まってるらしい。朝から何人か見に行ってるんだが……」
話している途中。
山の方から一人の獣人が走ってきた。
「駄目だ! 倒木が三本も重なってる! 土まで崩れてやがる!」
「三本?」
「斧じゃ時間がかかる。今日中にどかせるかどうか……」
周囲が騒がしくなる。
水車を見る。
さっきまでより、明らかに回転が遅い。
ゴトン。
……ゴトン。
間隔が伸びていた。
「これ止まるとまずいんですか?」
「そりゃまずい。米も蕎麦も挽けん。田に送る水にも影響する」
「なるほど……」
俺は山を見る。
それからセレーネを見る。
セレーネも俺を見る。
「行く?」
「……行くか」
「休むのではなかったのか?」
シウンが呆れたように言った。
「いや、別に休むために来たわけじゃないし」
「蕎麦を食べに来たのだろう?」
「それは食う」
「ならば先に食えばよかろう」
「困ってるって聞いた後にのんびり食えるかよ」
「ふむ」
シウンは少し考えてから、笑った。
「仕方ないな。わたしも付き合おう」
◇
「……でか」
上流まで来た俺は、思わず呟いた。
倒木。
三本。
聞いていた通りだ。
ただし、太さまでは聞いていない。
一本一本が、俺の胴体より遥かに太い。
斜面から崩れた土砂ごと水路へ落ち、複雑に重なっている。
「これを斧で?」
「だから困ってる」
村人が苦笑する。
「切れるところから切って、細かくして運ぶしかねえ」
俺は倒木を見る。
次にシウンを見る。
「……持てる?」
「物による」
「お、意外と現実的」
「わたしを何だと思っている」
「昨日雷獣を殴り倒した人」
「人ではないぞ」
「あ、そうだった」
シウンが倒木へ近づく。
一番上の一本に両手をかけた。
腰を落とす。
「ふっ」
ミシッ。
「……え?」
浮いた。
村人たちが固まる。
俺も固まる。
シウンはそのまま幹を持ち上げると、横へ放った。
ズンッ――!
地面が揺れる。
「…………」
「一本」
シウンが手を払う。
「次は?」
「いやいやいや」
「なんだ?」
「やっぱりお前おかしいって」
「龍族だからな」
昨日までなら意味が分からなかった。
今なら意味は分かる。
納得できるかは別として。
「残りは少し面倒だな」
下の二本は土砂と岩に挟まれている。
持ち上げるだけでは無理そうだ。
「周りから崩すか」
俺は剣へ手を伸ばして――止めた。
昨日の戦いを思い出す。
セレーネの魔法。
水の槍。
炎の槍。
地面から突き上がった土の杭。
「……セレーネ」
「なに?」
「ちょっと見てて」
「?」
倒木へ向けて右手を出す。
魔力を流す。
水へ変換する。
ここまではもうできる。
昨日見たものを思い出す。
セレーネが使った《アクアランス》。
ただ水を槍の形にしただけじゃない。
圧縮。
細く。
先端へ集める。
飛ばすまで形を崩さない。
「《アクアランス》」
水が走った。
バンッ!
倒木の表面が弾ける。
「……お」
出た。
思ったより普通に。
セレーネが俺を見る。
「朝陽」
「ん?」
「それ、いつ覚えたの?」
「今」
「……今?」
「昨日お前が使ってたから」
セレーネが黙った。
「いや、でも全然違うな」
削れた場所を見る。
セレーネの《アクアランス》はもっと細かった。
俺のは太い。
その分、魔力も余計に使っている。
「圧縮が足りない?」
「うん」
「やっぱり」
もう一度。
昨日のセレーネ。
水が集まる。
細くなる。
でも――違う。
槍を作ってから圧縮してるんじゃない。
圧縮しながら形を作っている。
「……こうか」
右手に水が集まる。
さっきより細い。
「《アクアランス》」
撃つ。
バシュッ!
水の槍が倒木へ突き刺さった。
さっきより深い。
「おお……!」
村人から声が上がる。
「合ってる?」
「だいたい」
「よし」
「……二回」
「ん?」
「なんでもない」
セレーネが少しだけ変な顔をしている。
でも、まだだ。
昨日見たのは水だけじゃない。
地面へ視線を落とす。
セレーネが雷獣へ使った魔法。
土を隆起させる。
ただ盛り上げるんじゃない。
狙った一点。
地中から。
鋭く。
「《グランドスパイク》」
ドンッ!
「うおっ!?」
思っていた場所より一メートルほど横から、太い土の杭が飛び出した。
村人が飛び退く。
「す、すみません!」
「朝陽」
「分かってる!」
発動はした。
でも制御が甘い。
さっきの《アクアランス》とは明らかに違う。
「これ難しいな」
「C級」
「なるほど」
納得する。
出すだけならできる。
狙った位置。
大きさ。
角度。
威力。
そこまで揃えて初めて、セレーネが昨日使っていた《グランドスパイク》になる。
「もう一回」
「うん」
土の中へ魔力を流す。
今度は広げない。
狭く。
倒木の真下だけ。
持ち上げる角度を意識する。
「《グランドスパイク》」
地面が鳴る。
ドンッ!
土の杭が倒木の下から突き上がった。
今度は狙った場所。
岩との間に、わずかな隙間ができる。
「シウン!」
「任せておけ」
シウンが迷わず踏み込んだ。
隙間へ腕を入れる。
「ふっ――!」
ミシミシと音を立てながら、倒木が浮き上がる。
「今だ!」
村人たちが一斉に綱を引いた。
倒木がずれる。
塞がれていた水が一気に流れ込んだ。
ザアアアアッ――!
「おおっ!」
歓声。
勢いを取り戻した水が、水路を下っていく。
遠く。
集落の方から。
ゴトン。
ゴトン。
止まりかけていた水車の音が、再び一定の間隔で響き始めた。
「……よし」
なんとなく嬉しい。
魔物を倒したわけじゃない。
誰かと戦ったわけでもない。
それでも、自分たちがやったことがそのまま誰かの生活に繋がっている。
こういうのも悪くない。
「朝陽」
「ん?」
セレーネが俺を見ていた。
「何?」
「《グランドスパイク》」
「うん」
「初めて?」
「初めて」
「……そう」
「何その顔」
「別に」
シウンも俺を見ている。
「お主、昨日あれを見ただけなのか?」
「うん」
「それで使えるのか?」
「使えたな」
自分でも不思議ではある。
でも、昔からそうだったわけじゃない。
この世界へ来てから。
剣も。
魔力の扱いも。
見て、考えて、何度か試せば身体に入ってくる。
最初は異世界に来たからそういうものなのかと思っていた。
半年も経つと、さすがに普通じゃないらしいとは分かってきたけど。
「まあ、便利だしいいだろ」
「よくない」
セレーネが言った。
「なんで?」
「気持ち悪い」
「言い方!」
村人たちが笑った。
◇
昼を少し過ぎた頃。
俺たちはようやく蕎麦にありついた。
「……美味い」
つゆにつけた蕎麦をすすり、思わず呟く。
懐かしい。
完全に同じじゃない。
出汁も少し違う。
麺も日本で食べていたものより太い。
それでも、蕎麦だ。
「美味しい」
セレーネも黙々と食べている。
向かいではシウンが、箸で蕎麦を持ち上げたまま眺めていた。
「これをその汁につけるのか?」
「そう」
「全部か?」
「いや、好きなだけでいいけど」
「ふむ」
少しだけつける。
食べる。
「……」
「どう?」
「美味いな」
「だろ?」
「なぜお主が得意げなのだ」
「なんとなく」
シウンがもう一口食べる。
今度はさっきより多めにつゆへつけた。
「こっちの方がいい」
「学習が早い」
「わたしを何だと思っている」
「悪質なスカウトを親切な人だと思う人」
「まだ言うのか?」
「事実だろ」
「朝陽」
セレーネが俺を見る。
「なに?」
「蕎麦、伸びる」
「あっ」
慌てて食べる。
外からは水車の音。
店の中では地元の獣人たちが飯を食べている。
壁には農具。
窓の外には田んぼと山。
昨日は雷獣を前に、本気で死ぬと思った。
今日は三人で倒木をどかして、蕎麦を食っている。
落差がすごい。
でも。
たぶん旅って、こういうものなんだろう。
毎日命懸けじゃ身体がもたない。
戦って。
歩いて。
寄り道して。
知らないものを見て。
美味いものを食う。
「なあ」
「ん?」
「なんだ?」
二人が俺を見る。
「カグラまでさ」
蕎麦をすすってから続ける。
「こういうところあったら、また寄ってこうぜ」
セレーネは少しだけ考えてから頷いた。
「うん」
シウンは迷わなかった。
「わたしも賛成だ。外には知らぬものが多いからな」
「だよな」
カグラを目指す。
それは変わらない。
でも、真っ直ぐ行かなきゃいけない理由もない。
せっかく別の国まで来たんだ。
急いで通り過ぎるだけじゃ、もったいない。
「次は何があるかな」
ガイドブックを開く。
まだ知らない町。
知らない村。
知らない食べ物。
ページの先には、いくらでも載っている。
「朝陽」
「ん?」
「食べながら読むと汚す」
「あ、ごめん」
本を閉じる。
シウンが呆れたように笑った。
外では今日も水車が回っている。
ゴトン。
ゴトン。
規則正しい音を聞きながら、俺は残っていた蕎麦をすすった。
カグラはまだ先だ。
だったら――その途中も楽しめばいい。
次回から第2章に入ります。




