第29話 始まりの場所へ
王都を出てからしばらく歩いたところで、一度だけ振り返った。
遠くなった城壁の向こうには、半年間暮らした街がある。
初めて王都ルイを見た時は、その大きさに圧倒された。人の多さにも、建物の立派さにも、道を行き交う馬車にも、何を見てもいちいち驚いていた気がする。
今では、あそこに戻れば知っている店があって、泊まっている宿があって、ギルドに行けば顔を知っている人がいる。
ガイウスたちもいる。
そう考えると、妙な感じだった。
半年前まで、俺にとってこの世界には何一つ知っているものなんてなかったのに。
「……行くか」
さっきも同じことを言った気がする。
誰に聞かせるでもなく呟いて、俺は再び王都に背を向けた。
目指す場所は、アルカ遺跡。
この世界で最初に目を覚ました場所だ。
半年前とは違い、今度は自分からそこへ向かっている。
それだけのことなのに、足取りはあの時とはまるで違った。
王都からエルダ禁域までは、さすがに一日で辿り着ける距離ではない。
道中では何度か休みを挟み、夜になれば安全そうな場所を選んで眠った。
半年前なら、野宿なんてそれだけで一大事だった。
地面で寝るのか。
魔物が来たらどうするんだ。
火は消していいのか。
荷物を盗まれたりしないのか。
そんなことを一つ一つ気にしていたのに、今では周囲を確認して火を起こし、簡単な食事を済ませ、荷物を枕元へ寄せるところまでほとんど迷わずできる。
慣れって怖い。
高校生が半年で身につける技能じゃない気もする。
「……普通、十七歳ってもっとこう……」
焚き火の前で一人呟き、途中でやめた。
普通の十七歳が何をしている時間なのか考えたら、少しだけ日本を思い出してしまったからだ。
制服を着て、学校へ行って。
帰りに寄り道したり、家でゲームしたり。
少なくとも、大剣を抱えて魔物を警戒しながら野宿はしていない。
腰元の荷物へ目を落とす。
そこには、ずっと持ち歩いているスマートフォンが入っている。
電源は入らない。
壊れているわけじゃない。ただ、とっくに充電が切れてしまっただけだ。
充電器もある。
けれど、当然この世界にコンセントなんてものはない。
だからどちらも、今の俺にとっては使い道のない荷物だった。
それでも捨てる気にはなれなかった。
財布も、日本円も、学生証も。
役に立たないものばかりなのに、捨ててしまったら本当に日本との繋がりがなくなるような気がして、ずっと持っている。
「……帰れるのかな」
焚き火の中で、小さく薪が弾けた。
答える人はいない。
そもそも、帰る方法を探す以前の問題だ。
俺はどうやってここへ来た?
駅で何があった?
どうして、アルカ遺跡なんて場所で目を覚ました?
半年経っても、何一つ分かっていない。
だから戻る。
今までの俺なら、分からないものは分からないままにしていたかもしれない。
異世界なんだから、そういうものなのだと。
実際、そうやって納得してきたことはいくつもある。
魔法が使えたことも。
七属性すべてに適性があったことも。
時々、自分でも説明できないほど身体が上手く動くことも。
考えたところで答えが出ないなら、とりあえず異世界に来た影響なんだろうと片づけた。
けれど、自分が目を覚ました場所に名前があり、歴史があり、しかも王家ですら原則立ち入らない禁足地の中にあると知ってしまった。
そこまで分かって、それでも放っておけるほど俺は図太くない。
怖くないと言えば嘘になる。
何も分からないままなのも怖いけど、調べた結果、知りたくなかったことが出てくる可能性だってある。
それでも。
「行かなきゃ、何も分かんないしな」
俺は残っていた火を消した。
明日も歩かなければならない。
考えるのは、それからでいい。
旅を続けるほど、人の気配は少なくなっていった。
整えられていた道は次第に細くなり、やがて獣道と大差ないものへ変わる。
そして、その先。
半年ぶりに見る森を前にして、俺は足を止めた。
「……ここか」
エルダ禁域。
人の手がほとんど入っていない原生林と、その奥に連なる山々。
王都の図書館で名前を知ってから改めて見ると、以前とは印象が違う。
最初にここを歩いた時は、そんな大層な場所だなんて知らなかった。
ただ、知らない森だった。
どこへ行けば人がいるのかも分からず、食べられるものも、危険な生き物も、何も知らない。
思い出すだけでよく生きていたと思う。
「俺、ここ一人で抜けたんだよな……」
自分のことなのに、いまいち実感がない。
あの頃の俺に比べれば、今は装備もある。
大剣もある。
魔法も使える。
魔物と戦った経験だってある。
荷物には食料や野営に必要なものも揃えてきた。
同じ森なのに、持っているものが全然違う。
それでも、禁域を前にした緊張だけは消えなかった。
人がほとんど立ち入らない場所なら、何がいるか分からない。
ギルドの依頼で歩いてきた場所とは違う。
何かあっても助けを呼べる相手はいない。
俺は背中の大剣を確かめ、森へ踏み込んだ。
半年という時間は、思っていたより景色を変えていた。
当然だ。
木々は伸びるし、草も増える。雨が降れば地面も削れる。
それでも、完全に忘れているわけではなかった。
妙に大きく曲がった木。
岩の間を流れる細い水。
少し開けた場所から見える山の形。
一つ見つけるたびに、ぼんやりしていた記憶が繋がっていく。
「ああ……ここ通った」
声に出すと、さらに思い出した。
あの時は、この辺りで何か食べられるものがないか探していた。
向こうの斜面は危なそうだったから避けた。
水を見つけた時は、本気で安心した。
そんな記憶ばかりだ。
遺跡からどうやって出たのかを、正確に覚えているわけじゃない。
あの時の俺には地図もなかったし、自分がどこにいるのかすら分かっていなかった。
だから今回は、景色と記憶を照らし合わせながら進むしかない。
途中、茂みの奥で何かが動く音がして、反射的に大剣の柄へ手を伸ばした。
息を殺して様子を見る。
葉の隙間。
低い位置。
音は一つ。
こちらへ近づいてくる気配はない。
少し待っていると、小さな動物が草の間から飛び出し、そのまま逃げていった。
「……びびった」
思わず息を吐く。
昔なら、今の音だけで逃げ出していたかもしれない。
だからといって、何でも魔物だと思って剣を振り回すのも違う。
ガイウスに何度も言われた。
分からないものを、分からないまま相手にするな。
まず見ろ。
逃げるなら逃げろ。
戦う必要があるなら、その時に剣を抜け。
半年間で身についたのは、強さだけじゃない。
たぶん、こういうところなんだろう。
森を進みながら、ふとそんなことを思った。
アルカ遺跡を見つけたのは、それからさらに時間が経った頃だった。
木々の隙間から、人工物らしい直線が見えた。
一瞬、足が止まる。
忘れるはずがない。
草木に覆われ、長い年月をそのまま積み重ねたような古い石造りの遺跡。
半年前。
俺が最初に見た、ムンドゥスの景色。
「……あった」
思っていたより、嬉しかった。
別に帰ってきたわけじゃない。
ここにいい思い出があるわけでもない。
むしろ最初は、何が起きたのか分からなくて散々だった。
それなのに、見覚えのあるものを見つけた瞬間、胸の奥に妙な安心感が広がった。
自分の記憶が間違っていなかった。
本当にここから始まったんだ。
遺跡の前まで進み、俺はしばらくその姿を眺めた。
図書館で名前を知った。
アルカ遺跡。
昔の俺にとっては、ただの「目が覚めた場所」だったものに、今は名前がある。
それだけで、少し違って見える。
「さて……」
ここからだ。
俺は荷物を確かめ、遺跡の中へ入った。
中は、驚くほど変わっていなかった。
外と違い、風雨に晒されにくいからだろう。
崩れている場所は崩れたまま。
壁も、床も、薄暗さも。
記憶の中にある景色と大きく変わらない。
「うわ……」
歩きながら、思わず苦笑した。
見覚えがある。
最初に目覚めた直後、出口を探して何度も同じ場所を行き来した。
あっちへ行って行き止まり。
こっちへ行って戻ってきて。
自分がどこを歩いたのか分からなくなって、かなり焦った。
今思えば、探索と呼べるようなものじゃない。
ただ脱出したかっただけだ。
それでも当時は必死だった。
俺は壁へ手を触れながら、ゆっくり奥へ進んだ。
今回は急ぐ必要がない。
帰るための食料もある。
明かりも用意してあるし、魔法だって使える。
何より、ここを調べるために来た。
前回と同じ場所だけ見て帰ったら意味がない。
まずは、自分が目覚めた場所。
そこを確認してから、遺跡全体をできるだけ調べる。
何か残っているなら見つけたい。
文字でも、道具でも、何でもいい。
俺がここにいた理由へ繋がるものなら。
しばらく進むと、その場所はすぐに分かった。
「……ここだ」
広さも。
天井の高さも。
壁の形も。
間違いない。
半年前、俺はここで目を覚ました。
何も知らずに。
俺は部屋の中央付近まで歩き、立ち止まった。
当然、何かが残っているわけではない。
床を見ても、壁を見ても、自分がここにいた理由なんて書いていない。
「そりゃそうだよな……」
半年ぶりに来たからといって、急に答えが置いてあるはずもない。
少し期待していた自分が馬鹿みたいだ。
それでも、今回はここで終わらない。
部屋を出て、別の通路へ向かう。
前回通った場所も、通らなかった場所も、一つずつ確認していった。
壁に文字らしいものが残っていないか。
床に不自然な跡はないか。
何か持ち出せそうなものはないか。
けれど、長い年月のせいなのか、目につくものの多くは崩れている。
読めそうなものもない。
そもそも俺には、この世界の古い文字なんて読めない可能性が高い。
「図書館で勉強してくればよかったか……いや、何を勉強すればいいかも分かんないか」
独り言が増えている。
一人旅になったせいだ。
王都では誰かしら周りにいたから気にならなかったけど、森に入ってからほとんど誰とも喋っていない。
そのうち壁に話しかけ始めそうで嫌だ。
「何か知ってるなら教えてくれよ」
試しに言ってみる。
もちろん壁は何も答えない。
「……何やってんだ、俺」
自分で言っておいて恥ずかしくなった。
誰もいなくてよかった。
探索を続けているうちに、前回ほとんど見ていなかった一角へ出た。
崩れた石材が積み重なり、その先が塞がれているように見える。
最初に来た時の記憶も、なんとなく残っていた。
たしかここは、行き止まりだと思って引き返した。
今見ても、そう見える。
ただ。
「……ん?」
明かりを近づける。
積み重なった石の脇。
壁と床の境目に、不自然な隙間があった。
最初はただのひびだと思った。
けれど、よく見ると妙に真っ直ぐだ。
自然に割れたにしては形が整いすぎている。
俺はしゃがみ込み、指で土埃を払った。
線が続いている。
横へ。
そのまま壁際まで。
「これ……」
立ち上がって、今度は周囲を見る。
石材で塞がれているから分かりにくい。
でも、一度気づいてしまえば違和感がある。
床の高さが微妙に違う。
崩れた石の向こう側だけ、わずかに低い。
俺は大剣を外し、邪魔にならない場所へ置いた。
小さな石から順番に動かしていく。
最初の頃なら、こんなことをしようとも思わなかっただろう。
出口を探すだけで必死だった。
崩れている。
通れない。
なら別の道。
それで終わりだ。
でも今は違う。
ここは何のために作られた遺跡なのか。
どうして俺はここにいたのか。
その答えを探しに来ている。
しばらく石をどかし続けると、奥から平らな面が現れた。
床ではない。
一段。
「……階段?」
さらに土埃を払う。
もう一段あった。
下へ続いている。
心臓が少し速くなる。
「マジかよ……」
前回。
俺はここを見ている。
見て、ただの行き止まりだと思って引き返した。
もしあの時、もう少し周りを見る余裕があったら。
いや、無理だ。
あの時の俺に、こんな場所をわざわざ掘り返す理由なんてなかった。
むしろ見つけなくてよかったのかもしれない。
今よりずっと弱くて、魔法の使い方すら知らなかった。
その状態で、どこへ続くかも分からない地下へ入っていたら――。
そこまで考えて、やめた。
今さらだ。
問題は、この先に何があるか。
俺は残りの石を慎重に動かした。
やがて、人一人なら十分に通れそうな幅の階段が姿を現す。
下から風は感じない。
当然、明かりもない。
どこまで続いているのかすら分からなかった。
暗闇へ向かって、石の階段だけが静かに伸びている。
「……絶対なんかあるやつじゃん」
思わず口から出た。
こういう時、日本にいた頃ならゲームの隠し通路を見つけて喜んでいた。
でも今はゲームじゃない。
セーブもできないし、死んだらやり直せない。
ガイウスの言葉が頭をよぎる。
――生きて帰って初めて仕事になる。
別に仕事じゃないけど。
意味は同じだ。
勢いだけで入る必要はない。
俺は階段の入口を確認し、その周囲をもう一度調べた。
崩れそうな場所はないか。
何かが潜んでいる気配はないか。
すぐに戻れるよう、邪魔になる石もさらに退ける。
準備を終えてから、大剣を背負い直した。
そして階段の前に立つ。
半年間。
俺は、この世界で生きることだけを考えてきた。
食べるために働いて。
魔法を覚えて。
冒険者になって。
失敗して。
人が死ぬところを見て。
剣を教わって。
少しずつ、この世界で生きていけるようになった。
でも。
俺がどうしてここにいるのか。
それだけは、最初の日から何も変わっていない。
目の前の暗闇を見る。
この先に答えがある保証なんてない。
何もないかもしれない。
もっと分からなくなるだけかもしれない。
それでも――ここまで来た。
「……行ってみるか」
明かりを手に、俺は一段目へ足をかけた。
石の階段を、一歩ずつ下りていく。
二歩。
三歩。
背後にあった遺跡の明かりが、少しずつ遠ざかる。
やがて階段は暗闇の中へ沈み、俺の足音だけが地下へ響いていった。
半年前。
俺は、この場所から外へ出ることだけを考えていた。
だから知らなかった。
自分が目を覚ました場所の、さらにその下に。
まだ、続きがあったことを。




