第51話 知らない景色
ローネ村を出てから、しばらくは緩やかな上り坂が続いた。
昨日までの交易街道と違って道幅は狭い。荷馬車とすれ違うこともほとんどなく、両脇に広がっていた畑も、歩くにつれて少しずつ森へ変わっていく。
「こっちで合ってるよな……」
歩きながらガイドブックを開く。
今向かっているのは、ローネ村からそう遠くない場所にある高台だった。
わざわざ寄る理由は一つ。
――景色がいいらしい。
それだけだ。
「朝陽」
「ん?」
「前」
顔を上げると、目の前まで木の枝が迫っていた。
慌てて身体を反らす。
「あっぶな」
「歩きながら読まない方がいい」
「ごもっともです」
ガイドブックを閉じる。
セレーネが俺を見る。
「迷った?」
「迷ってない」
「ほんと?」
「……多分」
「迷ってる」
「多分って言っただけだろ」
「迷ってる人が言う」
「お前、こういう時だけよく喋るな」
返事はなかった。
都合が悪くなるとこれだ。
さらに坂を上っていく。
森の中には獣道のような細い道がいくつか伸びていて、途中で一度、本当にどちらへ進めばいいのか分からなくなった。
結局、ガイドブックと周囲を何度も見比べ、少し戻って別の道を選ぶ。
「……絶対こっち」
「さっきも言ってた」
「今度は根拠がある」
「さっきは?」
「勘」
「迷ってた」
「うるさいな」
そんなやり取りをしながら歩いているうちに、木々の間から差し込む光が少しずつ強くなってきた。
森が途切れる。
その先へ出た瞬間、俺は足を止めた。
「……おお」
思わず声が漏れる。
高台の先には、これまで歩いてきた土地が広がっていた。
遠くに小さく見えるローネ村。
その周囲を囲む畑と牧草地。
さらに向こうにはベルナへ続く道が伸び、荷馬車らしき小さな影がゆっくりと動いている。
もっと遠くには山々が連なっていた。
空が広い。
王都では建物に囲まれ、街道では前ばかり見て歩いていた。
こうして高い場所から眺めると、自分が思っていたよりずっと遠くまで来たことが分かる。
「すげえな」
隣に立ったセレーネも景色を見ていた。
「……うん」
「来て正解だっただろ」
「迷ったけど」
「それはもういいだろ」
近くの岩に腰を下ろす。
別に何かがあるわけじゃない。
店もない。
建物もない。
ただ景色が見えるだけ。
それでも、しばらく立ち去る気にはならなかった。
「王都、あっちかな」
遠くを眺めながら呟く。
さすがにここから見える距離ではない。
それでも、自分たちが歩いてきた方向くらいは分かる。
王都ルイ。
半年暮らした街。
瑞輝たち。
ステラ。
ガイウス。
冒険者ギルド。
いつもの宿。
出てきてから、まだ大して日は経っていない。
それなのに少し懐かしく感じた。
「戻りたい?」
セレーネが聞いた。
「いや」
答えはすぐに出た。
「また帰ることはあると思うけど、今はいいかな」
「そう」
「せっかく出てきたんだし」
俺は反対側へ目を向ける。
当然、ディアナなんて見えない。
地図の上では隣の国でも、実際に歩けばずっと遠い。
その間に何があるのかも、俺はほとんど知らない。
「そっちは知らないものばっかりだからな」
「怖くない?」
「怖いよ」
即答する。
「普通に怖い。魔物もいるし、道に迷うかもしれないし、金なくなるかもしれないし」
「最後は朝陽次第」
「分かってるよ」
セレーネが少し笑う。
「でもさ」
風が吹いた。
「それ以上に、見てみたいんだよな」
王都にいた半年間。
生きることで精一杯だった。
冒険者になったのだって、この世界を見て回りたかったからじゃない。
食っていくためだ。
依頼を受ける。
金を稼ぐ。
宿代を払う。
明日も生きる。
ずっと、その繰り返しだった。
でも今は違う。
行かなければならない場所じゃなくて、行ってみたい場所を選べる。
たったそれだけのことが、なんだか嬉しかった。
「セレーネは?」
「なに?」
「見たい場所とかないの?」
少し考えてから、セレーネが答える。
「いっぱい」
「いっぱい?」
「うん」
意外な答えだった。
「例えば?」
「温泉」
「それ昨日見つけたやつだろ」
「入りたい」
「他は?」
「海」
「へえ」
「雪」
「おお」
「大きい森」
「……結構あるな」
「あと、おいしいもの」
「結局それ入るんじゃねえか」
セレーネが俺を見る。
「大事」
「はいはい」
笑いながらガイドブックを取り出した。
適当にページをめくってみる。
知らない地名。
知らない国。
知らない景色。
全部行くなんて無理かもしれない。
それでも、今までよりずっと世界が広く見えた。
高台を離れた頃には、陽が少し傾き始めていた。
元の道へ戻り、ディアナ方面へ続く街道を目指す。
森を抜けたところで、俺は腰の剣へ手を伸ばした。
王都で買い替えた片手剣。
歩く時も、大剣を背負っていた頃よりずっと楽だ。
軽く柄を握ってみる。
「やっぱこっちの方がいいな」
「だから言った」
「お前が言ったのは、大剣が俺に合ってないってことだろ」
「同じ」
「微妙に違う」
「同じ」
「……もうそれでいいよ」
魔物が出たわけではない。
ただ、王都を離れてからは周囲を見る癖が以前より強くなった。
依頼で決められた場所へ行くのとは違う。
何がいるかも、何が起きるかも分からない。
ガイドブックにも、都市圏から離れれば魔物が普通に出ると書かれている。
観光気分だけで歩ける世界じゃない。
それも分かっている。
だからこそ、楽しむところは楽しんで、警戒するところでは警戒する。
それくらいがちょうどいい。
「今日どうする?」
セレーネが聞く。
「もう一個先まで行くのは厳しいな」
空を見る。
「無理して進む必要もないし、今日はこの辺で休める場所探すか」
「うん」
「明日はまたガイド見て決めよう」
「朝陽が?」
「交代制にしようぜ。今日は俺だったから次はお前」
「分かった」
「食べ物だけで選ぶなよ」
「分からない」
「そこは分かったって言えよ」
夕暮れの街道を二人で歩く。
今日進んだ距離だけなら、大したことはないのかもしれない。
寄り道もした。
道にも迷った。
高台では何もせず、ずいぶん長いこと景色を眺めていた。
効率だけ考えれば、無駄だらけだ。
でも。
「……こういうのでいいんだよな」
「なに?」
「なんでもない」
急ぐ旅じゃない。
ディアナへ着くまでに、何日かかってもいい。
明日は明日で、また行きたい場所を決めればいい。
そうやって少しずつ、この世界を自分の目で見ていく。
俺たちは日が沈みきる前に休めそうな場所を探しながら、街道を先へ進んだ。




