第七話 温もり2
******
ほんのりと甘い匂いがする。
(なんだろう。どこかで嗅いだことがあるような……)
夢現のなか蝶子は、その香を懐かしいと感じた。そして、どれだけ眠っただろうか。夜間に、蝶子は、ぱちりと目を覚ました。
(えっ。……)
瞳に飛び込んできたのは、氷雪と童子たちだった。
部屋の四隅に設置された行燈に、淡く照らされながら、こくり、こくりと氷雪は船を漕ぎ寝ていた。
その膝や傍らには、ぴー。ぷー。と鼻提灯をつくりながら、童子が腹を向けて、すやすやと眠っている。よく見ると蝶子の布団にも、凭れかかるように、童子たちが、行儀悪い体勢で寝ていた。
(どうしてここで、みんなで寝ているのかしら)
不思議に思いながらも、ようやく頭がガンガンしていることに気が付き、体も怠く重かった。
(わたし……)
目を泳がせると、枕元には木桶があり、額には濡れタオルが置かれ、氷枕で頭を冷やされていた。ふかふかのお布団は三段も被され、暑いくらいだった。
なんてことだろう。風邪を引いて寝込んでしまったようだ。
起きなくては。そう思うのに、体が思う様に動かない。
「すー」
氷雪の息遣いが聞こえてきた。蝶子は、見入ってしまった。
手を差し出せば触れる距離にいる。
こんな風に、体調の悪いときに誰かが側にいたことは、いつぶりだろうか。
今までなら病気でも働かないといけなかった。
『──体調が悪い。それなら寝ているといい』
一度だけ、微熱が出て奥様に懇願すると、真冬に藁小屋に放り込まれたことがあった。酷く寒く。さらに熱があがり、凍えて死ぬかと思った。あれ以来、どんなに体調が悪くても隠し、働いた。
ばれないように、咳を我慢し、ふらつかないようにした。
『いっちょまえに、風邪など引くなんて、薬なんてないよ。自力で治しな。それか、死んでおしまい』
風邪だと気づかれたときは、そう言われたことは、沢山あった。
──蝶子は火照りながら氷雪を凝視した。
頭に置かれた氷枕が、軽く身動ぎするとガラリと音を立てる。氷雪は、真下の畳に顔を向けて、居眠りをされていた。
まさか、こんな風に看病されるなんて、労ってくれるなんて思いもしなかった。
童子たちの、ぴー。ぷー。と間の抜けた寝息が愛らしい。蝶子は戸惑った。
死ぬだけだったのに。死すら望んでいたのに。
ふいに、氷雪の肩から銀糸のような綺麗な髪が流れ落ちた。すると蕾が開くように氷雪の瞳がゆっくりと目覚めた。
「…蝶子」
目が合う。氷雪は立ち上がろうとした。しかし足元に童子たちがいて、身動きができないようだった。
「なんで、お前たちまでここで寝ている……。まあいい。蝶子、調子はどうだ」
蝶子は、はっとする。
「申し訳ありません。すぐに起きます。なにとぞ」
「よい。寝ていろ」
「でも」
「体を休めろ」
起き上がろうとする蝶子に氷雪は顔を顰め、強く言った。蝶子は潤んだ目で、ぱちぱちと何度も瞬きをする。
そんなことを申す人など、奉公先ではいなかった。蝶子は困惑しながらも体の力を抜いて、布団に沈んだ。
(寝ててもいいのだろうか)
呼吸が乱れる。それなのに、心に軽さがあった。
こんなに高熱を出したのは初めてだった。きっと、これが村だったら、働かされ、そこいらの道端で、野垂れ死んでいたに違いない。
「わたし、ごめんなさい」
「なぜ、謝る」
「……」
「吐き気はないか」
「……はい」
蝶子は申し訳なくて、いつものように謝るが、氷雪は叱るでも無く、労わられ、蝶子は慣れず戸惑った。
なぜ、このように看病をしてくださるのだろうか。
蛇神様が人間を労うなど聞いたことがない。
水色の透き通る氷雪の瞳が、心配げに蝶子を伺う。
氷雪とはいったい、どんな神様なのだろうか。
蝶子が見つめ過ぎてしまったのか、氷雪の白い手が、すっと、伸びてくる。条件反射で蝶子は目を瞑る。待てども、なにも起きず、そっと目を開ける。氷雪の手は、蝶子の傍らにいる童子を揺すり起こしていた。蝶子に向けられた手だと勘違いした。
「おい。起きろ。蝶子の額のタオルを、水に浸け替えてやれ」
「むにゃ。むにゃ」
「よに」
よに、と呼ばれた童子が目を擦りながら、目を覚ました。「もう、なに」と言いながら上体を起こし、足を投げ出した体勢で、ぼんやりと蝶子と目が合った。と、弾かれたように
「あっ。蝶子。起きた」
と言った。その言葉を合図に「えっ」「えっ」と次々と童子たちが目を覚ます。童子たちは寝ぼけながらも蝶子の回りに集まる。
まるでダンゴムシに囲まれているみたいだと蝶子は思った。
「「蝶子。大丈夫」」
「……うん」
童子たちは、眉をハの字にして、心配げに見上げた。
蝶子はくすぐったさを隠しながらも頷いた。
童子たちも氷雪と同様に、蝶子を心から心配しているようだった。
これ以上、心優しい方々に心配をさせてはいけない。
働かねば。
「もう、大丈夫です。明日には……」
「まだ駄目だ。しっかり寝ろ。それから薬を飲め。誰か飲ませてやれ」
氷雪は蝶子の言葉を遮り、眉間に皺を寄せた。
躊躇いなく、蝶子のような者に、薬を飲ませようとする氷雪に、蝶子は焦った。
乾物の漢方薬は高価だ。甘草、芍薬、桂皮など多種多様な漢方薬はあるが、どれも百姓の者が簡単に手に入る代物ではない。薬門屋で買えるのは武家や、金回りのいい商家ぐらいだろう。
蝶子は視線を彷徨わせて動揺した。
「そのような高価の物を」
蝶子の否定を促す言葉に氷雪は、鋭く瞳を光らせた。腕を組みジロリと蝶子を睨む。蝶子は居たたまれなくなり、首までお布団を引き上げた。
氷雪は無言で飲め。と言いたげだった。その圧が、ひしひしと感じ取れて、蝶子は、蛇に睨まれた蛙とは、こんな感じだろうと思った。




