第50話 寄り道
朝。
目を覚まして最初に見えたのは、昨日手に入れた分厚いガイドブックだった。
机の上に開きっぱなしで置かれている。
「……ん?」
寝る前、閉じなかったっけ。
身体を起こして手に取る。
開かれていたのは、ベルナ周辺のページだった。
交易町ベルナ。
その少し先。
小さく記された村の名前に印が付けられている。
――ローネ村。
農業と牧畜を中心とした、小さな村。
周辺では採取や魔物討伐の依頼が発生することも多く、冒険者が立ち寄ることもあるらしい。
「……これ、セレーネだな」
昨夜、明日はどこへ行くかと二人でガイドブックを眺めていた。
結局、俺が眠くなって先に部屋へ戻ったのだが、どうやらあいつはその後も読んでいたらしい。
支度を済ませて一階へ降りると、先に起きていたセレーネが朝食を食べていた。
「おはよ」
「おはよう」
向かいに座る。
俺の分の朝食も頼み、それが運ばれてくるのを待ってからガイドブックを机に置いた。
「これ」
「うん」
「印つけたのお前?」
「うん」
「やっぱり」
「嫌?」
「いや。別に」
むしろ、ちょうどいいと思っていた。
ディアナへ向かうことは決まっている。
その先でユノハナへ寄ることも、昨日決めた。
でも、そこまで一直線に歩く必要はない。
ガイドブックの地図を見る限り、ローネ村は大きく道を外れる場所でもなかった。
「じゃあ今日はここ行くか」
「うん」
「何か見たいものでもある?」
セレーネが少し考える。
「牧場」
「へえ」
意外だった。
てっきり食べ物が目当てだと思っていた。
「動物好きなの?」
「普通」
「じゃあなんで牧場?」
「近くで見たことない」
「ああ……そういうことか」
そういえば、セレーネがどんな生活をしていたのか、俺はほとんど知らない。
本人は記憶がないと言っているし、聞いても答えられない。
だから、何を見たことがあって、何を見たことがないのかも分からない。
「じゃ、決まり」
ガイドブックを閉じる。
「今日はローネ村」
セレーネが頷いた。
ベルナを出たのは、朝食を終えてすぐだった。
昨日まで歩いていた大きな交易街道から途中で道を外れ、少し細い道へ入る。
周囲の景色も徐々に変わっていった。
行き交う荷馬車が減り、代わりに畑が増える。
遠くには放牧されている家畜の姿が見えた。
「昨日と全然違うな」
「静か」
「俺はこっちの方が好きかも」
ベルナは楽しかった。
市場には色んなものが並んでいたし、知らないものを見るたびに足を止めた。
ただ、ずっとあの人混みの中にいるのは疲れる。
王都で半年暮らしたくせに、我ながら田舎者みたいな感想だ。
しばらく歩いていると、セレーネが突然立ち止まった。
「朝陽」
「ん?」
指差した先を見る。
柵の向こう。
草を食べていた家畜の一頭が、こちらを見ていた。
セレーネも見る。
家畜も見る。
「……」
「……」
何やってんだ、こいつら。
「セレーネ」
「なに?」
「行くぞ」
「待って」
「何を?」
「見てる」
「どっちが?」
「両方」
「会話成立してないぞ」
結局、しばらく待たされた。
昼前にはローネ村へ着いた。
ベルナとは比べものにならないほど小さい。
大きな建物もなければ、人通りの多い通りもない。
家と畑。
牧草地。
その間を通る道。
遠くから家畜の鳴き声が聞こえてくる。
「こういうところもあるんだな」
考えてみれば当然のことだ。
王都の人間だって、ベルナの商人だって、何かを食べて生きている。
その食べ物を作っている場所がある。
日本にいた頃なら、そんなことをわざわざ考えもしなかった。
スーパーへ行けば食べ物が並んでいた。
誰が作って、どこから運ばれてきたのかなんて気にしたこともない。
この世界では、歩けばそれが見える。
畑で働いている人。
荷車に野菜を積んでいる人。
家畜の世話をしている人。
ベルナの市場に並んでいたものの中にも、こういう村から運ばれてきたものがあったのかもしれない。
「朝陽」
「ん?」
「牛」
「いるな」
「大きい」
「近づきすぎんなよ」
セレーネが柵の前に立つ。
牛が顔を上げた。
「……」
「……」
また始まった。
「何なんだよ、その謎の見つめ合い」
「かわいい」
「え?」
思わず聞き返した。
セレーネがこっちを見る。
「なに?」
「いや……お前そういうこと言うんだなって」
「言う」
「初めて聞いた気がする」
「今、初めて言ったから」
「そりゃ初めて聞くわ」
思わず笑った。
村を歩いていると、小さな露店を見つけた。
野菜や乳製品が並んでいる。
旅の途中で持ち運べそうなものをいくつか買うことにした。
「これも」
隣からセレーネが何かを差し出してくる。
「何これ」
「チーズ」
「それは見れば分かる」
「食べたい」
「さっき朝飯食っただろ」
「もう昼」
空を見る。
確かに。
「……お前、時間だけは正確だな」
「大事」
「食事の時間だけな」
買ったチーズとパンを持って、村の外れにある木陰へ移動した。
腰を下ろして昼食にする。
特別な料理でもない。
パンにチーズを挟んだだけ。
それなのに、妙にうまかった。
「うまいな」
「うん」
「昨日の市場も良かったけど、こういうのもいいな」
セレーネが頷く。
風が吹く。
遠くで家畜の鳴き声がする。
畑の向こうを、荷車がゆっくり進んでいる。
何も起きていない。
本当に、何も。
なのに退屈ではなかった。
食べ終えてから、俺はガイドブックを取り出した。
「次どうする?」
セレーネが横から覗き込む。
地図の上で、今いるローネ村を指で押さえる。
「俺たちはここ」
そこから道を辿る。
ディアナはまだ遠い。
途中にはいくつもの道があり、小さな集落もある。
全部に寄っていたら、いつまで経っても着かないだろう。
でも、気になるところだけ寄る。
それくらいならいい。
「これ、やっぱ便利だな」
ページをめくる。
ただ道が載っているだけじゃない。
街道の特徴。
周辺に出る魔物。
土地ごとの注意点。
町や村の特色。
旅をする人間が欲しい情報が、一冊にまとめられている。
「誰が作ったんだろ」
何となく最初のページへ戻ってみる。
隅の方に、編纂者らしい二人の名前が書かれていた。
――ウシオ・ゴウキ。
――トリイ・アカネ。
「二人で作ってんのか」
「みたい」
それだけ確認して、次のページを開く。
「で、問題はこっちだな」
「どこ行く?」
「うーん……」
地図を指でなぞっていく。
ディアナへ向かう道から大きく外れないこと。
できれば今日中に辿り着けること。
それから――せっかくなら、何か見てみたいものがあること。
「昨日はお前がローネ選んだし、次は俺な」
「うん」
「食べ物だけで決める旅にはさせないからな」
「わたし、牧場選んだ」
「……そうだった」
「朝陽よりちゃんとしてる」
「なんか腹立つな」
セレーネがほんの少しだけ笑う。
俺はもう一度、ガイドブックへ目を落とした。
午後。
ローネ村を出る。
次の目的地は、俺が選んだ。
ガイドブックに載っていた、景色の良さそうな場所。
進む方向もほとんど変わらない。
名前だけ見ていた地名に、自分たちの足で向かっていく。
それだけなのに、昨日までとは少し違って感じた。
王都にいた頃。
俺は冒険者だった。
依頼を受けて、目的地へ行って、魔物を倒して帰る。
移動は、そのために必要な時間だった。
でも今は違う。
気になるから行く。
見たいから寄る。
食べたいから立ち止まる。
疲れたら休む。
予定だって、その日の気分で変わる。
「なあ、セレーネ」
「なに?」
「俺さ」
歩きながら、前を見る。
「こういうの、結構好きかも」
「なにが?」
「旅」
少し間が空いた。
「……わたしも」
それだけだった。
でも、なんとなく嬉しかった。
道はまだ先まで続いている。
ディアナは遠い。
ユノハナだって、まだずっと先だ。
だけど、急ぐ理由もない。
次の場所へ行って。
そこでまた、次を決める。
俺たちはローネ村を背にして、ゆっくりと街道を歩いていった。




