第53話 選んだこと
剣を鞘に戻せないまま、どれくらい立っていたのか分からない。
長かった気もするし、ほんの数秒だった気もする。
足元には、俺が斬った男が倒れている。
少し離れたところでは、セレーネが襲われていた獣族の傷を見ていた。
「……立てる?」
「あ、ああ……なんとか」
返事が聞こえた。
生きている。
さっきまでなら、それだけで安心できたはずだった。
実際、安心している。
助けられた。
間に合った。
なのに、そのすぐ近くには動かなくなった人間がいる。
自分でも、どっちを見ればいいのか分からなかった。
「朝陽」
呼ばれて顔を上げる。
「手伝って」
「あ……うん」
ようやく足が動いた。
血のついた剣をどうすればいいのか迷って、結局そのまま地面へ置く。
それからセレーネの隣にしゃがんだ。
傷は深そうだったが、命に関わるものではないらしい。俺たちが持っていた道具を使って、できる範囲で手当てをする。
いつもなら何でもない作業だった。
布を出す。
傷口を押さえる。
必要なものを渡す。
たったそれだけなのに、何度も手が止まった。
指先に残っている感触が消えない。
剣を振った時の重さ。
刃が入った瞬間。
目が合った時の、あの顔。
「……すまない」
獣族が小さく頭を下げた。
「巻き込んでしまった」
「いや」
反射的に答える。
「俺が勝手に入っただけだから」
「それでも、あんたが来てくれなかったら……」
その先は聞かなくても分かった。
俺は何も返せなかった。
感謝されている。
助けたんだから、たぶん当然なんだと思う。
でも、その言葉を素直に受け取れなかった。
嬉しくないわけじゃない。
ただ。
その言葉を聞くたびに、少し離れた場所に倒れている男が視界に入った。
動けるようになった獣族を街道まで送り、そこで別れた。
何度も礼を言われた。
最後まで、俺はまともな返事ができなかった。
森へ戻る。
倒した男たちがいる。
生きている連中は、まだ意識を失っていた。
そして一人だけ。
もう起きない。
俺は地面に置いた剣を拾った。
血は乾き始めていた。
布を取り出す。
刃に触れる。
手が止まる。
「……拭かないとな」
誰に言うでもなく呟いた。
「錆びるし」
「うん」
「買ったばっかなのにな」
「うん」
「結構、気に入ってたんだけどな」
「……うん」
セレーネは、それしか言わなかった。
布を刃へ当てる。
赤黒くなった血が布へ移る。
一度では落ちない。
もう一度。
それでも残る。
力を入れて擦る。
「……落ちないな」
「朝陽」
「ん?」
「強く擦りすぎ」
見れば、布を握る指が白くなっていた。
力を抜く。
「……ほんとだ」
もう一度、ゆっくり拭いた。
今度は落ちた。
刃は、昨日までと同じ色へ戻っていく。
当たり前だ。
剣は何も変わっていない。
変わったのは俺の方だ。
「……俺さ」
気づけば口を開いていた。
「人、殺した」
「うん」
否定されなかった。
その返事が少しだけ痛かった。
でも、たぶん今はそれでよかった。
「助けようとはしたんだ」
「うん」
「最初から殺そうと思ってたわけじゃない」
「知ってる」
「全員、殺さずに止められると思った」
言いながら、だんだん自分が何をしたいのか分からなくなってくる。
言い訳したいのか。
許してほしいのか。
それとも、ただ聞いてほしいだけなのか。
「でも、間に合わなかった」
あの瞬間を思い出す。
振り下ろされる剣。
倒れていた獣族。
距離。
自分の剣。
考える時間なんて、ほとんどなかった。
「……あれしかなかった」
言った瞬間。
自分で違和感を覚えた。
本当に?
本当に、あれしかなかったのか?
もっと速く動けていたら。
最初から魔法を使っていたら。
あいつを先に倒していたら。
そもそも、戦い方が違っていたら。
考え始めれば、いくらでも出てくる。
「……いや」
首を振る。
「違うな」
セレーネが俺を見る。
「他に何かあったかもしれない」
「……うん」
その返事に、胸が少しだけ苦しくなった。
やっぱり、そうなんだ。
仕方なかった。
俺は悪くない。
そう言ってくれたら、少しは楽だったかもしれない。
でも。
たぶんセレーネは、そう言わない。
しばらく沈黙したあと、彼女が口を開いた。
「他の方法は、あったかもしれない」
「……うん」
「もっと早く気づいてたら。違う場所にいたら。違う魔法を使ってたら」
俺が考えていたことを、そのまま言われる。
「結果を見た後なら、いくらでも考えられる」
「……そうだな」
「でも、あの時は違った」
セレーネが、街道の方を見る。
さっき獣族が歩いていった方向。
「剣を振らなかったら、あの人は死んでた」
俺は何も言えなかった。
「朝陽は、殺したかったから斬ったんじゃない」
「……うん」
「でも、斬ったのは朝陽」
胸の奥が沈む。
やっぱり。
そこだけは消してくれない。
「だから……わたしは、朝陽は悪くないとは言わない」
思わず彼女を見る。
セレーネはいつもと変わらない顔をしていた。
責めているようにも見えない。
慰めようとしているようにも見えない。
ただ俺を見ている。
「正しかったとも、言わない」
「……じゃあ」
声が掠れる。
「俺、どうすればいいんだよ」
「分からない」
即答だった。
「分からないって……」
「わたしが決めることじゃないから」
少しだけ腹が立った。
こんな時くらい、答えをくれてもいいだろと思った。
こっちは何も分からない。
正しかったのか。
間違っていたのか。
どう思えばいいのか。
全部ぐちゃぐちゃなのに。
「でも」
セレーネが続ける。
「朝陽は、選んだ」
その言葉で、何も言えなくなった。
「殺す方を?」
「違う」
セレーネが首を振る。
「あの人を、生かす方」
目を伏せる。
剣を見る。
綺麗になった刃に、自分の顔がぼんやり映っていた。
「……同じじゃないのか」
「同じじゃない」
珍しく、はっきり否定された。
「でも、そのために人を斬った」
「うん」
「それは、なくならない」
「……うん」
「だから、忘れなくていい」
顔を上げる。
「忘れなくていい?」
「うん」
「普通、逆じゃない?」
「知らない」
「知らないって……」
「忘れたら、次も同じように振れる」
その一言に、口を閉じた。
セレーネはそれ以上説明しなかった。
でも、なんとなく分かった。
慣れたくない。
人を斬ることに。
剣を振れば、人が死ぬことに。
仕方なかったという言葉だけで全部を片づけることに。
俺はこの世界に来て、何度も死を見た。
最初は、目の前で人が死んだだけで動けなくなった。
戦いが終わってからも、飯が喉を通らなかった。
それから半年。
魔物に殺された人も見た。
間に合わなかったこともある。
死体を見ても、その場で立ち尽くすことは減った。
そうならなきゃ、生きていけなかった。
でも。
だからって。
自分で殺すことまで、同じにしていいわけじゃない。
「……腹、減ったな」
しばらくして、俺は言った。
「食べる?」
セレーネが荷物へ手を伸ばす。
「……いや」
胃がひっくり返りそうだった。
「今は無理」
「そう」
その返事を聞いて。
少しだけ笑った。
「そこは食えって言わないんだな」
「吐くでしょ」
「たぶん」
「もったいない」
「心配するとこ、そこ?」
「大事」
いつものセレーネだった。
何も解決していない。
胸はまだ重い。
手に残った感触も消えていない。
男の顔だって、目を閉じれば浮かぶ。
それでも。
ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
俺は剣を鞘へ戻した。
さっきまで、どうしてもできなかったことだった。
小さく、金属の擦れる音がする。
それだけで身体が強張った。
たぶん、しばらくはこうなんだと思う。
「行ける?」
セレーネが聞く。
俺はすぐには答えなかった。
立ち上がって。
鞘に収まった剣を見る。
それから、街道の先を見る。
旅に出ると決めたのは俺だ。
知らないものを見たいと思った。
自分で選んで歩きたいと思った。
楽しいことだけじゃないなんて、分かっていたつもりだった。
でも。
たぶん俺は、分かっていなかった。
選ぶっていうのは。
選ばなかったものまで、なくなることじゃない。
「……行こう」
ようやく言えた。
セレーネが頷く。
「うん」
歩き出す。
いつもより、腰の剣が重かった。
たぶん明日も重い。
その次の日も。
それでも。
今は、その重さを忘れたくないと思った。
次回から獣王国ディアナ編に入ります。




