第21話 冒険者の日々
この世界に来てから、日付を数えることはいつの間にかやめていた。
最初の頃はスマホのカレンダーを何度も確認していた。
日本では今、何月何日なのか。学校はどうなっているのか。家では、みんなは、俺がいなくなったあとどうしているのか。
瑞輝たちは俺を探しているんだろうか。
そんなことを考え始めると眠れなくなる夜もあった。
けれど、スマホの電源はとっくに入らなくなっている。
充電器は持っている。でも、こっちの世界にコンセントなんてものはない。
今では荷物の奥にしまって、時々取り出すくらいだ。
使えないなら持っていても仕方ない。
そう言われれば、たぶんその通りなんだと思う。
それでも捨てる気にはなれなかった。
スマホも、学生証も、日本の金も、この世界ではほとんど役に立たない。
それでも俺にとっては、少し前まで日本で高校生をやっていたことを証明してくれる、数少ないものだった。
だから、持っている。
ただ、それだけだった。
◇
「朝陽! そっち行ったぞ!」
「見えてる!」
グラシア地方の林を、一匹のハウンドウルフが駆ける。
速い。
初めて遭遇した時は、その速さだけで頭が真っ白になった。
今だって怖い。それでも、何も見えなかったあの時とは違う。
頭の向き。肩の沈み方。前脚の運び方。
次にどちらへ動こうとしているのか、少しずつ分かるようになってきた。
俺は大剣を握り直した。
ハウンドウルフが身体を低くする。
来る。
地面を蹴った瞬間に横へ動き、牙を避ける。
すれ違ったところを追いかけたくなるのを我慢して、まず振り返った。
向こうもすでに方向を変えている。
「朝陽! 足止まってるぞ!」
「分かってるって!」
「分かってる奴は止めねえ!」
「うるさい!」
少し離れたところからガイウスの声が飛んでくる。
言っていることは正しい。
腹立つけど。
ハウンドウルフが再び向かってきた。
真正面から見れば、やっぱり怖い。
牙がある。爪がある。当たれば普通に怪我をするし、下手をすれば死ぬ。
だから見る。
怖いからこそ、見る。
ガイウスに教わった通り、牙だけじゃなく全身を見る。
身体が沈んだ。
来る。
「っ!」
踏み込んで大剣を振り下ろす。
だが、わずかに早い。
刃はハウンドウルフの前を通り過ぎ、そのまま地面を叩いた。
「うわっ!」
土が跳ねる。
「馬鹿! 振りすぎだ!」
「分かってる!」
「だから分かってねえって言ってんだ!」
ハウンドウルフが俺の横へ回り込んだ。
大剣を引き戻すには遅い。
だったら。
柄から右手を離し、そのまま魔物へ向ける。
「《ファイアボール》!」
飛び出した火球を見て、ハウンドウルフが横へ跳んだ。
外れた。
けれど、それでいい。
「今!」
逃げた先には、《ブレイヴ》の一人が回り込んでいる。
剣が走り、ハウンドウルフが大きく体勢を崩した。
「朝陽!」
ガイウスに呼ばれる。
今度こそ、何を言われているのか分かった。
右手を大剣へ戻す。
両手で握る。
地面を踏む。
腕だけで振らない。
足から腰へ。腰から肩へ。
剣の重さに逆らわず、そのまま前へ。
「――っ!」
刃が入った。
重い感触が両手へ伝わる。
これには、まだ慣れない。
それでも止めずに振り抜いた。
ハウンドウルフが地面へ倒れる。
俺は荒くなった息を整えながら、大剣を構えたまま動かなかった。
「……終わった?」
「まだ気ぃ抜くな」
「……はい」
周囲を見る。
林の奥。
茂み。
物音。
他に動くものはいない。
少しして、ようやくガイウスが大剣を下ろした。
「よし。終わりだ」
「……疲れた」
俺も力を抜き、その場に腰を下ろした。
「一匹でか?」
「一匹だからだよ。ずっと俺狙ってたじゃん」
「好かれてんじゃねえか」
「嬉しくないって」
水を飲みながら、倒れたハウンドウルフを見る。
最初の頃は、戦いが終わるたびに気持ち悪くなった。
自分が魔物を傷つけたこと。目の前で生き物が死んだこと。
今も何も感じないわけじゃない。
ただ、少しだけ受け止められるようになった。
倒した魔物を見ながら水を飲める。
周囲を確認できる。
こうしてガイウスと話すこともできる。
慣れた。
たぶん、そういうことなんだと思う。
「で、どうだった?」
ガイウスが聞いてきた。
「何が?」
「今の戦いだよ」
「最初の一撃は外した」
「おう」
「振りすぎた」
「おう」
「魔法も外した」
「おう」
「……ボロボロじゃん」
「でも生きてる」
「それで全部片付けるのやめない?」
「一番大事だろ」
「まあ……そうだけど」
何度も聞いた言葉だった。
冒険者は、生きて帰って初めて仕事になる。
最初に聞いた時より、その意味が分かる。
「魔法は悪くなかったぞ」
「外したのに?」
「当てるつもりなかっただろ」
「……分かった?」
「何回お前と戦ってると思ってんだ」
見抜かれていた。
「大剣を戻す時間がなかったから、避ける方向を限定できないかなって」
「考え方は悪くねえ。ただ、剣から手ぇ離すのが早い」
「早い?」
「魔法が出なかったらどうする」
「あ」
「それに、あいつが避けなかったら?」
「そのまま当たる」
「《ファイアボール》一発で仕留められんのか?」
「……多分無理」
「だろ?」
言われてみればその通りだった。
魔法を覚えてから、できることが一気に増えた気がしていた。
でも、選択肢が増えたからこそ、どれを使うかまで考えないといけない。
「魔法が使えるからって、何でも魔法で解決しようとすんな。剣があるなら剣を使え」
「はい」
「逆も同じだ。剣にこだわって魔法を忘れるな」
「……難しくない?」
「だから練習すんだろ」
「最近そればっかりじゃん」
「便利だからな」
「便利な言葉だなあ」
笑いながら立ち上がる。
こういうやり取りにも、すっかり慣れた。
◇
冒険者としての生活は、いつの間にか特別なものではなくなっていた。
毎日魔物と戦っているわけではない。
荷物を運ぶ日もある。
素材を集める日もある。
何も討伐せず、朝から夕方まで歩き回って帰ってくる日もある。
依頼を受けない日は王立図書館へ行った。
今の俺が読んでいるのは、歴史よりも魔法や魔物についての本が多い。
魔力をどう扱うのか。
戦闘中にどう維持するのか。
魔物と遭遇した時に何を見るべきなのか。
読んで、考えて、一人になった時に試す。
それを繰り返した。
人前で使う魔法は、今も火属性だけだ。
けれど、一人で練習している時は違う。
水も、木も、風も、土も、光も、闇も使う。
最初に全属性が使えると気づいた夜ほど、今は動揺しなくなった。
むしろ知れば知るほど、疑問が増えている。
一属性が一般的。
二属性なら優秀。
三属性ともなれば極めて稀。
なら、七属性を使える俺は何なのか。
図書館へ何度通っても、その答えは見つからなかった。
「……ガイウスに言った方がいいのかな」
宿の部屋で、一人呟いたこともある。
ガイウスには色々教えてもらっている。
俺が何も知らないことも、日本という知らない場所から来たことも知っている。
それでも普通に接してくれている。
そんな相手に隠し事をしていることへの後ろめたさはあった。
けれど、話してどうなるのかも分からない。
俺自身、何が起きているのか説明できないのだ。
珍しい。
それだけならいい。
もし違ったら。
余計なことに巻き込まれたら。
そんなことを考えているうちに、結局いつも同じ結論になる。
「……もう少し分かってからでいいか」
たぶん。
こういうところは、日本にいた頃から変わっていない。
分からないことがあると、自分の中で答えが出るまで抱え込む。
良くないとは思う。
思うけど。
簡単には変わらなかった。
◇
王都ルイにも、もう迷わなくなった。
ギルドから宿へ。
宿から王立図書館へ。
安く食べられる場所も知っている。
中央市場へ行く道も、王都を出る門も覚えた。
最初は何度も人に道を聞いていたのに、今では考えなくても足が動く。
店の人に顔を覚えられることも増えた。
ギルドへ入れば、受付の人と目が合う。
《ブレイヴ》がいれば、空いている席へ勝手に座る。
「お前、最近遠慮なくなったな」
ある日、ガイウスに言われた。
「何が?」
「最初の頃は、ここ座っていいですか、とか聞いてただろ」
「……そうだっけ」
「聞いてた聞いてた」
《ブレイヴ》の仲間たちまで笑っている。
「今じゃ何も言わずに座るもんな」
「嫌ならどくけど」
「誰も嫌だとは言ってねえだろ」
「じゃあいいじゃん」
「そういうとこだよ」
「何が?」
聞き返すと、また笑われた。
何なんだよ。
そう思ったけれど、少し考えて気づいた。
慣れたんだ。
この人たちに。
この場所に。
「……悪い?」
「いや」
ガイウスは笑った。
「その方がいい」
そう言われると、ちょっと照れる。
「飯食ったか?」
「まだ」
「なら食ってけ」
「奢り?」
「自分で払え」
「ケチ」
「稼いでんだろ」
「俺まだEランクだぞ」
「俺だってDだ」
「一個上じゃん」
「前にもこの会話したぞ」
「そうだっけ?」
「した」
くだらない。
本当にどうでもいい話だ。
でも。
最近は、こういう時間が好きだった。
◇
その日も依頼を終えてギルドへ戻ると、受付で呼び止められた。
「朝陽さん。少々よろしいですか?」
「はい?」
足を止める。
「俺、何かしました?」
「どうして最初にそれを疑うんですか」
「いや、急に呼び止められたから……」
受付の人が少し笑った。
「冒険者カードをお願いします」
「はい」
財布からカードを取り出して渡す。
受付の人は手元の記録とカードを見比べながら、何かを確認している。
「朝陽さんが冒険者登録をされてから、二か月ほどになりますね」
「もうそんなに経ったんですね」
「FランクからEランクへの昇格後も、依頼の達成状況は安定しています。採取、運搬、素材回収。討伐依頼への参加も増えました」
「はい」
「合同討伐での評価、その後の実戦経験にも問題ありません」
そこまで聞いて。
何となく察した。
少し離れたテーブルを見る。
ガイウスたちがいる。
目が合った。
ガイウスが、にやっと笑った。
「もしかして……」
「はい」
受付の人からカードが返される。
「本日付で、真白朝陽さんをDランク冒険者へ昇格とします」
「…………」
カードを見る。
名前。
真白朝陽。
性別。
男。
年齢。
十七歳。
所持金。
そして最後に表示されている冒険者ランク。
D。
「……Dだ」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
思っていたより、ずっと嬉しかった。
誰かと競争していたわけじゃない。
Dランクになれば日本へ帰れるわけでもない。
それでも。
この二か月、自分がやってきたことを認めてもらえた気がした。
「やった……」
思わず小さく呟く。
「何ニヤニヤしてんだ」
後ろから頭を軽く叩かれた。
「痛っ」
振り向けば、案の定ガイウスだった。
「別にいいだろ。嬉しいんだから」
「おめでとう、後輩」
「ありがとう、先輩」
「これで同じDだな」
「追いついた」
「調子乗んな」
「でもランクは同じじゃん」
「経験が違う」
「でも同じD」
「お前、最近本当に遠慮なくなったな」
ガイウスが笑う。
俺も笑った。
「ただし」
受付の人の声で、そちらへ向き直る。
「Dランクになったからといって、急に強くなったわけではありません」
「あ、それガイウスにも散々言われました」
「でしたら大丈夫そうですね」
「何でそこで納得するんですか」
「Eランクに昇格した時も似たようなことを言いましたから」
「……そうでしたっけ」
「言いました」
覚えている。
ランクは強さそのものではない。
依頼の達成数。
成功率。
経験。
ギルドからの評価。
それらを積み重ねた結果だ。
「Dランクになれば受けられる依頼の幅も広がります。ただし、自分にできることを見極めてください」
「はい」
「無理はしないように」
「はい」
「危険だと思ったら――」
「逃げます」
先に答えると、受付の人が少し驚いた。
横ではガイウスが笑っている。
「何回も言われてるんで」
「誰にだよ」
「ガイウスに」
「大事だからな」
「知ってる」
カードを財布へ戻す。
学生証の隣。
冒険者登録をした日に初めて入れた場所と同じだ。
なのに、あの時とは少し意味が違う気がした。
◇
「今日は飲むぞ!」
「俺、十七」
「じゃあ食え!」
「何で昇格した俺が払う流れになってるの?」
「祝いだから」
「普通そっちが払わない?」
「細けえこと気にすんな!」
「気にするよ!」
その夜は《ブレイヴ》と一緒に飯を食った。
何を食べたかよりも、誰かがくだらないことを言って、誰かが笑って、ガイウスが騒いで、俺も笑ったことの方をよく覚えている。
日本へ帰りたい。
その気持ちは今も変わっていない。
瑞輝。
京介。
麗奈。
瑠奈。
みんなに会いたい。
家にも帰りたい。
でも。
それとは別に。
この世界にも少しずつ、俺を知っている人が増えていた。
◇
宿へ戻ってから、俺はベッドへ寝転がった。
財布から冒険者カードを取り出す。
Dランク。
「……結構頑張ったな、俺」
誰もいないから、自分で言った。
少しくらい、自分を褒めてもいい気がした。
カードを財布へ戻す。
そのまま眠ろうとして。
ふと、荷物へ目が向いた。
「…………」
身体を起こし、奥にしまっていたスマホを取り出す。
電源ボタンを押す。
何も起きない。
分かっていた。
電池は、とっくに切れている。
真っ黒な画面に、ぼんやり自分の顔だけが映っていた。
「……二か月か」
日本にいた頃は、毎日当たり前のように触っていた。
時間を見るのも。
連絡を取るのも。
写真を見るのも。
全部これ一つでできた。
今はもう、何もできない。
それでも。
手放そうとは思わなかった。
この世界では何の役にも立たないとしても。
これは。
俺が日本にいた時から持っているものだから。
しばらく眺めてから、スマホを大切に荷物へ戻した。
明日も依頼がある。
大剣の練習もしたい。
魔法も覚えたい。
図書館にも行きたい。
Dランクになったから、今まで受けられなかった依頼も見てみたい。
やりたいことが、たくさんある。
ベッドへ戻り、目を閉じる。
明日は何をしよう。
そんなことを考えて。
ふと気づいた。
いつからだろう。
眠る前に。
日本へ帰る方法より先に。
明日の予定を考えるようになったのは。




