第59話 三人の戦い
ユノハナを離れてから、しばらくは穏やかな道が続いていた。
山と山の間を縫うように伸びる街道。
左右には深い森が広がり、時折吹き抜ける風が木々を揺らしている。
振り返っても、もうユノハナの湯気は見えない。
あれだけ賑やかだった街が嘘みたいだった。
「もう一回」
「まだやるの?」
「カグラまで毎日って言った」
「言ったけど、歩き始めてからずっとやってるぞ」
「だから?」
「先生が厳しい」
歩きながら右手へ魔力を集める。
発動はさせない。
集めて。
火へ変える。
昨日までは無意識にまとめてやっていたことを、一つずつ分けていく。
「……どう?」
「さっきよりいい」
「お」
「でも雑」
「やっぱり最後にそれ付くんだな」
「事実だから」
前を歩いていたシウンが振り返った。
「随分と熱心だな」
「誰のせいだと思ってる」
「お主が自分でB級まで覚えると言ったのだろう?」
「そうなんだけどさ」
「ならば励むしかあるまい」
そう言って、シウンが笑う。
昨日会ったばかりとは思えないくらい、三人で歩くことに違和感がなくなっていた。
「次、水」
「はいはい」
今度は水。
形を決める前に、流れを意識する。
掴もうとしない。
流れるもの。
形を変えるもの。
右手に集めた魔力の感触が、ゆっくりと変わっていく。
「……これ」
「うん」
「できてる?」
「昨日よりいい」
「よし」
少しずつ。
本当に少しずつだけど、昨日までとは違う。
魔法を使うという行為を、初めてちゃんと理解し始めている気がする。
「じゃあ次は土――」
そこまで言った時だった。
シウンが止まった。
「――待て」
声が違った。
俺とセレーネも足を止める。
「どうした?」
返事がない。
シウンは街道の先ではなく、右手に広がる森を見ていた。
俺もそちらを見る。
木。
草。
薄暗い森。
それだけだ。
何も見えない。
――なのに。
「……静か」
セレーネが呟いた。
「え?」
言われて気づいた。
鳥の声がしない。
虫の音も。
風が吹けば木の葉は揺れる。
なのに、生き物の気配だけがない。
さっきまで鳴いていたはずなのに。
「……なんだよ、これ」
理由も分からないのに。
背中が冷たくなった。
右手が勝手に剣の柄へ伸びる。
バチッ。
森の奥で。
青白い光が瞬いた。
「雷……?」
遅れて。
――ドンッ!
腹の底まで響く音。
鳥の群れが森から一斉に飛び立った。
何十羽。
何百羽。
同じ方向へ逃げていく。
その直後。
森の奥で。
一本。
木が倒れた。
さらに一本。
また一本。
「……何か来る」
セレーネの声が低い。
木が倒れているんじゃない。
何かが。
こちらへ向かって。
木々を薙ぎ倒しながら進んでいる。
「剣を抜け、朝陽」
シウンの声。
もう抜いていた。
自分でも、いつ抜いたのか分からなかった。
右手に剣。
左手が震えている。
止めようとして。
気づく。
違う。
手だけじゃない。
膝もだ。
地面が揺れている。
ドン。
ドン。
近づいてくる。
雷鳴。
木の折れる音。
地響き。
それが全部重なって。
――止まった。
「…………」
何も聞こえない。
俺たち三人とも動かなかった。
動けなかった。
森の奥。
二本の木の間。
暗闇の中に。
青白い光が二つ灯った。
「……目?」
次の瞬間。
森が弾けた。
「――ッ!」
白銀の巨体が飛び出した。
見えたのは一瞬。
「朝陽!」
セレーネの声。
何かに身体を引かれた。
直後。
目の前を白い塊が通過する。
轟音。
風圧だけで身体が浮いた。
「っ……!」
地面へ叩きつけられる。
息が詰まった。
「がっ……!」
何が起きた。
起きろ。
立て。
剣。
剣は――。
握ってる。
顔を上げる。
「…………」
道の向こう。
さっきまで何もなかった場所に。
巨大な獣がいた。
狼。
いや、違う。
虎。
それも違う。
白銀の毛に覆われた四足の巨獣。
俺の身長なんて軽く超えている。
太い四肢。
地面へ突き刺さる爪。
口元から覗く牙。
その全身を。
青白い雷が這っていた。
バチッ。
雷が地面へ落ちる。
土が黒く焦げた。
「……なんだよ、あれ」
獣が振り返る。
目が合った。
その瞬間。
喉が締まった。
殺される。
理由なんてない。
ただ。
そう思った。
「雷獣……」
シウンが呟く。
「知ってるのか」
「名だけはな」
「ランクは」
少しの沈黙。
「――Aだ」
A。
一瞬、意味が分からなかった。
聞いたことはある。
依頼。
魔物。
冒険者。
何度も見てきた文字。
でも。
目の前に立たされて。
初めて理解した。
「これが……Aランク」
雷獣が身を沈めた。
「来る!」
消えた。
「――ッ!」
見えない。
右。
左。
どこだ。
身体が勝手に剣を上げた。
次の瞬間。
衝撃。
「ぐっ――!」
腕が弾けるかと思った。
爪。
剣で受けている。
重い。
違う。
重いなんてもんじゃない。
「ぐ、ぅ……!」
靴底が地面を滑る。
腕が痺れる。
剣が軋む。
押し潰される。
無理だ。
受けきれない。
剣を傾ける。
爪を横へ滑らせる。
「っ!」
身体を捻る。
雷獣の前脚が脇を抜けた。
今だ。
懐。
踏み込む。
剣を振るう。
ガッ。
「……硬っ!」
斬った。
確かに斬った。
なのに。
浅い。
毛と皮を裂いただけ。
血すらほとんど出ていない。
雷獣が首を回した。
目が合う。
「まず――」
腹に衝撃。
「がっ!」
尻尾だった。
身体が吹き飛ぶ。
地面。
空。
地面。
転がる。
息ができない。
「朝陽!」
立て。
身体を起こす。
視界が揺れる。
たった一撃。
まともに食らったわけですらない。
それでこれだ。
雷獣の周囲で雷が膨れ上がる。
「下がって!」
セレーネが手を伸ばした。
「《アースウォール》」
地面が隆起する。
「え――」
巨大な土壁。
次の瞬間。
雷撃。
白。
音が消えた。
直後。
爆音。
土壁が一撃で砕け散る。
土と石が雨のように降り注いだ。
「……嘘だろ」
《アースウォール》。
D級。
俺にはまだ使えない魔法。
それが。
一撃で。
「朝陽!」
「っ!」
土煙の中。
光。
来る。
雷獣が飛び出した。
今度は。
見ろ。
怖くても見ろ。
肩。
脚。
視線。
どこへ来る。
爪。
剣を合わせる。
受けるな。
流せ。
刀身を滑らせる。
火花。
半歩。
身体をずらす。
爪が頬を掠めた。
熱い。
構うな。
一歩入る。
「っ!」
剣を振るう。
前脚。
今度は少し深い。
血が飛ぶ。
「入った!」
雷獣が吠えた。
空気が震える。
怯むな。
もう一撃。
返す。
剣先が毛皮を裂く。
後ろへ。
爪。
躱す。
牙。
身体を沈める。
頭上で顎が閉じる。
怖い。
死ぬ。
でも。
見える。
最初より。
少しだけ。
半年前の俺なら。
絶対に無理だった。
剣なんて握ったこともなかった。
魔物を前にしたら、逃げるだけで精一杯だった。
大剣を振って。
依頼をこなして。
何度も魔物と戦って。
片手剣へ持ち替えて。
まだ下手だ。
でも。
積み上げたものは消えてない。
「朝陽、伏せて!」
考えるより先に身体が沈んだ。
頭上を何かが通過する。
「《アクアランス》」
水の槍。
雷獣の肩へ直撃した。
血が飛ぶ。
「――ッ!」
雷獣がよろめいた。
「……は?」
《アクアランス》。
水属性D級。
昨日。
俺に水属性の基礎を教えていたセレーネが。
まるで当たり前みたいに。
「前見て!」
「っ!」
雷獣がこちらを向く。
踏み込む。
俺が前へ出る。
爪。
受け流す。
剣。
斬る。
浅い。
もう一度。
雷獣が俺を追う。
「今!」
横へ抜ける。
「《フレイムランス》」
背後。
熱。
炎の槍が俺の横を抜けた。
雷獣の胸へ。
直撃。
爆炎。
「――ッッ!」
初めて。
雷獣の巨体が地面を転がった。
「…………」
強い。
獣人を助けた時。
一度だけ。
セレーネが魔法を使うところを見た。
それだけだった。
だから。
知らなかった。
こいつがどれくらい魔法を使えるのか。
でも。
今の一発で分かった。
俺とは違う。
魔力の集まり方も。
発動までの速さも。
威力も。
「セレーネ、お前――」
「来る」
炎が弾けた。
「――っ!」
雷獣が飛び出す。
倒れてない。
それどころか。
怒ってる。
全身の雷がさっきより激しい。
傷口から血を流しながら。
俺たちを睨んでいる。
シウンが一歩前へ出た。
「なら、わたしもやろう」
右手を向ける。
「《ファイアボール》」
火球。
雷獣が横へ跳ぶ。
「《ウォーターボール》」
続けて水。
回避。
「《ウィンドボール》」
三つ目。
雷獣の逃げた先。
風の塊が横腹へ叩き込まれた。
「――ッ!」
「三属性を……」
間を置かずに切り替えている。
俺みたいに一つずつ意識している様子すらない。
シウンも。
魔法に慣れている。
遠くから。
火。
水。
風。
雷獣の動きを制限していく。
こいつも魔法型なのか?
そう思った時だった。
雷獣が。
止まった。
「……?」
攻撃が効いた?
違う。
「まずい」
セレーネが言った。
全身の毛が逆立っていく。
雷が。
外へ弾けるのをやめた。
身体の内側へ。
集まっていく。
バチ。
バチバチ。
雷獣の足元の石が震える。
「何する気だ……」
「分からない」
セレーネが答える。
その声に。
初めて。
迷いがあった。
背筋が冷える。
雷獣が吠えた。
「――――ッ!!」
空が光った。
「散れ!」
走る。
直後。
世界が白く染まった。
「――ッ!」
音がない。
何も聞こえない。
身体が浮いた。
何が起きた。
地面へ叩きつけられる。
「がっ……!」
耳鳴り。
視界。
戻れ。
起きろ。
「セレーネ……!」
見える。
少し離れた場所。
セレーネも倒れている。
動いた。
生きてる。
「シウン!」
立っている。
でも。
遠い。
雷獣は。
どこだ。
バチッ。
音。
近い。
顔を上げる。
「――――」
目の前。
雷獣。
俺を見ていた。
「……やば」
脚に力を入れる。
動かない。
痺れてる。
剣。
握ってる。
でも。
間に合わない。
雷獣が身を沈める。
死ぬ。
頭に浮かんだ。
妙に冷静に。
今度は。
間違いなく。
「朝陽!」
セレーネの声。
雷獣が地面を蹴る。
剣を上げる。
無理でも。
何もしないより――。
「下がっていろ」
声。
黒い髪。
「シウン!?」
目の前へ。
シウンが入った。
「何して――」
「わたしが受ける」
「無理だ!」
雷獣が迫る。
「避けろ!」
「必要ない」
シウンが両腕を上げた。
魔力。
また魔法。
そう思った。
違う。
「……え?」
肌の上に。
黒いものが浮かぶ。
鱗。
一枚。
また一枚。
瞬く間に。
両腕が黒い鱗に覆われた。
雷獣が激突した。
「――――ッ!!」
轟音。
地面が砕けた。
土煙。
石が飛ぶ。
「シウン!」
見えない。
やられた。
あれを真正面から。
無理だ。
人間が受けられる攻撃じゃ――。
風が吹いた。
煙が流れる。
「…………は?」
立っている。
シウンが。
雷獣の爪を。
両腕で受け止めていた。
足元。
地面が抉れている。
それでも。
一歩も。
退いていない。
「この程度か」
シウンが低く言った。
腕を振る。
「――ッ!?」
雷獣の前脚が弾かれた。
「朝陽!」
身体が動いた。
脚の痺れなんて知らない。
立つ。
走る。
シウンが作った隙。
逃すな。
剣を握る。
雷獣の前脚。
俺がさっき斬った場所。
そこへ。
「っ――!」
一閃。
刃が肉へ食い込んだ。
深い。
引き抜く。
血。
雷獣がこちらを向く。
来る。
見える。
肩が動く。
爪。
身体を沈める。
頭上を通る。
懐。
二撃目。
腹。
「はあっ!」
斬る。
離れろ。
「朝陽!」
セレーネ。
横へ跳ぶ。
「《アクアランス》」
水槍。
俺が斬った前脚へ突き刺さる。
雷獣の身体が崩れた。
「《フレイムランス》」
続けて。
炎。
直撃。
爆発。
血と炎。
雷獣が吠える。
それでも。
立つ。
「まだ……!」
化け物だ。
これだけ食らって。
まだ。
雷獣の視線がシウンへ向いた。
自分を真正面から止めた相手。
全身の雷が再び膨れ上がる。
「シウン!」
返事はない。
シウンが前へ出る。
「おい!」
一歩。
もう一歩。
雷獣へ向かって。
歩いていく。
「何する気だ!」
雷獣が吠えた。
最後の突進。
地面が爆ぜる。
シウンは。
逃げない。
魔法も使わない。
腰を落とした。
左腕。
前へ。
右拳。
引く。
「まさか……」
真正面から。
雷獣の爪。
シウンの左腕。
激突。
雷。
鱗の上を走る。
シウンの足元が沈む。
膝が。
少しだけ曲がった。
でも。
それだけ。
「ふっ――!」
左腕を振り上げる。
雷獣の爪が逸れた。
頭が下がる。
無防備な顔面。
そこへ。
シウンが踏み込む。
腰が回る。
右拳。
「はあっ!」
叩き込んだ。
音。
骨。
何かが。
砕けた。
雷獣の巨体が。
浮いた。
「…………」
そのまま。
数メートル。
地面を転がる。
止まった。
雷が。
一度。
明滅する。
二度目。
弱くなる。
三度目は。
なかった。
静寂。
誰も動かない。
俺は剣を握ったまま。
倒れた雷獣を見ていた。
「……死んだ?」
セレーネが雷獣を見る。
「うん」
力が抜けた。
「……っはぁ……」
その場へ座り込みそうになる。
怖かった。
今になって。
手が震え始める。
勝った。
三人で。
でも。
一つ間違っていたら。
死んでた。
「…………」
シウンがこちらへ振り返る。
両腕は。
まだ黒い鱗に覆われていた。
「シウン」
「なんだ?」
「……それ」
「これか?」
自分の腕を見る。
「鱗だな」
「いや、それは分かる」
近づく。
どう見ても防具じゃない。
肌そのものが。
変わっている。
「なんで……人間の腕から鱗が生えるんだよ」
「人間ではないからな」
「…………え?」
シウンは何でもないことのように答えた。
「わたしは龍族だ」
「…………」
頭が。
止まった。
「……龍?」
「ああ」
「龍族?」
「ああ」
「…………龍!?」
山に声が響いた。
「声が大きいぞ」
「いや、大きくなるだろ!」
「なぜだ?」
「龍だぞ!?」
「ああ」
「ああじゃねえよ!」
龍。
魔物とは違う。
この世界にいる種族の一つ。
知識としては知っていた。
でも。
実際に会うなんて。
それも。
昨日から一緒に飯を食って。
温泉街を歩いて。
さっきまで普通に話していた女が。
「本当にいるのかよ……」
「だから、わたしがいるだろう」
「分かってるよ!」
混乱している俺の横で。
セレーネだけが。
何も言わなかった。
「……セレーネ?」
振り返る。
目を見開いていた。
シウンを。
いや。
その鱗を見ている。
「……龍族」
小さな声。
「知ってるの?」
「うん」
「見たことある?」
沈黙。
ほんの少しだけ。
「ある」
「マジで?」
「昔」
「昔っていつ?」
「……昔」
「またそれかよ」
それ以上は答えなかった。
でも。
何かが変だった。
俺みたいに。
龍族そのものに驚いているわけじゃない。
むしろ。
まるで。
今も龍族が存在していることに驚いているような。
「二人とも、どうしたのだ?」
シウンが首を傾げた。
「どうしたって……」
「龍族がそんなに珍しいのか?」
「珍しいだろ」
「そうなのか?」
「そうなのかって……」
「わたしの里には普通にいるぞ」
「そりゃ龍族の里ならいるだろ!」
「そういうものか」
「そういうものだよ!」
シウンは少し考えて。
「はて?」
首を傾げた。
「…………」
なんか。
急に力が抜けた。
「シウン」
「なんだ?」
「お前、さっきまで魔法使ってたよな」
「ああ」
「火と水と風」
「ああ」
「俺、遠くから魔法撃つタイプだと思ったんだけど」
「そうなのか?」
「最後殴ったよな」
「ああ」
「Aランクを」
「ああ」
「拳で」
「ああ」
「……なんなんだよお前」
シウンが少し笑った。
「わたしは、こういう戦い方の方が得意だ」
「先に言えよ……」
「聞かれなかったからな」
「セレーネと同じこと言いやがった……」
横を見る。
セレーネが俺を見ていた。
「何?」
「朝陽」
「ん?」
「剣」
「剣?」
「上手くなったね」
「…………」
一瞬。
聞き間違えたかと思った。
「マジ?」
「うん」
自分の剣を見る。
血がついている。
雷獣の血。
怖かった。
何度も死ぬと思った。
それでも。
逃げなかった。
剣を振れた。
受け流せた。
斬れた。
半年前。
この世界へ来たばかりの俺なら。
絶対にできなかった。
「……そっか」
「でも魔法はまだ雑」
「今それ言う?」
「言う」
「せっかくいい気分だったのに」
そこでようやく。
少しだけ笑えた。
張り詰めていたものが。
やっと。
切れた。
俺はもう一度、倒れた雷獣を見る。
Aランク。
今まで戦ったどの魔物とも違った。
三人だったから勝てた。
セレーネの魔法がなければ。
シウンがいなければ。
俺は。
たぶん死んでいた。
「……強くならないとな」
誰に言うでもなく呟く。
「うん」
セレーネが答えた。
「ああ」
シウンも。
カグラまでは。
まだ遠い。
その道を歩くには。
俺はまだ。
弱い。
でも。
前よりは進んでいる。
一歩ずつ。
確実に。
俺は剣についた血を払い、鞘へ戻した。
そして。
俺とセレーネと。
龍族のシウン。
三人で再び歩き始めた。




