第2話 暗闇の先
コツ。
コツ。
自分の足音だけが、暗い通路に響いている。
「…………」
さっきから何度も後ろを振り返っている。
もちろん、誰もいない。
分かっている。
分かっているんだけど――。
「……怖いって、これ」
思わず声が漏れた。
誰かがいるのも怖い。
でも、誰もいないのも怖い。
結局どっちでも怖い。
スマホのライトを前へ向ける。
白い光が石造りの通路を照らし、その先はまた暗闇に飲み込まれている。
壁。
床。
天井。
全部、石。
ところどころ崩れていて、壁の隙間からは植物の根が入り込んでいる。
少なくとも最近造られた場所には見えない。
「……遺跡、だよな」
口にしてみる。
他に表現のしようがない。
ただ――。
「なんで俺が遺跡にいるんだよ……」
そこだけが、どうしても繋がらない。
駅にいた。
瑞輝たちと話していた。
電車が来た。
ホームから落ちた。
そこまでは覚えている。
その次が、ここだ。
「…………」
もう一度、自分の身体を見る。
制服。
靴。
ポケットの中には財布。
スマホ。
学校帰りのままだ。
なのに、身体には大きな傷一つない。
「助かった……んだよな?」
電車に轢かれた記憶はない。
直前で止まったのかもしれない。
誰かが助けてくれたのかもしれない。
それならそれでいい。
いや、よくはない。
「そのあとなんでここに来たんだよ」
やっぱり意味が分からない。
誘拐。
一瞬そんな言葉が頭をよぎる。
でも、誘拐犯がわざわざ俺をこんな場所に放置する理由が分からない。
そもそも、俺なんか誘拐して何になる。
金持ちでもなければ、有名人でもない。
「……俺なんか攫っても、何も出ないぞ」
言ってから、少し虚しくなった。
「何言ってんだ俺……」
一人で喋っている。
でも黙っていると、もっと怖い。
俺は小さく息を吐いて、再び歩き始めた。
今考えても答えが出ないことは分かった。
だったら、まずここから出る。
誰かを探す。
それから考える。
今できるのは、それくらいだ。
◇
「……広くないか?」
どれくらい歩いたのか。
体感では、かなり経っている。
途中で何度か通路が分かれていた。
そのたびに立ち止まり、どちらへ行くか考える。
当然、正解なんて分からない。
だからせめて、来た道だけは分かるようにした。
「ここ、さっき通ったよな……?」
壁際に転がっている石。
妙な形に欠けた柱。
自分なりに目印を覚えながら進む。
似たような景色ばかりだから、油断するとすぐ分からなくなりそうだった。
「迷子とか洒落にならんぞ……」
いや、もう十分迷子なのか。
ここがどこなのかすら分かってないんだから。
スマホを見る。
相変わらず圏外。
バッテリーも少しずつ減っている。
「これ切れたら終わるな……」
ライトを消してみた。
真っ暗になった。
「…………」
三秒で点けた。
「無理」
怖すぎる。
節電した方がいいのは分かる。
でも、何も見えない状態で歩くなんてもっと無理だ。
「必要な時だけ消すか……」
誰もいない広い場所に出た時。
少し休む時。
そういう時だけ消せば、多少は持つ。
今あるものを使うしかない。
財布の中身も確認した。
紙幣。
小銭。
学生証。
日本でなら役に立つ。
ここでも役に立つかは――。
「いや、日本だろ」
自分で否定する。
「……日本だよな?」
声が弱くなる。
さっきから何度も同じことを考えている。
でも、そう思わないと落ち着かなかった。
外国?
それもあり得る。
ただ、駅のホームから気を失って、目覚めたら外国の遺跡というのはさすがに無理がある。
「だったらどこだよ……」
また最初に戻った。
考えるのをやめる。
歩く。
今はそれしかない。
◇
「……ん?」
しばらく進んだところで、足を止めた。
何か聞こえた。
耳を澄ます。
――ピチャン。
「水……?」
もう一度。
――ピチャン。
間違いない。
どこかで水が落ちている。
喉が渇いていた。
目が覚めてから何も飲んでいない。
俺は音のする方へ進んだ。
少し行くと、通路の壁が崩れた場所があった。
その隙間から水が染み出し、石の窪みに溜まっている。
「おお……」
思わず近寄る。
透明だ。
変な臭いもしない。
だけど。
「……これ、飲んでいいのか?」
手を伸ばしかけて止めた。
山の水は綺麗だからそのまま飲める。
そんなイメージはある。
でも実際には、細菌だとか寄生虫だとか、そういう危険があった気がする。
「腹壊したら終わるよな……」
薬もない。
病院もない。
というか人すらいない。
喉は渇いている。
でも、今すぐ飲まなければ死ぬほどじゃない。
「……やめとこ」
水の場所だけ覚えておく。
本当に必要になったら、その時考えればいい。
立ち上がった時だった。
「……あれ?」
頬に何かを感じた。
ほんの少し。
冷たい空気。
「風?」
もう一度、じっとする。
やっぱりそうだ。
微かだけど、空気が動いている。
水が流れてくる方向とは別。
通路の奥からだ。
「ってことは……」
外に繋がってる?
確証はない。
でも今までよりずっとマシな手掛かりだった。
俺はスマホのライトを奥へ向ける。
「……行ってみるか」
足を進める。
風は消えない。
むしろ少しずつ強くなっている。
「当たり……?」
期待すると同時に、不安も膨らむ。
この先に何があるかは分からない。
でも。
何も分からないまま歩くよりはいい。
少なくとも、今は進む理由がある。
◇
通路は少しずつ上り坂になっていった。
「はぁ……」
息が上がる。
思っていたより長い。
途中からは階段になった。
石で造られた古い階段。
欠けている場所もある。
「危な……」
一段、崩れていた。
足を引っ込める。
スマホを向け、踏めそうな場所を確認してから進む。
焦るな。
転んで怪我したら、それこそどうしようもない。
一段。
また一段。
ゆっくり上がる。
そして。
「…………あ」
遠くに何かが見えた。
暗闇の中。
小さな白い光。
「出口……?」
足が止まる。
見間違いじゃない。
光だ。
「……マジか」
思わず笑った。
「あるじゃん……!」
急いで駆け上がりそうになって、やめる。
「いや、落ち着け俺」
さっき崩れた階段を見たばかりだ。
ここで転んだら馬鹿すぎる。
でも、気持ちは抑えられない。
一段ずつ確かめながら、それでもさっきより速く進む。
光が大きくなる。
風も強くなる。
土と草の匂いがした。
「外だ……」
階段の先。
崩れた石壁の向こうから、光が差し込んでいる。
最後の段を上がる。
眩しい。
「っ……」
思わず目を細める。
暗い場所に長くいたせいで、まともに目を開けられない。
数秒待つ。
ゆっくりと目を開けた。
「…………」
最初に見えたのは、緑だった。
木。
草。
蔓。
その全部が視界いっぱいに広がっている。
「……森?」
俺は崩れた壁を跨ぎ、外へ出た。
風が吹く。
髪が揺れる。
鳥の声がする。
虫の鳴き声も聞こえる。
空を見上げる。
青い。
雲が浮かんでいる。
太陽もある。
「…………」
思わず、大きく息を吸った。
外。
やっと出られた。
「……よかった」
力が抜け、その場にしゃがみ込みそうになる。
本当に少し安心した。
あの暗い場所に閉じ込められたままじゃなかった。
出口はあった。
それだけでも十分だった。
俺は振り返る。
「……すげえな」
改めて見ると、自分が出てきた場所はかなり大きかった。
巨大な石造りの遺跡。
ただ、そのほとんどが木々や蔓に覆われている。
崩れた壁。
倒れた石柱。
地面へ沈み込んだような建物。
ずっと昔から、ここにある。
そんな雰囲気だった。
「こんな場所、日本にあったっけ……」
知らないだけかもしれない。
日本中の遺跡を知っているわけじゃない。
山奥にこういう場所があっても――。
「…………」
目の前の森を見る。
木々が大きい。
とにかく大きい。
何十年、何百年と人の手が入っていないような森。
少なくとも観光地には見えない。
道もない。
柵もない。
看板もない。
人工物らしいものは、背後の遺跡以外に何一つ見当たらない。
スマホを取り出す。
圏外。
「だよな……」
分かっていたけど、少し期待していた。
地図も現在地をまともに示さない。
「GPSまでダメなのかよ……」
空は見えているのに。
「…………」
胸の奥に、また不安が戻ってくる。
遺跡から出れば何とかなると思っていた。
道路がある。
民家がある。
誰かに会える。
勝手にそう思っていた。
でも。
「誰もいないじゃん……」
どこを見ても森。
右も。
左も。
前も。
木しかない。
少し離れた場所では、見たことのないほど大きな葉が風に揺れている。
聞き慣れない鳥の声が頭上から響いた。
その瞬間。
ガサッ。
「――っ!」
身体が跳ねた。
反射的に音のした方を見る。
茂み。
何かいる。
「…………」
心臓が一気に速くなる。
熊。
最初に浮かんだ。
もし熊だったらどうする。
走ったら駄目なんだっけ。
目を合わせたら駄目?
背中を見せるな?
「どれだよ……」
小声で呟く。
茂みがまた揺れた。
ガサガサッ。
「……っ」
一歩下がる。
逃げるなら遺跡。
最悪、中へ戻ればいい。
暗いけど、少なくとも狭い通路なら大きな動物は入りにくい。
俺は出口の位置を確認する。
茂み。
遺跡。
距離。
走れば数秒。
「…………」
息を殺す。
次の瞬間。
茂みから何かが飛び出した。
「うわっ!」
思わず腕で顔を覆う。
何かが目の前を横切った。
バサバサバサッ――。
「…………鳥?」
木の枝に、小さな生き物が止まった。
鳥。
たぶん。
「……なんだよ」
全身から力が抜ける。
「ビビらせんなよ……」
胸を押さえる。
本気で心臓が止まるかと思った。
「鳥くらいで……」
情けない。
そう思いながら、枝の上を見る。
「…………ん?」
少し変わった鳥だった。
見たことのない色。
見たことのない形。
でも。
「まあ……鳥なんて全部知ってるわけじゃないしな」
知らない種類なんだろう。
日本にだって、俺が知らない生き物なんていくらでもいる。
何でもおかしいことにするな。
自分にそう言い聞かせる。
今必要なのは、人を探すことだ。
ここがどこなのか。
どうやって帰ればいいのか。
それを聞ける相手を見つけないといけない。
「……道、探すか」
問題は、どっちへ行くか。
俺は周囲を見渡した。
闇雲に森へ入るのは危ない。
遭難した時はその場から動かない方がいい。
そんな話も聞いたことがある。
でも、誰かが俺を探している保証はない。
そもそも俺がここへ来た方法すら分からない。
「どうすりゃいいんだよ……」
考える。
空。
地面。
木。
植物。
何かないか。
人がいた痕跡。
道。
煙。
音。
何でもいい。
「…………」
少し離れた場所まで歩き、地面を見る。
草が生い茂っている。
こっちは違う。
別の方向。
「……あれ?」
しゃがみ込む。
地面の一部だけ、植物が少ない。
獣道かもしれない。
人が通った跡かもしれない。
どちらかは分からない。
「これを道って決めつけるのは危ないよな……」
立ち上がる。
周囲も見る。
確信はない。
でも、何の手掛かりもない場所へ突っ込むよりはマシか。
俺は振り返った。
巨大な遺跡が、木々の向こうに立っている。
ここを離れていいのか。
一瞬迷う。
戻れなくなったら?
「…………」
スマホを取り出した。
遺跡の外観を何枚か撮る。
周囲の特徴も。
進む方向も。
役に立つかは分からない。
でも何もしないよりはいい。
「よし……」
大丈夫。
少なくとも、今のところ怪我はない。
歩ける。
スマホもまだ使える。
水も見つけた。
出口も見つけた。
一個ずつだ。
「……行こう」
誰に言うでもなく呟いた。
森へ足を踏み入れる。
一歩。
二歩。
振り返る。
遺跡はまだ見える。
もう少し進む。
また振り返る。
「…………」
怖い。
当たり前だ。
どこかも分からない森の中を、一人で歩こうとしている。
怖くない方がおかしい。
でも。
ここで待っているだけじゃ、何も分からない。
俺は前を向いた。
この時の俺はまだ、
自分がどこにいるのかも。
あの遺跡が何なのかも。
この森の先に何があるのかも知らなかった。
ただ一つだけ分かっていたのは――。
「……帰りてえ」
心の底から出たその一言だけだった。
そして俺は、
人の姿を求めて、深い森の中へ歩き始めた。




