第31話 知らない世界
来た時は一人だった階段を、今は二人で上っている。
前を歩くのは俺。
その少し後ろを、セレーネがついてくる。
足音が一つ増えただけなのに、さっきまでとは地下の雰囲気がまるで違って感じた。
「足元、気をつけて」
「……平気」
短い。
さっきからずっとこんな調子だ。
名前はセレーネ。
それ以外は、ほとんど分からない。
自分がどうして地下にいたのか。
どうして石みたいになっていたのか。
俺のことを知っているのか。
何を聞いても、返ってくる答えは「分からない」か「知らない」。
最初は目を覚ましたばかりで混乱しているんだと思っていた。
いや、たぶん実際混乱しているんだろう。
石の中から出てきて、いきなり質問攻めにされたら俺だって困る。
それは分かる。
分かるんだけど。
「……」
振り返る。
セレーネと目が合った。
「なに」
「いや」
俺は前を向いた。
やっぱり妙だ。
俺より落ち着いてないか、この人。
半年前の俺なんて酷いものだった。
目が覚めたら知らない遺跡。
外に出たら知らない森。
知らない文字。
知らない人。
何を見ても驚いていたし、ずっと頭の中で「ここどこだよ」を繰り返していた。
それに比べてセレーネは、さっき石から出てきたばかりだというのに妙に静かだった。
性格なのかもしれない。
俺が騒ぎすぎだっただけかもしれない。
「……まあ、人それぞれか」
「?」
「なんでもない」
また独り言が出た。
一人旅が長かったせいで癖になっている。
少し恥ずかしい。
階段を上り切り、地下へ続く入口から出る。
そこでセレーネが足を止めた。
「どうした?」
返事がない。
俺も立ち止まり、彼女を見る。
セレーネは遺跡の中を見ていた。
崩れた壁。
割れた床。
ところどころから差し込んでくる外の光。
何か珍しいものを見るというより、確かめるようにゆっくり視線を動かしている。
「……セレーネ?」
「なに」
「いや、急に止まったから」
「……別に」
そう言って歩き出した。
別に、か。
分かりやすいような、分かりにくいような。
俺は地下へ続く階段を振り返った。
ここへ来た目的は、自分について調べることだった。
結局、自分のことは何一つ分かっていない。
文字も読めなかった。
資料らしいものも見つからなかった。
見つけたのは、人だった。
それも、俺の名前を知っているかもしれない人。
だったら、何も得られなかったわけじゃない。
むしろ、とんでもないものを見つけた気がする。
「……帰るか」
「どこに?」
初めてセレーネの方から質問された。
「王都。俺が今住んでるところ」
「王都……」
「ルイっていうんだけど」
セレーネの足が、ほんの少しだけ止まった。
本当に少しだった。
俺が気づいた時には、もう普通に歩いている。
「ルイ?」
「そう。バルカン王国の王都」
「……ふうん」
興味があるのかないのか分からない返事だった。
「とりあえずここにいても仕方ないし、一緒に来る?」
言ってから、変な聞き方だったと思った。
行く場所が分からない人に「一緒に来る?」も何もない。
でも勝手に連れていくのも違う気がする。
セレーネは俺を見た。
少しの間。
何か考えているようだった。
「……行く」
「分かった」
それだけで決まった。
もっと警戒されるかと思っていたから、逆に拍子抜けする。
「俺のこと信用して大丈夫?」
思わず聞いてしまった。
セレーネが俺を見る。
「自分で言うの?」
「いや、だって俺、セレーネからしたら知らない男だろ」
「……そうね」
「そこは否定してくれないんだ」
「事実でしょ」
「まあ、そうだけど」
やっぱり短い。
でも、さっきより少しだけ話せるようになった気がする。
俺たちは遺跡の出口へ向かった。
外から差し込む光が近づいてくる。
半年ぶりにアルカ遺跡へ戻ってきた時、俺は自分のことを知りたいと思っていた。
まさか帰る時に一人増えているとは思わなかった。
人生、本当に何が起こるか分からない。
異世界に来た時点で今さらだけど。
遺跡の外へ出る。
木々の隙間から光が差し込み、風が抜けていった。
地下に長くいたせいか、それだけで少し眩しい。
俺は目を細めた。
「やっぱ外は――」
言いかけて、隣を見る。
セレーネが動いていなかった。
「……?」
遺跡の入口に立ったまま、森を見ている。
さっきとは違う。
明らかに何かに驚いている。
目を見開くほどではない。
声を上げるわけでもない。
でも、視線がずっと森へ向いたままだ。
「外、初めて?」
聞いてから、何を言ってるんだと思った。
記憶がないなら答えられるわけがない。
セレーネはしばらく森を見つめた後、小さく息を吐いた。
「……分からない」
やっぱりそうか。
「まあ、ゆっくり思い出せばいいんじゃない?」
「……そうね」
「無理に思い出そうとしても仕方ないし」
俺自身が半年経っても何一つ思い出せていない。
説得力があるのかないのか。
「俺も似たようなもんだから」
その言葉に、セレーネがこっちを見た。
「あなたも?」
「うん。俺も半年前、あの遺跡で目を覚ました」
セレーネの表情が止まった。
「……あそこで?」
「そう」
「……」
「セレーネがいた地下じゃないけど。上の方に部屋あっただろ? あそこで目が覚めた」
何も言わない。
「その前のことは覚えてるんだけど、どうしてここに来たのかが分からないんだ」
「……前のことは?」
「覚えてるよ」
「そう」
やっぱり反応が薄い。
でも、俺の話を聞いていないわけではなさそうだった。
むしろ、じっと聞いている。
「俺、この世界の人間じゃないんだ」
少し迷ったけど、言った。
隠しても仕方がない。
王都ではあまり自分から話さないようにしているけど、セレーネの場合は事情が違う。
俺と同じ遺跡にいた。
しかも俺の名前を知っていた。
だったら何か思い出すきっかけになるかもしれない。
「日本っていう国から来た。たぶん」
「……ニホン」
「知らない?」
セレーネは首を横に振った。
「そっか」
期待した自分がいた。
もしかしたら日本を知っているんじゃないか。
もしかしたら俺がここに来た理由を知っているんじゃないか。
でも、さすがに都合がよすぎる。
「じゃあ、セレーネもムンドゥスの人なのかな」
「ムンドゥス?」
「この世界の名前」
セレーネが黙る。
「あれ。それも分かんない?」
「……たぶん」
「そっか……結構忘れてるな」
名前だけ覚えている。
それ以外はほとんど分からない。
記憶喪失って、そういうものなんだろうか。
俺には分からない。
「じゃあ、王都に戻るまでに分かることは教えるよ」
「……あなたが?」
「一応、半年先輩だから」
「半年」
「そう。俺も最初は何も知らなかったけど、今はそれなりに分かる」
少し胸を張ってみる。
半年。
長かったような、短かったような。
この世界について全部知っているなんてとても言えない。
でも、目の前のセレーネよりは知っているはずだ。
たぶん。
「任せてくれ」
セレーネが俺を見た。
「……不安」
「なんでだよ」
初めて少しだけ会話らしい会話になった。
笑っているわけじゃない。
相変わらず表情も薄い。
でも、なんとなく。
本当になんとなくだけど。
さっきよりは話しやすくなった気がした。
エルダ禁域を抜けるには時間がかかる。
来た時と同じように、景色を確かめながら森を進んだ。
ただ、一人で来た時より歩く速度は落としている。
「疲れたら言って」
「平気」
「喉乾いたら?」
「言う」
「お腹は?」
「平気」
「本当に?」
セレーネがこっちを見る。
「……うるさい」
「ごめん」
怒られた。
いや、心配になるだろ。
さっきまで石だったんだから。
体力がどれくらいあるのかも分からない。
服だって、どう見ても旅向きじゃない。
それなのにセレーネは俺の心配をよそに、普通についてくる。
足場の悪い場所でも遅れない。
むしろ俺が振り返るたび、「何?」みたいな顔をされる。
「結構歩けるんだな」
「そう?」
「うん。もっとこう……ふらふらするかと思ってた」
「してほしいの?」
「なんでそうなるんだよ」
「知らない」
「……」
この人、意外と話すと面倒くさいかもしれない。
もちろん口には出さない。
「今、何か失礼なこと考えた?」
「考えてない」
「そう」
怖い。
なんで分かるんだ。
その日は禁域の中で夜を迎えた。
暗くなる前に野営できそうな場所を見つけ、火を起こす。
来る時は一人分でよかった。
今は二人分だ。
食料は少し余裕を持って持ってきているから問題ない。
干した肉と固めのパンを取り出し、セレーネへ渡した。
「食べられる?」
セレーネは手の中のパンを見る。
「……たぶん」
「なんか今日ずっと『たぶん』だな」
「仕方ないでしょ」
「まあ、記憶ないもんな」
セレーネがパンを少しちぎって口へ入れた。
しばらく噛む。
「どう?」
「普通」
「そう……」
聞いた俺が馬鹿だった。
もっと何かあるかと思った。
半年間、この世界の食事に散々驚いてきた俺とは大違いだ。
火を挟んで座る。
一人の時は静かだった夜が、今日は少し違う。
相手がほとんど喋らないから、そこまで賑やかになったわけじゃない。
でも向かい側に人がいる。
それだけで妙に落ち着く。
「そういえば」
セレーネが顔を上げる。
「この世界のこと、教えるって言っただろ」
「……うん」
「何から話せばいいかな」
自分で言っておいて困った。
世界について説明してください。
急にそんなことを言われても範囲が広すぎる。
俺だって全部知っているわけじゃない。
「まず、ここはバルカン王国」
「バルカン……」
「人間が暮らしてる国。俺が住んでる王都ルイは、この国の中心だな」
「……そう」
「王様もいる。今の王様はエルメス・バルカンって人らしい。俺は会ったことないけど」
セレーネは黙って聞いている。
「バルカン王国自体はかなり古い国で、建国されたのは五千年くらい前だったかな」
その瞬間。
セレーネの視線が止まった。
「……五千年?」
「うん」
「……」
「どうした?」
「別に」
「何か思い出した?」
「……分からない」
まただ。
俺は少し期待してしまった。
数字に反応したように見えたからだ。
でも、本人が分からないなら仕方ない。
「初代国王はルイ・バルカン」
セレーネは何も言わない。
「王都の名前もそこから取られてる。五千年前に活躍した英雄の一人なんだって」
「……英雄」
「そう。俺も図書館で読んだだけだから、そんな詳しくないけど」
焚き火がぱち、と鳴った。
セレーネは火を見ている。
「五千年前はかなり大きな戦いがあったらしい」
「……」
「その辺は古すぎて、伝説みたいな話も多いんだけどな」
「ふうん」
それだけ。
興味ないのかな。
「あと、有名なのだと月光教か」
セレーネの指が止まった。
パンを持っていた手。
ほんの一瞬。
俺が気づいた時には、また動いていた。
「月光教?」
「この世界で一番大きい宗教」
「……そう」
「それも五千年前くらいから続いてるらしい。王都にも教会あるし、信じてる人は多いよ」
「……ふうん」
反応が薄い。
記憶がないなら当然か。
知らない国の知らない歴史を急に説明されても、俺だって「へえ」くらいしか言えない。
「ごめん。つまんない?」
「別に」
「ならいいけど」
「続けて」
「え?」
「話」
「ああ」
意外だった。
興味なさそうに見えたのに。
「じゃあ……魔法は?」
「魔法?」
「それは覚えてる?」
少し間があった。
「……分からない」
「そっか」
俺は手のひらを上へ向けた。
「《イグニス》」
小さな炎を出す。
焚き火とは別の火が、手のひらの上で揺れた。
セレーネがそれを見る。
「これが火属性の一番簡単な魔法」
「……」
「他にも水とか風とか土とか。属性は全部で七つある」
炎を消す。
「普通は一つ。二つ使えたら結構すごい。三つになるとかなり珍しいらしい」
「あなたは?」
「え」
「いくつ?」
詰まった。
そこ聞くのか。
「……一つ」
言ってから、少しだけ目を逸らす。
セレーネが俺を見る。
「火?」
「そう。火」
「ふうん」
「……」
なんだろう。
見透かされているような気がする。
いや。
そんなわけない。
俺が七属性全部使えることは、ほとんど誰にも話していない。
セレーネが知っているはずがない。
「何?」
「別に」
またそれだ。
「セレーネ、さっきから『別に』多くない?」
「別に」
「絶対わざとだろ」
返事はなかった。
でも。
ほんの少しだけ。
口元が動いたような気がした。
「……今笑った?」
「笑ってない」
「いや、笑っただろ」
「笑ってない」
「絶対笑ったって」
「うるさい」
「はい」
強い。
俺は大人しくパンを食べることにした。
夜が深くなる。
火を消す前に、俺は荷物をまとめた。
「俺が先に見張るから、寝ていいよ」
「見張り?」
「ここ禁域だから。魔物が来るかもしれないし」
「……そう」
「交代できそうなら後で頼むけど、今日は無理しなくていい」
「できる」
「いや、でも」
「できる」
二回言われた。
「……じゃあ、後で起こす」
セレーネが横になる。
俺は焚き火のそばに座ったまま、暗い森を見る。
少しして、後ろを振り返った。
目を閉じている。
寝たのかどうかは分からない。
今日出会ったばかりの女の子。
石像だった女の子。
俺の名前を呼んだ女の子。
分からないことだらけだ。
でも。
不思議と、怖くはなかった。
怪しいと言えば、これ以上ないくらい怪しい。
俺が名前を聞く前から、アサヒと呼んだ。
なのに俺のことは知らないと言う。
自分についても、ほとんど何も覚えていない。
普通ならもっと警戒した方がいいのかもしれない。
それでも。
半年前。
何も分からないまま、この森を一人で歩いた時のことを思い出す。
あの時、誰か一人でもいたら。
何も知らなくてもいい。
全部説明してくれなくてもいい。
ただ「こっちだよ」と言ってくれる人がいたら。
どれだけ安心しただろう。
だから今は。
それでいい気がした。
「……俺も大概だな」
小さく呟く。
返事はない。
今度こそ眠ったらしい。
俺は火へ枝を一本足した。
ぱちぱちと音を立てて、火の粉が夜へ消えていく。
その頃の俺は、まだ知らなかった。
セレーネが何者なのか。
どうしてあの場所にいたのか。
どうして俺を見て、アサヒと呼んだのか。
そして。
俺が知ったつもりで話していたこの世界の歴史を。
彼女が、どんな気持ちで聞いていたのかも。




