第4話 知らない国
人がいる。
その事実だけで、こんなに安心するとは思わなかった。
「…………」
森の出口に立ったまま、俺はしばらく村を眺めていた。
畑。
石垣。
小川。
ゆっくりと回る水車。
土の道を歩く人たち。
何軒も並んだ石と木造りの家。
そして、その間を進んでいく荷馬車。
「……馬車だよな、あれ」
何度見ても車じゃない。
本物の馬が荷台を引いている。
映画やテレビでなら見たことがある。
でも実際に走っているところを見るのは初めてだった。
「…………」
とにかく行こう。
ここで眺めていても何も分からない。
人がいるなら聞けばいい。
俺は森を出て、村へ向かって歩き始めた。
◇
近づけば近づくほど、違和感は大きくなった。
「……マジか」
舗装された道路がない。
電柱もない。
信号もない。
コンビニも、自販機も、看板らしい看板も見当たらない。
建物も俺の知っている日本の住宅とはまるで違う。
石を積み上げた壁。
木の扉。
傾斜のついた屋根。
窓も大きなガラス一枚ではなく、小さなものが多い。
畑では何人かが作業していた。
その服装も変わっている。
シャツ。
ズボン。
スカート。
形そのものは分かる。
でも、俺が普段街で見るような服とは明らかに違う。
「……テーマパーク?」
思わず呟く。
それなら説明できなくもない。
昔のヨーロッパを再現した施設。
そういう場所。
でも――。
「こんな山奥に?」
しかも俺は、どうやってここまで来た。
「…………」
駄目だ。
また同じところをぐるぐる回ってる。
人に聞こう。
それで終わる。
俺は村へ続く道を歩いた。
そこで。
「あら?」
「……!」
声をかけられた。
心臓が跳ねる。
畑のそばにいた女性が、こちらを見ていた。
四十代くらいだろうか。
手には籠を持っている。
その中には、採ったばかりらしい野菜が入っていた。
「…………」
人。
本物の人だ。
当たり前なのに、それだけで泣きそうになる。
「どうしたの、あなた?」
「え?」
普通に。
言葉が分かった。
「…………」
「大丈夫?」
「あ……はい」
慌てて答える。
「大丈夫、です」
声が出た。
通じた。
女性が不思議そうに俺を見る。
「ずいぶん汚れてるけど……旅の人?」
「えっと……」
旅。
なのか?
「……たぶん、違います」
「たぶん?」
「あ、いや……」
まずい。
自分でも何を言ってるのか分からない。
「すみません。ちょっと聞きたいんですけど」
「ええ」
「ここって……どこですか?」
「どこって?」
案の定、変な顔をされた。
そりゃそうだ。
いきなり現れて「ここはどこですか」なんて聞く奴、普通じゃない。
「その……地名というか」
「アルヴェンよ」
「アルヴェン……」
知らない。
一度も聞いたことがない。
「村の名前ですか?」
「そうよ。アルヴェン村」
「…………」
頭の中で検索する。
アルヴェン。
アルヴェン村。
聞き覚えはない。
少なくとも、日本の地名としては。
「県は……?」
「ケン?」
「……あ」
通じていない。
「いや、何でもないです」
嫌な予感がした。
聞き方を変える。
「ここって、日本……ですよね?」
「ニホン?」
「…………」
女性は首を傾げた。
その反応だけで、背中が冷たくなった。
「あの……日本です。国の名前なんですけど」
「ごめんなさい。聞いたことないわねえ」
「…………」
嘘だろ。
知らない?
日本を?
「じゃあ……」
喉が鳴る。
「ここは、何ていう国なんですか?」
女性はますます不思議そうな顔をした。
「バルカン王国だけど」
「…………」
バルカン。
王国。
どちらの言葉も意味は分かる。
でも。
俺が知っている国の名前じゃない。
「バルカン……王国」
「本当に大丈夫?」
「…………」
「顔色悪いわよ?」
「あ……すみません」
頭が追いつかない。
日本じゃない。
知らない国。
王国。
「……外国?」
「え?」
「いや……」
外国だとしてもおかしい。
日本を知らないなんてことがあるか?
それに。
俺は駅にいた。
パスポートすら持っていない。
なのに外国?
どうやって?
「…………」
駄目だ。
気持ち悪くなってきた。
「ちょっと、座る?」
「大丈夫です」
反射的に答えてしまう。
全然大丈夫じゃない。
「本当に?」
「……たぶん」
「また、たぶんね」
女性が少し笑った。
「…………」
その笑い方が普通だった。
それだけで、少し落ち着いた。
場所はおかしい。
状況もおかしい。
でも目の前にいる人は普通の人だ。
話も通じる。
いきなり襲われたりもしない。
「とりあえず村に入ったら? そんなところに立ってても仕方ないでしょう」
「……はい」
その通りだった。
「ありがとうございます」
「宿を探してるなら、道を真っ直ぐ行けば分かるわよ」
「宿……」
そうか。
泊まる場所。
必要だ。
もう日が落ち始めている。
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げ、歩き出そうとして――。
「あ」
止まる。
「どうしたの?」
「…………」
宿。
金。
俺はポケットから財布を出した。
中を見る。
千円札。
硬貨。
見慣れた日本円。
「…………これ」
使えるのか?
いや。
使えるわけがない。
ここが本当に知らない国なら。
「……終わった」
「え?」
「何でもないです……」
今日何度目か分からない絶望だった。
◇
村へ入る。
「…………」
近くで見ると、ますます日本ではなかった。
土の道を子供たちが走っている。
軒先では女性たちが話している。
荷物を運ぶ男。
畑から帰ってくる人。
荷馬車。
家畜。
パンらしきものを並べている店。
どこからか、焼いた肉の匂いもする。
「…………」
腹が鳴った。
「今それどころじゃないだろ……」
でも腹は減る。
朝から何も食べていないわけではない。
それでも森の中を散々歩いたせいで、かなり空腹だった。
通り沿いの店を見る。
丸いパン。
チーズらしきもの。
果物。
「うまそう……」
問題は金だ。
財布から百円玉を取り出す。
「…………」
これを持って店に行っても、たぶん駄目だ。
知らない国。
知らない通貨。
スマホ。
財布。
学生証。
日本円。
俺が持っているのはそれだけ。
「制服も……売れないよな」
さすがに着るものがなくなる。
「スマホ……」
取り出す。
黒い画面に、自分の汚れた顔が映った。
「…………」
これは最後だ。
今はまだ手放したくない。
ライトも使える。
時計もある。
方角も分かる。
何より。
これだけが、今の俺と日本を繋いでいる。
「……まだいい」
ポケットへ戻した。
まずは情報だ。
宿が無理でも、事情を話せば何とかなるかもしれない。
村の中を進む。
何人かとすれ違った。
そのたびに視線を感じる。
「……そりゃ見るよな」
制服。
この場所では明らかに浮いている。
泥だらけだし。
髪もぐちゃぐちゃ。
森から出てきた怪しい奴。
自分でもそう思う。
少し歩くと、小さな広場に出た。
何軒かの店が並んでいる。
人も多い。
「市場……?」
野菜。
果物。
肉。
布。
日用品。
色々なものが並んでいる。
「…………」
知らないものも多い。
見たことのない形の果物。
妙に大きな野菜。
それでも、人々が普通に買い物をしている光景そのものは日本と変わらなかった。
店の人が客を呼ぶ。
値段を交渉する。
子供が母親に何かをねだっている。
男たちが笑っている。
「……普通なんだな」
変な感想だった。
場所は全然普通じゃない。
なのに、そこで暮らしている人たちは普通だった。
生活している。
俺が知らないだけで。
ここには、ここの日常がある。
「…………」
少しだけ怖さが薄れた。
◇
教えてもらった宿はすぐに見つかった。
木製の看板が下がっている。
文字も書かれている。
宿。
そう書かれていることが、自然に分かった。
「…………」
一瞬だけ引っかかった。
見たことがあるような。
ないような。
でも、読める。
「……まあいいか」
今はそれどころじゃない。
扉を開ける。
カラン。
小さな音が鳴った。
「いらっしゃい」
中にいた男がこちらを見る。
五十代くらい。
がっしりした体格。
「泊まりか?」
「あ……はい」
「一人?」
「一人です」
「一泊でいいのか?」
「…………」
そこだ。
「その前に、一つ聞いていいですか?」
「なんだ?」
俺は財布から硬貨を一枚出した。
「これ……使えます?」
「なんだ、それ」
「ですよね……」
終わった。
「どこの金だ?」
「日本です」
「ニホン?」
「……知らないですよね」
「聞いたことねえな」
「ですよね……」
今日二回目。
もう驚かなくなってきた。
いや。
驚いている。
ただ、驚きすぎて疲れてきた。
「金がないのか?」
「こっちで使える金は……ないです」
「…………」
男が俺を見る。
服。
顔。
足元。
「お前、どっから来た?」
「それが……俺にも分からなくて」
「は?」
「森の中で目が覚めたんです」
「森?」
「かなり大きい森です。古い遺跡みたいな場所があって」
男の表情が変わった。
「どっちだ?」
「え?」
「どっちの森から来た?」
「えっと……」
方向を説明する。
男が黙った。
「…………」
「何ですか?」
「お前、一人で来たのか?」
「はい」
「護衛は?」
「いません」
「武器は?」
「……これ」
持っていた枝を見る。
「…………」
男も枝を見る。
「…………」
俺も枝を見る。
「……拾いました」
「そうか」
なんとも言えない顔をされた。
恥ずかしい。
「何なんですか?」
「いや……」
男が頭を掻く。
「お前が言ってんのが本当にあっちの森なら、よく生きて出てきたなと思ってな」
「……そんな危ないんですか?」
「危ないも何も、普通は近づかねえよ」
「…………」
「魔物もいる」
「…………は?」
今。
知らない単語が出た。
いや。
単語そのものは知っている。
意味も知っている。
だからこそ。
「……魔物?」
「ああ」
「魔物って……」
聞き返す。
「モンスター?」
「もん……何だ?」
「あ、いや」
待て。
待ってくれ。
「その……動物じゃなくて?」
「魔物は魔物だろ」
「…………」
頭の中で何かが止まった。
「本当に見てねえのか?」
「見たのは……変な動物くらいで」
「運が良かったな」
「…………」
運。
良かった?
「いやいやいや……」
声が漏れる。
「魔物って、本当にいるんですか?」
「何言ってんだ、お前」
男が怪訝な顔をする。
その反応。
冗談を言っている顔じゃない。
この人にとっては。
魔物がいることが、当たり前。
「…………」
俺は椅子に座った。
「おい、大丈夫か?」
「ちょっと待ってください……」
整理する。
知らない村。
アルヴェン。
知らない国。
バルカン王国。
日本を知らない人たち。
馬車。
見たことのない植物。
見たことのない動物。
そして。
魔物。
「…………」
まさか。
そんなわけない。
そんなこと。
あるわけが――。
「……魔法とか」
口から出た。
「ん?」
「魔法とかも……あったりします?」
「そりゃあるだろ」
「…………」
即答だった。
「…………マジか」
頭を抱える。
「お前、本当に何者なんだ?」
「俺が聞きたいです……」
心の底からそう思った。
◇
結局。
宿の主人には、事情を説明した。
説明したと言っても、俺自身が何も分かっていない。
駅にいた。
気がついたら遺跡にいた。
森を歩いた。
ここへ来た。
日本という国から来た。
それだけ。
当然、駅だの日本だのは通じなかった。
「記憶でも飛んでんじゃねえか?」
「いや、日本のことは覚えてます」
「でもその日本って国を俺は知らん」
「……そうなんですよね」
世界地図が欲しい。
そう思った。
「ここって……」
聞く。
「バルカン王国なんですよね?」
「ああ」
「王様がいるんですか?」
「いるに決まってんだろ」
「……王国だもんな」
何を聞いているんだ俺は。
「王都は?」
「ルイだ」
「ルイ……」
また知らない名前。
「ここから遠いですか?」
「歩きならそれなりにな」
「…………」
知らない。
全部知らない。
なのに、この人にとっては全部常識だ。
「魔法があって」
「ああ」
「魔物がいて」
「ああ」
「王様がいて」
「ああ」
「…………」
「なんだよ」
「いや……」
笑えてきた。
何がおかしいのか自分でも分からない。
「本当に異世界みたいだなって……」
「イセカイ?」
「こっちの話です」
そう言った瞬間。
自分で口にした言葉が、頭の中に残った。
異世界。
「…………」
漫画。
アニメ。
小説。
知らない世界に飛ばされる話なんて、いくらでも見たことがある。
魔法。
魔物。
王国。
剣。
馬車。
俺が今見ているものは、あまりにもそれに似ている。
「いや……」
そんなわけない。
そう否定したい。
でも。
じゃあ、これは何なんだ。
「…………」
答えがない。
◇
「ほら」
「え?」
目の前に何かが置かれた。
パン。
それから、温かいスープ。
「…………」
「食え」
「いや、でも俺、金……」
「その顔で腹減ってませんは通らんぞ」
「…………」
腹が鳴った。
最悪のタイミングだった。
「……すみません」
「今日はいい」
「でも」
「働いて返せ」
「……え?」
「明日の朝、薪運び手伝え。それで飯代くらいにはしてやる」
「…………」
思わず主人を見る。
「いいんですか?」
「いいも何も、お前このまま放り出したらどっかで倒れるだろ」
「……ありがとうございます」
頭を下げる。
「宿代まではタダにせんぞ」
「あ、はい」
「寝床が欲しけりゃ、その分はまた働け」
「働きます」
即答した。
野宿だけは嫌だ。
「何でもやります」
「何でもは軽々しく言うな」
「……はい」
主人が笑った。
「変な奴だな、お前」
「自分でもそう思います……」
パンを手に取る。
一口。
「…………」
うまい。
少し硬い。
でも、うまい。
スープも飲む。
温かい。
「…………」
それだけで、身体から力が抜けた。
今日一日。
何が起きているのか分からなかった。
駅にいた。
森にいた。
遺跡から出た。
知らない村へ来た。
知らない国の名前を聞いた。
魔物がいると言われた。
魔法まであるらしい。
「…………」
夢。
まだその可能性を考えている。
長すぎるけど。
あまりにも現実的すぎるけど。
夢なら。
目を覚ませば。
またいつもの朝が来る。
学校へ行って。
瑞輝が馬鹿なことを言って。
京介が呆れて。
麗奈が笑って。
瑠奈が――。
「…………」
パンを持つ手が止まった。
「どうした?」
「……何でもないです」
食べる。
今は。
食べよう。
考えるのはそのあとだ。
◇
その夜。
俺は宿の隅に用意してもらった簡素な寝床に横になっていた。
天井を見る。
「…………」
スマホを取り出す。
圏外。
当たり前。
画面を操作する。
写真。
連絡先。
メッセージ。
全部残っている。
「……瑞輝」
電話をかけてみる。
繋がらない。
「京介」
同じ。
「麗奈」
同じ。
「…………」
最後。
瑠奈。
押す。
やっぱり繋がらない。
「……だよな」
分かっていた。
でも。
試さずにはいられなかった。
画面を消す。
暗くなったスマホを胸の上に置く。
「…………」
日本。
バルカン王国。
アルヴェン村。
王都ルイ。
魔物。
魔法。
異世界。
頭の中で、今日聞いた言葉がぐるぐる回る。
「……マジで異世界だったらどうすんだよ」
帰れるのか。
そもそも、どうやって来た。
なんで俺なんだ。
「…………」
分からない。
今日だけで、分からないことが増えすぎた。
それでも。
少なくとも。
森の中ではない。
屋根がある。
食事もできた。
人もいる。
明日になれば、もっと話を聞ける。
「……一個ずつだな」
今日、何度目か分からない言葉を呟く。
目を閉じる。
疲れていた。
身体も。
頭も。
すぐに眠気がやってくる。
眠る直前。
最後に浮かんだのは。
魔法でも。
魔物でも。
知らない国でもなかった。
「……みんな、どうしてるかな」
返事はない。
俺はスマホを握ったまま、
知らない世界で迎える最初の夜に、
静かに目を閉じた。




