第三十五話 決戦3
「こんな物まで、飼ってやがったのか」
鼠の息遣いが聞こえてくる。大群になると呼吸音すら危機感が迫る。蝶子は固唾を呑んで氷雪を見守った。氷雪は剣先を迫り来る旧鼠に向けた。
「無駄な力を持っているな。忌ま忌ましい」
「どうも」
啓太は遊びでもするような口調で言い、氷雪は眉を引き攣らせる。
啓太の飼っていた悪霊を、いとも簡単に退治した氷雪だ。大群とはいえ、旧鼠に苦戦するようには思えない。啓太は少しずつ氷雪に力を使わせて、余力を削ぐ作戦に出たのだろう。
神力は確実に減っている。腕を裂いた鱗が物語っている。獲物を捕らえる猫のように啓太は氷雪をいたぶるに違いない。
ところが
「蝶子。おいで」
「えっ」
夥しいほどの旧鼠は、氷雪では無く、方向転換すると蝶子を囲った。足元から旧鼠が這い上がる。
「しまった」
「逃げて、蝶子」
氷雪は振り返り、ひとにが叫ぶ。だが、もう蝶子は動けなかった。蝶子は肩の子蛇を掴み、安全な所に放り投げようとして、止まる。
(安全な所がない)
足の踏み場も無いほど旧鼠に取り囲まれている。投げた途端に、旧鼠に、ひとにが殺されてしまう。蝶子は奥深く懐に、ひとにを仕舞った。
何万とゆう旧鼠が這い上がり、蝶子は胸を交差して、ひとにを庇った。
「蝶子」
氷雪は身動き、とれずにいた。
(わたしのせいで、氷雪様に迷惑が)
「はは。油断したね。僕の狙いは蝶子だよ。おいで、蝶子」
啓太は初めから蝶子を狙っていたのだ。蝶子さえ手元に入れば、氷雪が手出しできないと踏んだのだ。
夥しい数の旧鼠に全身を覆われ、蝶子は抗えずにいた。とてつもない力が加わり蝶子の体が浮く。足の裏には、旧鼠。小さな体躯が蝶子を持ち上げた。
足元が蠢き、運ばれ、啓太の元へと向かった。
「やっと、僕の物になる。おっと動くなよ。僕は蝶子の死体だろうと愛せるんだ」
氷雪が刀を握り直したとき、蝶子の首元までも、旧鼠は這っていた。このまま首を絞めることも、口を塞いで息を塞ぐことも出来る。蝶子は己の迂闊さに嫌気が差す。蝶子はかろうじて見える旧鼠の隙間から氷雪を見た。
「氷雪様、私ごと、首を切り裂いてください」
蝶子は氷雪に叫んだ。氷雪は、即座に刀を下ろした。
「もう十分です。氷雪様。わたしなんかのために、これ以上、傷を負うことはないのです。だから」
「切らない」
「氷雪様」
氷雪は首を横に振る。
「わたしの様な者は、お捨て下さい」
「捨てるものか」
絞り出す声で氷雪に言われ、蝶子の胸が苦しくなる。
蝶子の頬に涙が伝う。
(わたしが生きているかぎり、啓太は諦めない。わたしが生きているかぎり、氷雪様は守ろうとする。氷雪様を死なせたくない)
「捨てて」
「俺を思うなら……」
蝶子の言葉が終わる前に、氷雪は悲痛な眼差しを向けて言葉を遮った。
雨がシトシトと蝶子の頬を伝い流れ落ちていく。
「俺の側に……いてくれ。頼むから。今は、今だけは」
切なる叫びに、蝶子の心臓が跳ね上がる。
側にいて欲しいと。
(わたしの様な者に)
ちっぽけな存在に。
(側にいて欲しいと)
蝶子の唇が震える。
(あなたの側に、いたかった)
「ははは」
啓太は高笑いする。距離は藁人形に巻かれた数本の髪毛が確認できるまでに迫っていた。蝶子は藁人形を憐れみを帯びた目で見上げた。
「啓太。一緒に死のう。それじゃ駄目」
藁人形は、びくりとした。
「一緒……に」
藁人形は怯んだように呟き、動かなくなる。蝶子は頷いた。
「蝶子」
氷雪が叫ぶ。
と、足元が発光した。眩しさに目を細め地面を見ると、丸い円陣があった。魔方陣。
氷雪は憤怒の形相で、刀先を天に指す。すると、同じ位置の上空にも魔方陣が光り、出現した。二つの魔方陣は、ぐるぐると回転する。
啓太の一瞬の隙をついて氷雪が攻撃を仕掛けて来た。
上空の魔方陣から、大きな尖った鼻が、ぬっと出てきた。長い髭。紅珊瑚色のい目。太く長い銀色の体躯、氷結の竜。パキパキと音を立てて、上空からゆっくりと、体躯をくねらせ下りてくる。氷結の銀の欠片が、パラパラと光りながら落ちる。
天地をも操る神の業。これが氷雪の力。
竜は口を開き、銀の雷を四方に放った。雷は森一帯を走り抜け、旧鼠が感電し、飛び跳ね、炸裂し、消滅した。蝶子には傷一つない。ふらりとしながら、蝶子はなんとか、その場に立った。
「油断したな。啓太」
氷雪は、凍てついた笑みを浮かべた。
「うわあぁぁ。痛い。蝶子。痛いよ」
啓太は叫んだ。
「啓太……」
蝶子は戦慄く藁人形を凝視した。哀れな幼馴染み。もしも啓太と蝶子が出会っていなければ、こんなことにならなかったかもしれない。
蝶子は思い、掌を握り締めた。
そこに、胸元がモゾモゾと蠢き、ぷは、と、ひとにが懐から顔を出した。
「蝶子、今のうちに雪の元に」
蝶子は、はっとする。
氷雪を見つめ、もう一度、啓太を見てから、蝶子は走った。
「蝶子」
啓太の悲痛な叫びが聞こえる。ツキリと胸が痛くなる。
「行かないで、蝶子。蝶子」
声を聞きながら蝶子は振り切り、一直線に走る。氷雪のもとへ。
「蝶子」
「氷雪様」
蝶子が近寄ると、氷雪は片方の腕を蝶子の後頭部に回し引き寄せ、胸に納める。
胸に抱かれると、氷雪の体温。鼓動。香りが広がり、蝶子は安堵し、氷雪の背に手を回した。しばし抱き合う。氷雪の手が緩む。
「蝶子。少し離れていなさい」
「……はい」
蝶子は臆すること無く頷いた。
氷雪は刀剣を構える。濡れた足元を踏みしめ、刀で宙を縦に断ち切る。青火の剣気が放たれ、藁人形に向かう。真っ二つに切り裂かれた。
「ぎゃあああああ」
耳をつんざく悲鳴に、蝶子は顔を顰めるが、目を逸らさなかった。
めらめらと青い炎が藁人形に纏わり付き、藁人形が地面をのたうち回った。
「こ。ちょう……ただ……一緒に……たかった、だけなのに」
啓太の微かな声が聞こえ、黒炭になり、消散した。
(啓太)
蝶子は自ら啓太を見放した。蝶子は氷雪を選んだ。罪悪感が募る。
啓太は、きっと、ただでは済まない。
生き霊が切り裂かれたのだ。いわば、魂を切られたことになる。
(ごめん)
啓太と一緒に死も考えた。でも、氷雪の側にいたい。
なにも無かったかのように辺りは静寂が訪れる。戦いが終わった。
蝶子は空を仰いだ。
魔方陣も、竜も、いない。ただ、静かな雨だけが降り続いていた。
「──雪!」
と、胸元にいた、ひとにの尋常じゃない絶叫に、蝶子は、はっとした。
傍らの氷雪を見上げる。氷雪は震えていた。体からは、ぴしぴしと嫌な音がして、がくりと膝を落とす。
「氷雪様」
氷雪の体が大きく傾き、どさりと地に倒れた。




