第三十話 狙いし者1
蝶子が人間界への門を出た瞬間、青白い閃光が走り抜け、眩しさに目を瞑る。気が付くと白蛇石の前に立っていた。
大きな蛇の模様の岩を眺め、ここから出て来たのだと悟った。
雨は、こちらでも降り続いていた。奥深い蛇神の森は濡れそぼっていた。
木々の葉から重そうに雫が滴り落ち、静寂が広がる。雨煙が立ち込め、人も動物も見当たらない。闇夜。
今が何時かもわからない。
(これから、どうしよう)
脳裏に啓太の顔が浮かんだ。頭を振り、そんな都合のいい身勝手な救いを求めるのは筋違いだ。
神界に帰ることはできない。村に戻ることもできない。
蝶子は途方に暮れた。
と、雨音に混じり、ズズっと重たい物を引きずるような音が聞こえた。目を凝らすと、視界に捉えられるギリギリの距離で、地面の一部が動いたように思えた。
赤黒い水溜まりだった。
「えっ」
馬鹿な。
それが、右往左往していた。何かを探すように地面を泳いでいる。目の錯覚だろうかと蝶子は、雨粒ごと目を擦った。だが、赤黒い水溜まりは蠢いている。
「奴が来た!」
腰あたりから甲高い声が聞こえ、振り返る。
「ひとに君」
いつの間についてきたのか、ひとにが蝶子の裾を引っ張っていた。
「あれから逃げて、蝶子、掴まる」
「えっ」
「奴は、蝶子が神域から出るのを狙ってたんだ。奴に気づかれた」
「ひとに君、どういうこと」
「早く」
わけもわからず、蝶子は走った。すると、赤黒い水溜まりが、一瞬止まり、見つけたとばかりに、近づいて来た。
「逃げて」
蝶子は、速度をあげる。
「もっと早く」
促され、息せき切った。稲光が落ちる。
「真後ろにいるよ」
恐怖が這い上がる。喉が痛い。口のなかが鉄臭い。体が火照る。雨露を吸った着物が酷く重たい。地面は泥濘、視界も悪い。背後から、ズズっと不気味な音が迫って来る。よく見えない。
と、赤黒い水溜まりが蝶子を追い越し、戻って来た。
「避けて」
蝶子は左に避けた、その拍子に地面の青草で滑って転んでしまった。
「蝶子」
ひとには蝶子の前に立ちはだかると、素早く印を組んだ。
水の障壁が蝶子と、ひとにを包む。
「ひとに君」
「大丈夫。このなかに入れば奴から見えないから」
赤黒い水溜まりが森を彷徨い出した。蝶子を探している。
「ぼく、頑張る」
険しい表情を浮かべ、ひとには障壁に集中する。
ときどき、包まれた障壁が揺らめいているように見えた。いつまで保てるのか、傍から見ても、ひとにが無理をしているのがわかった。
「あれは、何?」
「蝶子を付け狙っている奴」
「わたしを」
「蝶子がよく知ってる奴──啓太だよ」
蝶子に衝撃が走り抜けた。
まさか、あり得ない。啓太がそんなことをするはずがない。だって、ずっと仲の良かった幼馴染みなのだから。
──啓太との出会いは蝶子が六歳のときだった。
父の御鳥見の仕事の都合で、一家で借家住で暮らすことになり、蝶子が村を訪れた日のことだった。
蛇神の森を越えて、水を張った段々畑を眺めながら、あぜ道を歩いていると、子供達の声が聞こえて来た。
蝶子は、早速、友達になろうと、両親に諫められるのもお構いなく、心弾みながら、声のする方へと走り出した。
ところが、木の陰で子供たちがよってたかって、屈む啓太を、つぶれた鼻、出っ歯、隻眼だと容姿を罵り、あまつさえ暴力を振るっていた。蝶子は眉をつり上げた。
「こら、なにしてるの、虐めは駄目なんだから」
声を張り上げると、突然現れた蝶子の綺麗な身なりに、子供たちは驚き、分が悪いと、啓太を残して走り去った。
「まったく、ろくでもない子たちね」
気分を害しながら蝶子は懐から桃色の手巾を出し、血で汚れた啓太の顔を拭いてやった。
「いけません、お嬢様。手巾が汚れてしまいます」
幼い啓太は武家の一家が来ることを聞いてか、蝶子を見るなり顔を青ざめた。蝶子は手巾の汚れを気にせず、拭いた。
「ふふ。綺麗な顔になった。あら、包帯が緩んでる」
蝶子は微笑み、啓太の左目の包帯を直してやった。啓太は酷く驚いた様子だった。
「ありがとうございます」
朗らかに啓太は笑ってくれた。それが、出会いだ。
それから一年、蝶子は不自由なく村で過ごした。ときどき、啓太が怪我をしているのを見かけ、蝶子は躊躇せず手当をしてやった。
「迫害を受けるのは、僕が醜い顔だからです。それに二十歳まで生きられるかわかりませんし」
「啓太、そんなこと言わないで」
啓太は生まれつき体が弱いと話してくれた。そのため、しょっちゅう倒れて寝込み、その度に蝶子は啓太の家を訪れ、滋養に良い物をあげたりもした。
「啓太は長生きするわ。それに醜くなんかない、とても良い子よ」
蝶子はひとつ年上の啓太の頭を撫でてやると、啓太は照れくさそうに身動いだ。
「お嬢様は太陽みたいなかたですね」
「なにそれ」
ふふっと笑い合ったことを覚えている。
啓太はそんな優しい人だったのだ。
──今、目の前に赤黒い水溜まりが漂っているが、啓太による物だとは到底思えない。
「啓太じゃないわ」
蝶子は断言した。
ひとには冷や汗を掻き、首を横に振った。結界を維持するのは負担のようだ。
「蝶子、こっちに来て、屈んで」
蝶子は言われるまま動いた。ひとには、片手で結界を貼り、片手で懐から一本の針を出す。蝶子の眉間に針を突き刺した。
蝶子は驚く。痛みはない。針は眉間に刺さると、溶け込んで消えた。
と、赤黒い水溜まりから声が響く。
「こ……ちょう…こ」
どきりとした。低い男の声。よく知った。確かに啓太の声に似ていた。
「どこ」
ボコボコと赤黒い水溜まり──否、よく見ると水溜まりではない。赤黒い煙が蠢いていた。針の力によるものだろうか。視界が、はっきりする。
蠢きの間から、何度も、消え入りそうな声で蝶子の名を呼ばれた。
雨に打たれ、煙が縮こまっているようで、どこか可哀想。
だが、だんだん、声が強く、怒りに満ちる。
「どこにいる? 僕の蝶子」
弱々しかった煙が勢いを増し、ブワッと空に向かって膨れ上がる。ボコボコと波を打ち、数千の黒い手が現れる。
数多の手は、鈍重な動きで、なにかを掴み取ろうと、握り締めては、開いた。恐怖が這い上がる。
(わたしを捕まえようとしているの?)
動きの不気味さに蝶子は顔を顰めた。
「あれは、啓太なんかじゃないわ」
「蝶子、啓太だよ。あれが奴の本性だよ」
「そんなことないわ」
ひとにの言葉を、蝶子は撥ね除けた。
啓太だなんて、あり得ない。




