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第四十話 知らざること1

 「母さん。母さん」

 

 氷雪は亡き母の夢を見ていた。


「普通の子に産んであげられなくて、ごめんね」


 母の口癖だった。

 そんなこと、どうでもいいのに。


 村の連中は氷雪の白い髪を奇異な目で見ていた。ときに、人の死を予言する氷雪に村人は畏怖し”死に神”だと罵り、氷雪を避けた。くわえて、淡く色素の薄い水色の瞳を気持ち悪がった。化け物だと石を投げつけられることもある。


 母はそれを気に病んでいた。

 ときどき、父の家系には、そういった容姿の者が産まれると耳にした。霊力が強く、時代によっては崇められることもあったが、氷雪は逆に虐げられていた。


 実の父は、まるで空気のように氷雪を見ない。怪我をしていようが、罵倒されていようが、父の目に氷雪は映らない。しかし、病気のときは氷雪の前に訪れることはあった。否。死にそうなになると。っと言った方が正解かもしれない。


 大怪我だろうが病だろうが、死の淵に陥りそうになると、父は様子を見に来た。


「死んでもらっては困る」


そんなときは、蔑んだ瞳で父は氷雪に言い。母を管理不届きだと、酷く叱った。

 散々、母を罵ったあと「ふん」と見下す父が嫌いだった。


 普段、空気扱いをするくせに、氷雪の死を父は許しはしなかった。あのころの氷雪は、それがわからなかった。父からの愛情など、一度も感じたこともない。幼少のころは父からの愛情を期待したこともあるが、氷雪が八歳になるころには諦め、嫌悪すらしていた。


 それなのに、父は氷雪を死ぬことだけは気に掛けていた。不思議でならない。


「氷雪」


 母は空咳をして氷雪を呼んだ。十歳の氷雪は布団に寝かされた母のもとに歩み寄った。近頃、母は体を崩すことが増えた。度重なる侮蔑と疲労が、蓄積しているのだろう。青白い顔に、線の細い体躯。氷雪は心配でならなかった。


「母さん、寝てて、家のことは俺がするから」


 母は、それでも寝床から起き上がろうとして「ごめんね」と謝る。

 氷雪は母を布団に戻す。

 謝らなくてもいいのに。


 母は鈴のような人だった。ちりちりと澄んだ心の持ち主で、自分の主張は控えめ。気がつけば、そっと寄り添ってくれる。気弱であって、芯は強い。氷雪のなかの母はそういう人だった。


「この怪我はどうしたの」

「なんでもないよ」


 母は氷雪の頬の縦傷を見て撫でた。近所の悪餓鬼に、化け物と罵られ、引っかかれた傷だ。

 母は悲しげな表情をして、黙って氷雪を抱きしめた。


 小っ恥ずかしいが、氷雪は母に抱きしめられることが好きだった。柔らかくて温かな母に安堵する。この温もりさえあれば、他は何もいらなかった。


 けれど、あの悪夢の夜が来る。

 母との穏やかな日々は、あの夜、失われた。父の手によって。

 やっと、父が私的に氷雪が死ぬことを許されなかった理由を知った。


「氷雪、氷雪」

「母さん」


 土足で離れの家に訪れた父と従者が、眠っていた氷雪を捕らえた。乱暴に手を引かれ、嫌がる氷雪を殴り、引き摺った。

 父は贄になれと言った。


 贄として死ぬ定めだから、生かされていた。

 氷雪の中に父への憎悪が膨れ上がる。山を登り、蛇塚に辿り着くと、父は氷雪を蛇塚に突き落とした。なんの躊躇いもなく。


「母さん」


 氷雪は叫んだ。蛇の息遣いが数多に響く。手足に、体に、頭に、首に蛇は絡みつき、絞めつけられた。


「氷雪。氷雪。いやぁあああ」


 母の悲鳴混じりの声が木霊する。

 苦しい。息が出来ない。

 首が絞められ、窒息して、氷雪の意識が消えていく。


 死ぬなか、洞窟の底から氷雪は朧気に空を見上げた。

 空高く登った満月が見えた。

 氷雪は、手を伸ばす。決して掴むことの出来ない満月に、手を差し出した。

 母さん。


──氷雪は、ぱちりと目を開けた。手には蝶子の手が握られていた。


 まるで、あのとき差し出した手を握ってくれたような錯覚がした。


 蝶子は腫れぼったい目で、小さく寝息を立てていた。氷雪は首を巡らせた。揺り篭に寝かされていることに、困惑する。どうやら、とんでもない失態をしてしまったようだ。


「雪」


 童子たちが氷雪の元に集まってきた。氷雪は居たたまれなくなり、掛けられている上布団を頭まで被った。


「雪、雪。えっと」

「体調はどう」

「……」

「雪ってば、なんか喋って」


 童子たちの様子が、何か悪いことをしたときの声だと気が付き、氷雪は布団のなかで、くぐもった声を発した。


「話しやがったな」

「……」


 そうでなければ、蝶子がずっと手を握って、氷雪の側にいるはずがない。

 ずっと、隠し通すつもりだったのに。

 童子たちは開き直り、氷雪の被った布団を奪おうとする。しかし、氷雪は布団を離さない。


「だってね」

「いいじゃない。うじうじと陰で悩んで落ち込んでいるより。さっぱり。すっきりしたでしょう」

「そうそう。みっともなく、悩んでるより、いいよ」


 誰がみっともない、だ。

 と反論したいところだが、この有様で口答えも出来ない。

 氷雪は、おもむろに布団から出る。布団を引っ張っていた童子が反動で尻餅をついた。


「痛い。もう、すねないで」

「ふん」


 氷雪は口を尖らせると、温かく握られた手を見て、眠る蝶子の横顔を見つめた。


 その頬に触れようとして、引っ込める。童子たちは目を細め、意気地無しと言いたそうな視線を送るが、逸らし、手をそっと離した。


 氷雪が寝かされていた祭壇は、膝ほどの高さがある。蝶子は膝立ちをして、上半身だけを祭壇に預けて眠っていた。


(こんな体勢で寝ていては、辛かろうに)


 何時、この体勢でいたのだろうか。

 氷雪は祭壇から下りると、蝶子が起きないように、抱き抱えた。柔らかな髪が氷雪の唇に掠め、心が疼く。己の手のなかに蝶子がいることに至福感に満たされる。

 しかし、それも……。


「蝶子の寝床に布団の用意を」


 童子たちに言い、氷雪は蝶子の寝室に向かい寝かせてやる。しばらく、蝶子を眺めたあと、氷雪は席を立った。廊下を歩き、中庭へと向かう。


 童子たちは止めなかった。向かった先は、あの場所だとわかっているからだろう。

 氷雪の脳裏に子供のころの蝶子が幾つか浮かんだ。

 蝶子は知らない。氷雪が何度も会いに行ったことを。


 父親の鷹狩り訓練について行き、迷子になった蝶子。人里離れた山の獣道で体を縮込ませてしゃがむ蝶子に、氷雪は、村の山菜採りを装って近づき助けてやった。あるときは、人混みの多いお祭りで怪我して、泣いている蝶子を解放してやった。そういえば、近所の餓鬼大将と喧嘩して木登りで勝負をしている蝶子だったが、手が滑り、落下してきたところを氷雪が助けてやった記憶もある。


(子供のころは、かなりお転婆なところがあったからな、蝶子は)


 目が離せなくて、そのくせ、毎度姿形変えた氷雪を見ても、怖じ気づくこと無く笑い、膝に抱きついた。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 変わらない温もり。

 両親の死がなければ、悪霊として襲われなければ、啓太に狙われなければ、きっと、蝶子は幸せな人生を送っていただろう。


 しかし、あんなことがなければ、氷雪が蝶子を嫁にすることもなかった。出来なかった。氷雪は人ではないから。


 嫁いだときは、どうしたものかと思うほど、氷雪に怯えていた。そのくせ、無気力ですべてを受け入れ、人形のように感じた。

 感情を引き出したいと思った。昔のように。

 そうなった、今──。


 氷雪は中庭へと辿り着いた。下駄を履き緑色の紅葉の木を眺める。

 蝶子が嫁いでから、よく、この木から蝶子を眺めた。蝶子は癖のように帯に触れ、時には、栞を出しては眺めていた。


──白牡丹。

 ずっと、持っていてくれたのだな。

 大切そうにしている蝶子を見ると、沸き上がる幸福感があった。

 決して良い思い出はなかっただろう。


 蝶子の両親が悪霊となったとき、両親は蝶子を襲い、氷雪が助けた。


 雷に打たれた両親を見て、泣き叫ぶ蝶子。血と雨で濡れそぼるなか、真っ白の牡丹を蝶子に贈った。蝶子は空から降ってくる白牡丹を掴むと、胸に抱いて絶叫した。

 そのとき、誓った。


『蝶子。大丈夫。助けるから、必ず』


 激しい雨音のなか氷雪は、そう言う。しかし、蝶子の耳に届いたか、わからない。否、覚えていないだろう。それでも、贈った白牡丹を栞にして、大切にしてくれていた。愛しさが込み上げる。


 氷雪は紅葉の木から目を離し、中庭の奥へと向かった。

ふわりと花の匂いが香る。


 いつから。

 氷雪は晴れた空を仰いだ。

 蝶子が大人になり、触れたいと思う衝動に駆られたのは、いつからだったのか氷雪は、もう思い出すことができなかった。


 目的の門に辿り着く。重たい門扉を、ぎぎっと開いた。

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