第52話 斬るということ
旅に出てから、何日目だったか。
王都を離れたばかりの頃は、朝起きるたびに地図を広げて、今日はどこへ行こうかと考えていた。
ベルナへ行った。ローネにも寄った。名前も知らなかった景色を見て、知らないものを食べて、気になった場所があれば少しくらい遠回りもした。
そういう旅が、少しずつ当たり前になり始めていた。
だから、その日も同じような一日になると思っていた。
「朝陽」
街道を歩いていたセレーネが、不意に足を止めた。
「ん?」
「……何か聞こえる」
俺も立ち止まり、耳を澄ます。
最初は風に揺れる木々の音しか聞こえなかった。
けれど、少し待つと分かった。
街道から外れた森の奥。
微かに、誰かの声がする。
それから、金属同士がぶつかるような音。
「戦ってる……?」
セレーネが森を見る。
俺も同じ方角へ目を向けた。
誰かが魔物と戦っているだけかもしれない。
冒険者なら珍しい話でもない。
それでも。
「……見に行こう」
「うん」
腰の剣へ手を添え、街道を外れた。
木々の間を進むにつれて、声ははっきりしてきた。
怒鳴り声。
何かが地面へ倒れる音。
息を切らしながら森を抜けた先で、俺は思わず足を止めた。
人間が数人。
全員、武器を持っている。
その中央で、一人の獣族が地面に倒れていた。
服は汚れ、身体の何か所かから血が滲んでいる。
その獣族を囲むように、男たちが立っていた。
魔物じゃない。
冒険者同士の戦いでもない。
一人を、複数人で襲っている。
男の一人が剣を振り上げた。
「おい!」
考えるより先に声が出た。
全員の視線がこちらへ向く。
「……誰だ、てめえ」
知らない。
こいつらが何者なのかも。
どうして襲っているのかも。
何も知らない。
それでも、倒れている獣族と、振り上げられた剣を見れば十分だった。
俺は剣を抜いた。
「その人から離れろ」
男たちが顔を見合わせる。
やがて一人が鼻で笑った。
「ガキが。関係ねえだろ」
「……そうかもな」
確かに関係ない。
今日初めて見た人だ。
名前も知らない。
助けたところで、俺に何か得があるわけでもない。
それでも。
「見ちゃったからな」
剣を構える。
「そのまま行くのは、無理だわ」
背後で小さく息を吐く音がした。
セレーネだった。
「朝陽らしい」
「褒めてる?」
「別に」
「じゃあ後ろ頼む」
「うん」
先に動いたのは相手だった。
正面の男が一気に距離を詰めてくる。
速い。
けど――見える。
上段から振り下ろされた剣を、真正面から受けなかった。
半歩横へ。
身体をずらす。
刃が目の前を通過する。
そのまま相手の懐へ入り、剣を持つ手首へ柄を叩き込んだ。
「ぐっ!」
剣が落ちる。
腹へ蹴りを入れ、男を後ろへ転がした。
「……お?」
思わず自分の足を見る。
動きやすい。
大剣を使っていた頃なら、今の場面では剣で受けていた。
重さを利用して押し返して、そこから次の動きへ繋げる。
ガイウスに教わった戦い方だ。
でも、この剣なら違う。
受けなくていい。
避けて、そのまま入れる。
「やっぱ、こっちの方が――」
横から殺気。
考えるより早く身体が沈んだ。
頭上を刃が通る。
低くなった姿勢から身体を捻り、相手の足を払う。
男が崩れる。
立ち上がるより先に、剣の柄を顎へ叩き込んだ。
「――合ってるな」
倒れた男を見ながら呟く。
妙な感じだった。
初めて使う武器じゃない。
買ってから何度か振っている。
それでも実戦で本格的に使うのは、ほとんど初めてだ。
なのに。
次にどこへ足を置けばいいのか。
どの角度なら剣を返しやすいのか。
どこまで踏み込めば、相手の剣が届かなくなるのか。
考えるより先に身体が分かっている。
――まあ、大剣より軽いんだから当然か。
半年も戦ってきた。
それくらいは身についていてもおかしくない。
そう結論づけて、次を見る。
少し離れた場所で、セレーネが俺を見ていた。
「セレーネ?」
一瞬、返事がなかった。
その目が俺ではなく、もっと遠い何かを見ているように見えた。
けれど、すぐにいつもの顔へ戻る。
「……後ろ」
「え?」
振り向く。
「うおっ!」
咄嗟に身を反らす。
鼻先を剣が掠めた。
「危なっ!」
「油断しすぎ」
「教えてくれたから助かっただろ!」
「わたしがいなかったら死んでた」
「縁起でもないこと言うな!」
踏み込み、相手の剣を横から弾く。
今度は意識して足を動かした。
右へ。
相手が追う。
そこで左へ切り返す。
視線が一瞬遅れる。
その隙に懐へ入り、肩からぶつかった。
男が体勢を崩す。
剣を振れば斬れる。
首でも、胸でも。
今なら簡単に。
だから振らない。
柄で殴る。
男が地面へ倒れた。
「……っ」
息を吐く。
一人。
二人。
三人。
倒した。
全員、生きている。
当然だ。
殺す必要なんてない。
武器を奪って、動けなくすればいい。
それで終わる。
王都にいた半年間。
俺は、人間を殺す依頼を避けてきた。
そういう依頼が全くなかったわけじゃない。
盗賊の討伐。
犯罪者の捕縛。
場合によっては、生死を問わない依頼もあった。
でも、受けなかった。
魔物なら斬れる。
初めは怖かったし、今だって怖い時はある。
それでも斬れる。
だけど人間は。
――別だ。
目の前で人が死ぬところは見た。
初めて見た時は、何もできなかった。
戦っている最中なのに身体が固まって、その後もしばらく飯がまともに喉を通らなかった。
今なら、あの時よりは動ける。
死を見ても、その場で止まらない。
そうならなきゃ、この世界じゃ生きていけなかった。
でも。
見ることと。
自分でやることは違う。
だから俺は、ずっと避けてきた。
「朝陽!」
セレーネの声で思考が切れた。
倒れていたはずの男が起き上がっていた。
俺じゃない。
獣族の方へ向かっている。
「待て!」
走る。
男は俺を見た。
そして、倒れている獣族へ視線を戻す。
剣が上がる。
間に合う。
いや。
――このままじゃ、間に合わない。
頭では分かった。
柄で殴るには遠い。
蹴りも届かない。
魔法。
駄目だ。
狙っている時間がない。
剣なら。
届く。
一歩。
地面を蹴った。
身体が前へ出る。
妙に静かだった。
男の剣が振り下ろされる。
その先には、動けない獣族がいる。
嫌だ。
殺したくない。
もう一歩。
それでも。
――死なせたくない。
剣を振った。
刃が肉へ入る。
今まで何度も味わった感触だった。
魔物を斬った時と。
大きくは変わらないはずなのに。
全然違った。
男の身体が止まる。
目が合った。
近い。
近すぎる。
驚いたような顔をしていた。
口が僅かに開く。
何か言おうとしたのかもしれない。
分からない。
俺が剣を抜くと、男は膝から崩れた。
地面へ倒れる。
動かなくなる。
「……え」
手を見る。
剣を見る。
赤い。
刃から血が落ちている。
一滴。
二滴。
土へ染み込んでいく。
俺が斬った。
理解するまでに、少し時間がかかった。
「……俺が」
声が掠れた。
「朝陽」
セレーネの声がする。
でも、顔を上げられない。
倒れた男を見ていた。
胸が動いていない。
さっきまで喋っていた。
走っていた。
剣を持っていた。
俺を見ていた。
それが。
今は動かない。
俺が止めた。
「……死んだ?」
自分でも馬鹿みたいな言葉だと思った。
見れば分かる。
それでも口から出た。
後ろで、何かが動く音がした。
身体が強張る。
残っていた男が立ち上がろうとしている。
動かなきゃ。
分かっている。
まだ終わっていない。
剣を構えろ。
足を動かせ。
さっきまで出来ていただろ。
なのに。
握った剣の感触が気持ち悪い。
男が武器へ手を伸ばす。
「……っ」
動け。
俺。
次の瞬間、男の横で地面が弾けた。
「うわっ!」
衝撃で男の身体が転がる。
そのまま木へぶつかり、動かなくなった。
セレーネが俺の横を通り過ぎる。
残った男たちを確認し、武器を遠くへ蹴った。
それから、倒れている獣族のところへ向かう。
「……生きてる」
その一言で。
ようやく息が戻った。
「……そっか」
助かった。
あの人は。
生きている。
よかった。
そう思った。
なのに。
すぐ隣には、俺が斬った人間が倒れている。
助かった命と。
失った命が。
同じ場所にある。
何を考えればいいのか、分からなかった。
セレーネが獣族の傷を確認している。
俺も行かなきゃいけない。
手当てをしないと。
まだ何があるか分からない。
倒した連中だって、また起きるかもしれない。
頭では全部分かっている。
それでも、足が動かなかった。
「朝陽」
呼ばれる。
顔を上げる。
セレーネがこちらを見ていた。
何も言わない。
大丈夫とも。
仕方なかったとも。
俺は悪くないとも。
ただ、見ている。
その方が。
今は少しだけ、ありがたかった。
震える手で剣を握り直す。
血が付いている。
拭わなければいけない。
そう思うのに、鞘へ戻すことができなかった。
初めてだった。
この世界に来て。
魔物と戦って。
人が死ぬところを見て。
自分だって一度死んで。
それでも、ずっと越えずにいた線を。
俺は今。
自分の足で、越えた。




