第30話 眠り人
階段は、思っていたよりも深く続いていた。
手元の明かりを頼りに、一段ずつ慎重に下りていく。
足を置くたび、乾いた音が地下へ響いた。
どれだけ長い間使われていないのか、階段には薄く埃が積もっている。壁にも目立った傷はなく、人が通った形跡らしいものも見当たらない。
少なくとも、最近誰かがここへ入ったようには見えなかった。
「……そりゃそうか」
ここはエルダ禁域だ。
そもそも遺跡そのものへ来る人間がほとんどいない。
ましてや、崩れた石の下に隠れていた階段なんて、俺が見つけなければ今も埋まったままだったはずだ。
そう考えると、急に足元の暗闇が不気味に思えてきた。
半年間、冒険者としていろんな場所へ行った。
森にも入ったし、洞窟にも入った。魔物が潜んでいる場所だって経験している。
でも、それらとここは少し違う。
人が来なくなってから、どれだけの時間が経っているのか分からない。
何のために作られた場所なのかも分からない。
俺は大剣の柄へ手を添えたまま、先へ進んだ。
しばらく下りると、ようやく階段が終わった。
その先には細い通路が伸びている。
上の遺跡と同じ石造りではあるけれど、保存状態はこっちの方がずっといい。崩れている場所も少なく、壁には何かが彫られていたような跡まで残っている。
「文字……か?」
明かりを近づけてみる。
読めない。
今のムンドゥスで使われている文字とは形が違う。
模様にも見えるし、本当に文字なのかも分からない。
「持って帰れたらいいんだけどな……壁は無理だよな」
当たり前だ。
一応、覚えておこうとしばらく眺めてみたけれど、複雑すぎて早々に諦めた。
紙と書くものくらい持ってくればよかった。
こういうところで冒険者としての経験不足が出る。
何かありそうだから見に行く、までは考えていたのに、それをどう記録するかまでは考えていなかった。
ガイウスならその辺も準備したんだろうか。
……いや。
あの人ならまず、「一人で禁域の地下なんか入るな」って言いそうだ。
想像したら、ちょっとだけ帰りたくなった。
「いや、ここまで来たんだから行くけどさ……」
誰に言い訳しているのか分からないまま、俺は通路を進んだ。
地下には、いくつもの部屋があった。
ただ、そのほとんどは空だった。
何か置かれていたような台だけが残っている部屋。
壁の一部が崩れ、奥まで進めなくなっている場所。
用途の分からない小さな空間。
期待していたような、「これを読めば全部分かります」とでも言いたげな本や石板は見つからない。
当たり前と言えば当たり前だ。
そんな都合のいいものが残っていたら苦労しない。
それでも、上とは明らかに違う。
人が使っていた。
しかも、何かを隠すように地下へ作られている。
そんな印象があった。
何より気になるのは、この場所が妙に綺麗なことだった。
綺麗と言っても、掃除されているわけじゃない。
埃はあるし、壁も古い。
それでも上の遺跡ほど壊れていない。
単に地下だから風雨の影響を受けなかっただけかもしれないけど、それにしたって形が残りすぎている気がする。
「……何年前なんだ、ここ」
答えはない。
俺は少しずつ奥へ進んだ。
途中で何度か立ち止まり、後ろを振り返る。
誰もいない。
分かっている。
分かっているけど、静かすぎる。
自分の足音しか聞こえない場所に長くいると、どうしても余計なことを考える。
もし後ろから何か来たら。
もし帰り道が塞がったら。
もしこの先に、俺じゃどうにもできない魔物がいたら。
そんな考えばかり浮かぶ。
「……落ち着け」
息を吐く。
怖くなったら周りを見る。
ガイウスに何度も教えられたことだ。
怖いのは悪くない。
怖くないと思い込む方が危ない。
俺は通路の先を確認した。
物音はない。
魔物の気配も感じない。
帰り道も覚えている。
今のところ、進めない理由はない。
「よし」
もう一度歩き出した。
どれくらい進んだ頃だろう。
通路の先に、これまでとは違うものが見えた。
扉だった。
「……扉?」
思わず声が出る。
今まで見てきた部屋は、ほとんど入口が開いたままだった。
なのに、そこだけは違う。
大きな扉が、通路を塞ぐように残っている。
近づいて明かりを掲げる。
装飾らしい装飾はほとんどない。
ただ、かなり厚そうだ。
試しに押してみる。
「……っ」
重い。
びくともしない、というほどではないけど、簡単に開くような重さでもなかった。
足に力を入れて、もう一度押す。
石が擦れるような低い音がした。
少し動いた。
「開くのかよ……」
こういうのって普通、鍵とか仕掛けとかあるんじゃないのか。
半年この世界にいても、こういう時だけ妙に日本にいた頃の感覚が出る。
もっとも、開いてくれるならありがたい。
大剣を邪魔にならない位置へずらし、両手で押す。
重い扉がゆっくりと動いていく。
人一人が通れるくらいの隙間ができたところで、一度止めた。
中は暗い。
明かりを向けても、奥までは見えない。
「……」
さすがに緊張する。
ここまで来て、何もありませんでした、ならまだいい。
問題は何かあった時だ。
逃げ道は後ろ。
扉は開いたままにしておく。
俺は大剣を抜き、片手で持ちながら中へ入った。
最初に感じたのは、広い、だった。
これまで通ってきた部屋とは比べものにならない。
天井も高い。
声を出せば響きそうなくらいの空間が、暗闇の中に広がっている。
一歩。
また一歩。
明かりの届く範囲が少しずつ広がる。
壁。
柱。
何もない床。
さらに奥へ進んだところで――俺は足を止めた。
何かある。
部屋の中央。
最初は柱かと思った。
けれど違う。
形がおかしい。
明かりを持つ手を上げる。
その輪郭が、暗闇の中から浮かび上がった。
「……人?」
人だった。
正確には、人の形をした石像。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
こんな地下深くに。
誰にも見つかっていないような場所に。
一体だけ。
人の姿をした石像が立っている。
「なんだ、これ……」
大剣を構えたまま、少しずつ近づく。
罠かもしれない。
魔物かもしれない。
この世界に来たばかりの俺なら、ただの像だと思って近づいていたかもしれないけど、半年もいれば何でも疑うようになる。
動く石像くらいいても、もう驚かない。
……いや、動いたら普通に驚くけど。
距離を取りながら観察する。
女性の像だ。
かなり精巧に作られている。
髪の流れも、顔の形も、服の皺まで分かる。
まるで彫刻というより――。
「人に石を被せたみたいだな……」
口にしてから、嫌な想像をした。
いやいや。
まさか。
そんな魔法まであるのか?
分からない。
俺が知っている魔法なんて、この世界にあるもののほんの一部だ。
七属性全部を使えるようになったからって、魔法そのものを理解したわけじゃない。
俺はさらに近づいた。
石像は動かない。
魔力を感じ取れるほど、俺は器用でもない。
「……どうすりゃいいんだよ、これ」
調べに来たのは俺だ。
でも、見つけたものが想像の範囲を超えている。
持って帰る?
無理だ。
どう見ても重い。
削る?
もっと嫌だ。
もし本当に人だったらどうする。
「触るくらいなら……」
そこまで言って、手を止める。
こういう時、物語だったら絶対触っちゃいけないやつだ。
触った瞬間に何か起きる。
分かっている。
分かっているのに。
「……でも、調べに来たんだしな」
自分でも馬鹿だと思う。
大剣をすぐ抜ける位置に戻し、ゆっくり手を伸ばした。
指先が石像へ触れる。
冷たい。
普通の石と変わらない。
「……何も起きないか」
少し安心した。
やっぱりただの石像なのかもしれない。
こんなところにある理由は分からないけど、それだって何かの祭壇とか――。
その瞬間。
淡い光が走った。
「っ!?」
反射的に飛び退く。
大剣を抜いた。
石像が光っている。
いや、石像だけじゃない。
床に刻まれていた何かが、薄く光を帯びている。
「待て待て待て、なんだこれ!」
何も起きないと思った直後にこれだ。
だから触りたくなかったんだ。
逃げるべきか。
でも、出口は後ろにある。
石像から何か飛んでくる様子はない。
俺は剣を構えたまま、その変化を見た。
光は強くなっていく。
目を開けていられないほどじゃない。
柔らかい光だ。
それが石像全体を包んでいる。
そして。
表面に、小さな亀裂が入った。
「……は?」
ぴしり、と。
乾いた音が部屋に響く。
亀裂が広がる。
顔から首へ。
肩へ。
腕へ。
石像の表面が少しずつ崩れ始めた。
俺は大剣を握る手に力を込める。
何が出てきても動けるように。
けれど。
石の下から現れたものを見て、剣を振るうなんて考えは消えた。
肌だった。
「……え?」
石が剥がれる。
その下から、人の肌が現れる。
さらに石片が落ちた。
髪が零れる。
顔が現れる。
石像じゃない。
本当に。
人だ。
「ちょ、ちょっと待て……!」
どうすればいい。
生きてるのか?
そもそもなんで人が石の中にいる?
助けた方がいいのか?
触った俺がこうしたのか?
頭の中に疑問ばかりが浮かんで、何一つまとまらない。
石の表面は次々と崩れ落ちていく。
やがて光が収まった。
静寂が戻る。
そこにいたのは、もう石像ではなかった。
一人の女の子だった。
目を閉じている。
動かない。
「……おい」
返事はない。
剣を収める。
さすがに、この状態の相手へ武器を向けたまま近づく気にはなれなかった。
「大丈夫か?」
一歩近づく。
反応はない。
もう一歩。
近くで見ると、余計に分からなくなる。
眠っているようにしか見えない。
石の中から出てきた人間が、だ。
「……生きてる?」
自分でも間抜けな質問だと思う。
当然返事はない。
どうする。
呼吸を確認するか。
でも勝手に触っていいのか。
いや、さっき石像だった相手に今さら何を気にしてるんだ。
俺が一人で混乱していると――。
「……」
わずかに。
彼女の指が動いた。
「っ」
俺は息を止めた。
見間違いじゃない。
もう一度、指先が動く。
続いて肩が小さく上下した。
呼吸している。
生きてる。
「お、おい。分かるか?」
声をかける。
ゆっくりと。
彼女の瞼が開いた。
その目が俺を捉える。
「……」
何も言わない。
ただ、俺を見ている。
その視線に、妙な感覚があった。
知らない人を見る目じゃない。
驚いている。
いや。
驚いているというより――確かめている?
「大丈夫か?」
もう一度聞いた。
彼女は答えない。
俺の顔をじっと見ている。
その視線が少しだけ動く。
目。
髪。
頬。
何かを探すように。
「……?」
なんだ。
知り合い……なわけない。
俺はこの世界に来て半年だ。
こんな人、一度も会ったことがない。
なのに。
彼女の表情が、わずかに揺れた。
そして。
小さく唇が動いた。
「アサヒ……?」
頭が止まった。
「……え?」
今。
なんて言った?
聞き間違いかと思った。
でも。
そんなはずはない。
この静かな地下で、他に音なんてなかった。
確かに聞こえた。
アサヒ。
俺の名前。
「……なんで」
喉が乾く。
「なんで、俺の名前知ってるんだ?」
彼女の目が、わずかに見開かれた。
その反応を見て、余計に混乱する。
知っているんじゃないのか?
じゃあ、今のは何だ?
「俺のこと、知ってるのか?」
問いかける。
返事はない。
彼女は俺を見たまま、黙っている。
さっきまで眠っていたから頭が回っていないのかもしれない。
そもそも、石になっていたんだ。
普通の状態なわけがない。
「えっと……」
何から聞けばいい。
名前?
なんでここにいた?
石になっていた理由?
俺を知っている理由?
聞きたいことが多すぎて、逆に何も出てこない。
「……名前。分かる?」
とりあえず、一番簡単なところから聞いた。
彼女は少しだけ目を伏せた。
長い沈黙。
やがて、口を開く。
「……セレーネ」
「セレーネ……」
名前は分かる。
じゃあ記憶はある?
そう聞こうとした時、彼女が俺を見た。
「……あなたは?」
「え?」
思わず聞き返した。
「あなたの、名前」
「いや、さっき――」
言いかけて止まる。
さっき、俺の名前を呼んだよな?
絶対に呼んだ。
でも。
彼女の顔を見ても、ふざけているようには見えない。
むしろ、本人も混乱しているように見える。
「……真白朝陽」
とりあえず答える。
「マシロ……アサヒ」
彼女がゆっくり繰り返した。
その言い方が、なぜか引っかかった。
初めて聞いた名前を確かめているような。
それなのに。
さっきは確かに俺を見て、アサヒと呼んだ。
「やっぱり知ってるんじゃないのか?」
「……」
「俺のこと」
セレーネは黙った。
しばらくして、小さく首を横へ振る。
「分からない」
「分からない?」
「……うん」
「じゃあ、なんで俺の名前を?」
また沈黙。
セレーネは自分の手を見た。
石から戻ったばかりの手を、確かめるように。
それから周囲を見回す。
地下の部屋。
崩れ落ちた石片。
自分が立っていた場所。
最後に、もう一度俺を見る。
「……分からない」
さっきと同じ答えだった。
困った。
ものすごく困った。
俺は自分のことを調べるためにここへ来た。
そこで、自分の名前を知っているらしい女の子を見つけた。
普通なら大発見だ。
やっと手がかりを見つけたと喜んでもいい。
なのに、その本人が何も分からないと言っている。
「他には?」
「……?」
「何か覚えてない? ここにいた理由とか、どうして石に……なってたのか、とか」
口にしていて、自分でも変な質問だと思う。
セレーネは答えなかった。
その代わり、少し苦しそうに眉を寄せた。
「……ごめん」
「あ、いや。無理に思い出さなくていい」
反射的に言った。
何も分からないのは困る。
困るけど、目を覚ましたばかりの人間を問い詰めるのも違う。
俺だって半年前、ここで目を覚ました時は何が起きているのか分からなかった。
あの時に誰かから質問攻めにされていたら、たぶん何も答えられなかったと思う。
「体は? どこか痛いとか」
セレーネは自分の身体を少し確認してから、首を横に振った。
「……平気」
「歩ける?」
「たぶん」
たぶんか。
俺は周囲を見た。
このままここにいても仕方がない。
俺自身の調査もまだ終わっていないけど、さすがに目を覚ましたばかりの人を地下へ置いて探索を続ける気にはなれなかった。
何より。
この人は、俺の名前を知っていた。
本人が覚えていないとしても、何か関係があるのは間違いない。
「とりあえず、上に出よう」
「……上?」
「ああ。ここ地下だから」
セレーネが周囲を見る。
その顔に、ほんの一瞬だけ何かが浮かんだ気がした。
驚き。
悲しみ。
それとも、別の何か。
でも、すぐに消えた。
「……分かった」
短く答える。
俺は来た道へ向かいかけて、ふと思った。
「そうだ。俺、朝陽。さっきも言ったけど」
「……うん」
「セレーネ、でいいんだよな?」
「うん」
「じゃあ……よろしく?」
なんで疑問形なんだ。
自分でも分からない。
こんな状況で何と言えば正解なんだよ。
セレーネは俺を見た。
少しだけ間があって。
「……よろしく」
返事が来た。
とりあえず会話は成立した。
それだけで少し安心する。
俺は歩き出した。
数歩進んでから、後ろを振り返る。
セレーネはちゃんとついてきている。
ただ。
俺が見ると、わずかに視線を逸らした。
「……?」
「なに」
「いや……なんでもない」
気のせいか。
俺は前を向いた。
地下から出るため、来た道を戻る。
その後ろを、セレーネが静かについてくる。
結局。
自分について分かったことは、まだ何もない。
どうしてこの世界に来たのか。
どうしてアルカ遺跡で目を覚ましたのか。
何一つ答えは出ていない。
ただ一つ。
半年前にはいなかったはずの人が、今は俺の後ろを歩いている。
俺の名前を知っていた。
なのに、俺を知らないと言った。
セレーネ。
その名前以外、何も分からない女の子。
俺は自分が何者なのかを知りたくて、始まりの場所へ戻ってきた。
そこで見つけたのは、答えではなかった。
俺と同じように。
自分がなぜここにいるのか分からない――もう一人の眠り人だった。




