第五話 蛇神様の住処3
蛇神様の眉間に、青筋が浮きあがる。
「違う。お前たちの言う贄は、死を意味する」
「はい。わたしは喰われるのだと」
「馬鹿な。そんなわけないだろう」
しかし、蛇神様から嫁にと、お告げがあったと──そこまで考え、生贄として、とは発言されていないことに、思い当たる。
「ですが」
「お前は、嫁だ。俺の」
蝶子は瞳をパチクリとさせた。
(それは喰わず、殺されないということでしょうか?)
村のために死んでくれと、公言され、それが蝶子の使命だった。
「あの……雨は……」
「身勝手な奴らのことなど、無視しろ。なぜ、奴らの言い分を、受け入れる」
これほどまで蛇神様が、ご立腹されているのはなぜだろうか。
『喰われることが、お前の出来る、唯一のことだ』
そう、村長様に言われた。
皆が、望んでいる。
それなら、それでいい。
特に彼らのために、身を粉にしたいわけでもない。ただ、何も考えたくもなかった。必要だと言われれば、やるだけ。
「お前は、贄のままでもいいのか」
蛇神様に問われ、否定する気も起きない。
「はい」
蝶子は半笑いをして、顔を伏せると、ハラリと長い髪が滑り、顔の半分を覆った。
もう、どうでもいい。
すべてのことは、虚無でしかない。
「お前は……」
(どうして、蛇神様が、お辛そうな、お顔をされるのだろうか)
表情こそあまり変化はないが、蛇神様は眉をひそませ、唇を軽く噛み、しかめ面を向けていた。
「なぜ、すべてのことを諦めている」
(なぜ?)
問われ、もしもそうならば、きっと、両親が死んでからだろうと思った。
あんなことがあったから。
蝶子は思い出しかけ、頭を振り、気を散らした。
その様子を険しい表情をして、蛇神様が見下ろした。
「お前には呪いが掛かっている」
蝶子は首を傾げる。
「呪いのせいで、お前は、お前でなくなっている」
理解が追いつかない。
「わたしなど、居ても居なくても、変わらない存在です」
煩わしいとでも思ったのか、蛇神様は、さらに強く眉間を寄せた。
「そう言われ続けたか。言葉の呪いが掛かっている」
蝶子は意味を考える。
それすら面倒だったが、ふと、思いだされるのは、奉公先の村長様の家で、奥様とご令嬢の夏子に折檻されたことだった。
『お前など、役立たずな穀潰しでしかないのに』
『蝶子なんて大層な名前つけられて……お前など、この蚕と同じ、サナギの中で煮られ、死んでいく、蝶と変わりゃしないのよ』
棒の鞭で背を叩かれ、蝶子は養蚕場で、痛みに耐えながら、自分の置かれた立場に納得する。
『どこからか、でたらめが領主様のお耳に入ったのか、この村に美女がいるなど、それが、お前なわけがあるはずがないのに』
ばしりと叩かれ、夏子お嬢様の言う通りなのに、なぜ、怒っているのだろうかと思った。
その日は、確か領主様が、なにやら突然、こんな辺境の村に訪れるとされ、村をあげて歓喜していた。特にこの家の奥様とご令嬢の夏子は上機嫌でいたのに。
蝶子を、この蚕室に閉じ込め。領主様が来られた。蚕室の窓からは、賑やかで、陽気な声が聞こえた。
蚕室の薄暗い部屋で、かさかさと葉を食む音だけを聞いて時間が過ぎる。
ふと、物陰から窓の外を伺うと、なぜか領主様は、がっかりしたように帰って行かれた。領主様、御一行が去ると村の人たちから笑顔が消えた。
奥様と夏子お嬢様はお怒りになり、蚕室に訪れると、どういうわけか、折檻が始まった。
どうやら、夏子お嬢様は、あわよくば領主様の女中にしてもらい、娶られる魂胆だったらしい。それが砕かれて蝶子に当たり散らした。
『お前のような者が幸せになんかに……させませんは。お前のはずがない。だからこうして閉じ込めたのに。ああ、憎たらしい。いい。お前は死ぬのよ。ここで。蚕のように……主に飼い殺されてね』
ばしりと叩かれ、蝶子は頷いた。
『お前に、価値など無い』
何度も、耳が痛くなるほど、ずっと聞いていた言葉。
無価値な蝶子。
羽ばたくことも出来ず、サナギの殻の中で死んでいく蚕は、蝶子その物だった。
──呪いではない。それが真。
無用な蝶子。
蛇神様は蝶子を見透かすように、じっと見つめてくる。澄み切った水色の瞳は、まるで清水のようだった。
「お前の瞳は、辺りを見ているようで、何も見ていない」
(なにを仰せになっているのだろうか)
「俺を見ろ」
どういうことだろうか。
「俺だけでいい」
見ているのに、見ていない、と仰せになる。
しだいに焦れてなのか、白い手が伸びて来て、蝶子は咄嗟に目を瞑り、身を縮こませた。ところが待ても、殴られることは無かった。
長い沈黙。
蝶子は目を開く。蛇神様が蝶子の前髪にそっと触れた。瞳を泳がせ、蝶子の前髪を掻き分けた。瞳が、かち合い。息が一瞬止まる。蛇神様の紅い唇が近づいてきて──ちゅっと、額に冷たくて柔らかな感触が掠めると、微弱の爽やかな甘い芳香がして、離れていった。
「俺の名は、氷雪。お前だけに、真名を呼ぶ権利を与える」
いま、何が起きたのだろうか。
蝶子は呆然とした。氷雪の眉目秀麗の顔を見て、唇を見る。
ようやく額に口づけをされたことに気がついた。
なぜ?
照れよりも先に、蝶子の思考が硬直した。
瞬きも忘れ、蝶子は失礼ながら、じっと氷雪を見つめた。
その刺す視線に耐えられなくなったのか、氷雪は、そっぽを向いて立ち上がる。
蝶子は、それでも氷雪を目で追った。氷雪の後頭部が見える。
氷雪は立ち尽くしていた。と、唐突に氷雪は言った。
「あれは何だ」
あれ、とはと思い蝶子は氷雪の目線を追った。壁を見ている。壁の隅には衣桁に掛けられている白無垢がある。衣桁は着物を掛ける道具。
白無垢は氷雪が、嫁ぐ蝶子に贈った物。あれは何だ。と聞かれるのは可笑しなことだ。
答えに窮していると、氷雪は白無垢の下を指さした。上質な黒漆の箱だ。そのなかには。
「栞です」
「見ればわかる」
蝶の絵柄を施した黒漆の箱の中には、くたびれた一枚の栞が置かれていた。
氷雪は無愛想に答え、蝶子は少し不快に感じた。
わかっているのならば、なぜ、聞かれたのだろうか。
どうして持っているのか? と聞いているのだろうか。
どう答えていいかわからず、考えた末、蝶子はぽそりと、こう口にした。
「わたしの唯一の宝物です」
「……白牡丹の花びらの栞か」
「はい」
蝶子が自分で作った花びらの栞だ。しかし、すでに赤茶けた花びらだったので、よく白牡丹だとわかったものだと、蝶子は感心した。
「そうか」
氷雪はどう納得したのか、呟くと着物の袖を翻して部屋を出て行った。蝶子はしばらく、出て行かれた襖を見つめた。
何がしたかったのだろうか。
嵐のように通り過ぎ、順応が追いつかない。
自分は贄だったはずなのに。
蝶子はへなへなと布団にうつ伏せで倒れた。どっと疲れが押し寄せて来る。
そこに、姿なく、ふふふっと童子たちの声が木霊した。
悪戯なのか、どこからか、シャボン玉がふわふわと飛ぶ。それを眺めて、ほうっと息を吐く。
酷く額が熱い。燃えるように。
(わたしは、このまま、ここにいていいのでしょうか)
思いもよらず、神様の住み処に留まることになり、困惑した。
いつまでも燃えるように額が熱い。
ほんの一瞬、氷雪の唇が触れた額。熱くて。熱くて。
蝶子は、そのまま高熱を出し、一週間ほど寝込むことになった。




