第三十九話 氷雪の幼き過去3
──蝶子の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「氷雪様は……」
(実の父親に殺されたのですね)
蝶子の唇が震るえて、それ以上の言葉が出せなかった。
どれほど辛い思いをされたのだろうか。
どれだけ傷つき、絶望したのだろうか。
酷すぎる。
父に裏切られ、母と引き離され、たった十歳の子供が。任を背負うには重すぎる。
(氷雪様には何の罪もないのに)
蝶子の目から、とめどなく涙が溢れた。
「いいこ。いいこ」
童子たちは、眠る氷雪の頭を、よしよしと撫でてやった。さんねは目元を赤らめている。
「雪は、あのまま蛇に絞められて死んだの。そして、魔となった」
「魔?」
蝶子は驚いた。魔とは神とは正反対の者のはず。
氷雪は神だ。
なぜ、神では無く、魔なのだろうか。
童子たちは、試すような目を蝶子に向けた。あれほど氷雪を嫌わないでと言っていたのだ。氷雪にはまだ、とんでもない過去が隠されているのだろう。
「嫌いには、なりません」
蝶子はきっぱりと答えた。
にねは深呼吸をすると意を決して、口を開いた。
「月下の紅血」
「えっ」
蝶子はきょとんとした。月下の紅血。村の言い伝え。
その昔、月明かりが照らすなか、一匹の大蛇が無差別に人を襲い、一夜にして村を壊滅させた。その一夜を、月下の紅血と言われた。
村の子供達は、悪いことをすると大蛇が村を訪れるぞと、脅されて育ったのだ。
「それは昔語りの、伝説でしかないのでは」
童子たちは首を横に振った。
「雪は殺されたけど、その魂魄は、憎しみがいっぱいで、逆に蛇たちを飲み込んだんだ。そして魔性となった。父を怨み、村人を怨み、怒りにまかせて村を襲い、一夜にして村を殲滅させたの。血の海となった悲劇を、近くの村の連中が、そう呼ぶようになっただけ」
想像を超える氷雪の過去に蝶子は絶句した。
「蝶子、怖い?」
「……いえ。驚いて」
しかし、そんな魔となった氷雪が、なぜ神になったのか。
「雪は、その村だけでは収まらなかった。だから外法師が現れ、雪を塚に封印したんだ。祟りは祀ることで鎮圧させられる。そのまま氷雪は、魔から転じて無理矢理に、神とさせられた」
(無理矢理)
てっきり、自分の意志で神になったのだと蝶子は思っていた。
「雪は封じられて抗っていたけど、生き残らせた、雪の母に毎日「怨みを捨てて神として生きて欲しい」と言われては、氷雪は抗えなかった。そのうち、母と外法師が添い遂げ、この村は母の血を受け継いだ子孫で成り立ったんだよ」
「では、この村は」
「うん。雪の血縁者たちだよ。遠いけど、啓太もそう」
「あれから八十年。雪は母のために、義理で、ずっとこの村を守っていた。でも」
「でも、なんですか。これ以上、氷雪様に、なにかあったと言うのですか」
「因縁って引き寄せられるものなのかな? ある日、父の生まれ変わりが村を訪れてしまったんだ。そして、雪の憎しみが蘇った」
蝶子の心臓がどんどんと五月蠅く騒いだ。
「すでに雪の母も、とっくに他界している。村を守り続ける義理も無い。雪はどうしても父親を許せなかった。役目も偉功も捨て、雪は神の領域から飛び出した。殺すつもりで山を下ったんだ。そこで出会った。六歳の頃の蝶子に」
「えっ」
そういえば、ひとにも、そんなことを言っていた。
(あれは、父親の生まれ変わりを殺そうとしていた)
「私たちは雪を止められなかった」
「でも、蝶子は屈託なく笑って、触れて、そして雪に白牡丹を贈ったんだ」
「あのときの雪は綺麗な心だなんて言えなかった。でも蝶子は、雪のこと、白牡丹のように綺麗だって、言ってくれた」
子供のころの蝶子は、そんなことを思ってあげたわけではない。
ただ、なんとなくあげただけだろう。
「雪に優しくしてくれた人は、母親だけだったから」
蝶子の胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
人を怨み、人を殺め、一度は魔となった氷雪。
「神とは名ばかりで、この手は血で染まっている。雪はよく言ってた」
「蝶子に会った、あの日、雪の憎悪は砕けたんだ」
「あのまま父の生まれ変わりを殺めていれば、我を失って荒神になってたと思う。それでも構わないと思った。雪が気が済むなら。ぼくたちも一緒に落ちようって」
「でも、蝶子が引き留めてくれた。小さな手で」
ただ、笑っただけ。
ただ、触れただけ。
ただ、白牡丹を贈っただけ。
「あれから、蝶子を見守って、空っぽだった雪の心は救われていった。ぼくたちが居ても、雪は、ひとりぼっちだったから」
童子たちは雪の過去を語り、ポロリと涙を流すと、氷雪の頭を撫でた。
「あなたたちは?」
「ぼくたちは、異母兄弟。雪は、ぼくたちの弟なんだ」
「ぼくたちも父親に捨てられ、贄として蛇のなかに投げ込まれた子供だよ。そのなかで残っていた魂の欠片を雪は見つけ出して、受け入れてくれた。神力を使って、子分として十三人顕現させた神使。それがぼくらだよ」
「氷雪は、ぼくたちの心ごと、受け入れてくれたんだ」
蝶子はたまらず、氷雪の手を離し、童子たちを抱きしめた。童子たちは一瞬、きょとんとしたが、蝶子の頭や肩や背を、よしよしと撫でた。
「ううう」
涙がとまらない。
どちらが慰められているのかわからない状態だった。
こんな小さな子供を殺めるなど、怒りすらこみ上げる。童子たちは、なんてこともないと言いたげに微笑んだ。
「蝶子、いてくれてありがとう」
礼など不要なのに。
存在価値など、とっくに無いと思っていた。生きている価値すら無いと、ずっと思っていた。
「蝶子、側にいて。氷雪の」
「氷雪を、ひとりにしないで」
「お側にいます」
こんな蝶子でもいいなら。氷雪の側に。




