第49話 世界の歩き方
交易町ベルナ。
王都ルイを出てから丸一日歩き、ようやく辿り着いた最初の目的地。
町へ入って真っ先に感じたのは、王都とはまるで違う匂いだった。
香辛料。焼いた肉。果物。それに、荷馬車が巻き上げる土埃。
大通りの両側には店が並び、その前を荷物を抱えた商人や旅人が絶え間なく行き交っている。建物の高さも道の広さも王都には敵わない。それなのに、人と物が動いているという一点では負けていない。
むしろ、こっちの方が騒がしいくらいだった。
「……すげえな」
町の入口で立ち止まった俺の横を、大量の木箱を積んだ荷馬車が通り過ぎていく。
箱の側面には知らない文字と絵。
何が入っているのかは分からない。
その後ろから来た別の荷車には色とりどりの果物が積まれていた。
さらにその向こうでは、露店の店主が大声で客を呼び込んでいる。
「王都と全然違う」
「人、多い」
「ベルナも十分多いけどな」
「ルイより近い」
「近い?」
「人と人が」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
王都ルイはとにかく広かった。
大通りも建物も何もかも大きく、人が多くても散らばっている。
ベルナは逆だ。
町そのものが小さい分、人も荷馬車も店もぎゅっと詰め込まれている。
だから余計に賑やかに見える。
「とりあえず宿探すか」
「ご飯は?」
「宿取ってから」
「お腹空いた」
「俺も空いてるよ。だから荷物置いてからゆっくり食おうって」
セレーネが少しだけ不満そうな顔をする。
「店、いっぱいある」
「逃げないから」
「売り切れるかも」
「何を食うつもりなんだよ」
「まだ分からない」
「じゃあ大丈夫だろ」
どうにか食欲を抑えさせ、まずは宿を探すことにした。
旅人の多い町だけあって、宿を見つけるのには苦労しなかった。
王都で使っていた宿より小さく、部屋も簡素だったが、一晩寝るだけなら十分だ。
荷物を置いて外へ出る。
「さて」
「ご飯」
「待て」
歩き出そうとするセレーネの肩を掴む。
「先に行きたいところがある」
「……ご飯じゃない?」
「違う」
「じゃあ後でいい」
「よくない。閉まったら困るだろ」
宿の主人に聞いたところ、この町には旅人や商人向けの案内を扱う場所があるらしい。
町の中心部。
市場から少し離れたところに建つ、ベルナの役場。
王都にいた頃の俺なら、わざわざそんな場所へ行こうとは思わなかった。
でも今は違う。
俺たちはこれから、この世界を旅する。
なら、知らない場所へ行くための情報は多い方がいい。
「すぐ終わるから」
「……分かった」
「そんな露骨に残念そうな顔すんなよ」
役場の中は思っていたより混んでいた。
住民だけでなく、商人や旅人らしい人間もいる。
交易町だからだろう。
掲示板には街道の情報や注意書きが並び、壁には周辺地域の地図まで貼られていた。
「こういうところにも地図あるんだな」
王都にいた頃は、必要な情報のほとんどを冒険者ギルドで集めていた。
依頼を受ける。
魔物について聞く。
危険な場所を教えてもらう。
でも、旅人が知りたいのはそれだけじゃない。
どこに町があるのか。
何が有名なのか。
どこへ行けば宿があるのか。
どの道を使えば次の地方へ抜けられるのか。
そんな情報も必要になる。
窓口で、これからディアナ方面へ旅をすることを伝える。
すると出てきたのは、一冊の分厚い冊子だった。
「……これ?」
受け取ってみる。
思ったより重い。
表紙を開くと、最初に大きな地図が載っていた。
「セレーネ、見てみろよ」
横から覗き込んでくる。
「世界地図?」
「みたいだな」
王都で見たものよりずっと細かい。
国。
都市。
村。
主要な街道。
交易路。
山や森。
さらにページをめくると、それぞれの土地について簡単な説明まで載っている。
有名な場所。
特産品。
料理。
酒。
工芸品。
周辺に出る魔物。
危険な地域。
旅人が気をつけるべきこと。
国によっては、その土地での最低限の作法まで書かれていた。
「……すげえ」
思わず声が出た。
「これ一冊あれば、行く場所めちゃくちゃ増えるじゃん」
地図を見るだけなら、目的地までの道しか分からない。
でも、これは違う。
道の途中に何があるのかまで分かる。
試しに、今いるベルナのページを探してみる。
「あった」
交易町ベルナ。
王都と地方を結ぶ交易の中継地点。
各地から荷物が集まり、日によって市場に並ぶ品が大きく変わる。
旅人や商人の往来が多く、地方へ向かう者が情報を集める場所としても利用する。
「市場」
セレーネが言った。
「そこだけ読むな」
「食べ物いっぱいある?」
「多分な」
「行こう」
「待てって。せっかく貰ったんだからもうちょっと見ようぜ」
ページをめくる。
ベルナだけじゃない。
俺が半年を過ごしたバルカン王国にも、知らない町や村がいくつも載っている。
少し離れたところには、ローネ村という名前もあった。
農牧業を中心とした小さな村。
「こういうところもあるんだな……」
王都にいた頃。
俺にとって世界は、ほとんど王都とその周辺だけだった。
依頼で外へ出ても、目的の魔物を倒したら戻る。
遠くに道が続いていても、その先に何があるかなんて考えたこともなかった。
今、手の中にある冊子には、その先が載っている。
ページをめくるたびに知らない名前が出てくる。
知らない町。
知らない景色。
知らない食べ物。
「これ、面白いな」
「うん」
珍しくセレーネも食べ物以外のページを眺めていた。
「ディアナ見ようぜ」
「うん」
二人で冊子を覗き込みながらページを探す。
やがて、バルカンとは明らかに雰囲気の違う地域が出てきた。
獣王国ディアナ。
王都カグラ。
見たことのない町の名前。
文化も、食事も、建物も違う。
文字で読んでいるだけなのに、本当に別の国へ向かっているんだという実感が少しずつ湧いてくる。
そして。
「……温泉?」
ある項目で指が止まった。
セレーネも同じところを見ている。
「ユノハナ」
国境を越えた先。
ディアナにある温泉街。
旅人が身体を休める場所として知られ、温泉だけでなく食事や土産物を目当てに訪れる人間も多いらしい。
「温泉街って……」
日本にいた頃の景色が頭に浮かぶ。
旅館。
湯気。
温泉。
土産屋。
食べ歩き。
まさか異世界でそんな単語を見ることになるとは思わなかった。
「行きたい」
隣から即答が飛んできた。
「まだ何も言ってないけど」
「行きたい」
「温泉入りたいの?」
「食べ物もある」
「やっぱそっちかよ」
でも。
俺も少し行ってみたい。
というか、かなり行ってみたい。
異世界の温泉街。
日本と似ているのか。
全然違うのか。
考えただけで気になってくる。
「じゃあ……ディアナ入ったら、ここ目指すか」
「うん」
「決まりだな」
目的地が一つ増えた。
ただディアナへ行く。
昨日までは、それだけだった。
今は違う。
まずベルナを見て。
そこから街道を進んで。
国境を越えたらユノハナへ行く。
その先だって、この冊子を見ればいくらでも候補が出てくる。
「なんかさ」
「なに?」
「こうやって決めるんだな」
「なにを?」
「旅する場所」
俺は冊子を閉じた。
最初から全部決めておく必要なんてない。
次の目的地だけ決めて、そこへ行く。
そこで何かを見つけたら、また次を決める。
「……いいな、これ」
「うん」
「よし。今度こそ飯行くか」
セレーネが立ち上がる。
速い。
「切り替え早すぎだろ」
「市場」
「はいはい」
冊子を荷物へしまい、役場を出る。
夕方の市場は、昼間とはまた違った賑わいを見せていた。
仕事を終えた人間が増え、店先では残った商品を売り切ろうと声が飛び交っている。
肉を焼く匂い。
煮込み料理の湯気。
山積みにされた野菜や果物。
見たことのない形の瓶。
どこか遠くから運ばれてきたらしい布や細工物。
「……何食う?」
セレーネに聞いた。
返事がない。
「セレーネ?」
見ると、少し先の屋台をじっと見ていた。
「おい」
「呼んでる」
「店の人が?」
「甘い匂いが」
「匂いかよ」
そのまま吸い寄せられていく。
慌てて追いかける。
「飯が先だからな」
「これもご飯」
「絶対違うだろ」
「食べられる」
「その理屈なら全部飯だよ」
結局、屋台で買ったものを半分ずつ食べた。
名前は聞いたけど、聞き慣れなくて一度では覚えられなかった。
ただ、焼いた生地の中に果物を煮たものが入っていて、思っていたよりうまかった。
「もう一個」
「飯食えなくなるぞ」
「食べられる」
「その自信どっから来るんだよ」
それから市場を歩いた。
知らないものを見つけては立ち止まり。
店の人に聞いて。
時々買って。
失敗もした。
見た目がうまそうだった飲み物を買ったら、思いっきり酒だった。
一口飲んだ瞬間に咳き込んだ俺を見て、セレーネが珍しく笑った。
「笑うな」
「弱い」
「知らなかったんだよ!」
「顔赤い」
「一口しか飲んでねえよ!」
「弱い」
「二回言うな!」
王都を出て。
一日歩いて。
知らない町に着いた。
そこで知らないものを食べて。
知らないものを見て。
明日から先のことを、ガイドブックを眺めながら考える。
別に何か大事件が起きたわけじゃない。
強い魔物と戦ったわけでもない。
世界の秘密を一つ知ったわけでもない。
それでも。
宿へ戻る頃には、朝より少しだけ、この旅が楽しみになっていた。
部屋へ戻り、ベッドに腰掛ける。
買ったばかりの冊子をもう一度開いた。
机を挟んだ向こう側から、セレーネも覗き込んでいる。
「明日はどうする?」
俺は聞いた。
「朝陽が決める?」
「いや」
冊子を真ん中へ押し出す。
「二人で決めようぜ」
セレーネがページへ視線を落とす。
少しして、その指がある場所で止まった。
「ここ」
「……また食べ物じゃないだろうな?」
「景色もいいって書いてある」
「『も』って言ったな今」
「気のせい」
「絶対なんか食い物載ってるだろ」
ページを奪うように覗き込む。
セレーネが押さえる。
「見せろって」
「やだ」
「なんでだよ!」
小さな宿の一室で、二人で一冊のガイドブックを取り合う。
この先に何が待っているのか。
俺はまだ何も知らない。
でも。
知らないからこそ、行ってみたいと思った。
明日は今日とは違う場所へ。
その次は、もっと遠くへ。
そうやって少しずつ。
俺たちは、この世界を歩いていく。




