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第十九話 ひだまり1

 嫁とはいったい何をすることだろうか。


 蝶子は幼少時に通っていた寺子屋の塾を思い浮かべていた。住まう武家屋敷の付近には、私塾と寺子屋の学舎があり、読み書き、算術、教育等を習っていた。とはいえ、女が習うのは、おもに、花嫁修業だった。多少、読み書きも習ったが、女が男よりも賢くなりすぎるのは、世間的に節度が無いとされた。


 寺子屋で通う子供は六歳から十三歳の年頃の男児と女児。蝶子が通っていた寺小屋は、二十人ほどの女児の集まりだった。

 女師匠の名は忘れたが、「嫁とは」と、くどくど、言っていたのを思い出す。


 講座は、裁縫、生け花、茶の湯、武芸だった。あの頃の蝶子は、ちょっと、お転婆で、将来は鷹匠になりたかった。男女差別を反発する、お年頃でもあり、身だしなみに厳しい女師匠に、なにかと目を付けられ、叱られていた記憶がある。若気の至りである。


『良き妻とは、蝶子さん、わかりますか』


 未だに、師匠の甲高い、癇癪を含んだ声が耳に残る。あのとき、もっとちゃんと聞いていれば良かったと思う。


 その後、蝶子は、武家から百姓になり、やむを得ず、野菜の育て方を少々。裁縫は奉公先で上達した。それと料理に洗濯、掃除、と自然と身についた。


 誰にも嫁ぐことなどないと思っていた。

 いったい、良き妻とは、どんな人のことをいうのだろうか。


 薄らと、先生は、旦那様の言葉には、従順に従いなさい。と言っていた気がする。


 しかし、それは奉公先でもしていたことで、同じ様に氷雪に接しているけれど、同じ様にしなくてもよいっと、仰せになる。


 では、どうすれば、嫁らしいことができるのだろうか。蝶子の身近にいたのは、奉公先の奥様。


「……」


 正直、参考にならない。召し使いに家事全般をやらせ、虐めること。どうにも蝶子には出来ない。


 氷雪に嫁いでからというもの、屋敷の清掃、食事、氷雪の世話。それらはすべて、童子や雀たちが、こなしていた。非常に困ったことに、蝶子には仕事がない。


 仙天横町を訪れてから、すでに、もう三日も経っていた。


(駄目だわ、これでは)


 仕事をしないで、ご厄介になるなど、どんなに気の良い旦那様でも、いずれ”出て行け”と言われるだろう。


 出て行けと言われれば、出て行く。が、折檻も無く。衣食住もまともにさせてもらい。優しく接していただける所など、そうそう無い。

 できることならば、長くいたい。


(絶対。仕事をいただかなくては)






 朝、蝶子は布団から出ると、隣の寝間の襖を勢いよく開けた。氷雪の寝床である。本来ならば、床に膝をつき、両手で襖を開けなくては行儀が悪い。しかし、そのときの蝶子は急いていた。つい、子供のころのように叱られるような行為をしてしまった。


「氷雪様。あの、わたしに、お仕事を──」

「……」

「……」


蝶子と氷雪は、たっぷりと、硬直し、見つめ合った。

 目の前には、氷雪の全裸。


「……」


 考えてみればわかることだ。起きたら着替える。断りもなく開けば、こんな場面に遭遇することもあるだろう。


蝶子が襖を開けた瞬間、氷雪は、しゅるりと腰紐を解き、寝着を床に落とした。

 直視する。


 氷雪の銀糸のような、さらさらの髪が、白い裸体に絡み付く。胸板には、梅の蕾のような粒が二つ。華奢な外見に反して割れた腹筋。棒立ちになっている、白い両足。太股の間に目を落として。


 蝶子は、みるみる熟れた西瓜のように、頬を染める。


「ごごごごご、ごめんなさい」

(やってしまった)


 しっかりと、見てしまった。

 蝶子は慌てて、ぱしりと、襖を閉めた。

 心臓が、ばくばくと脈を打った。


 どうしましょう。殿方の……。を、しっかり目に焼きつけてしまった。動揺が止まらず、膝を折って床にしゃがみ込む。

 これでは痴女ではないか、と蝶子は頭を抱えた。


「蝶子」


 ごそごそと襖の向こうから衣擦れの音がする。どうやら氷雪が、急いで着替えをしているようだ。


 このままでは、着替えを済ませた氷雪と対面することになる。

 蝶子は居たたまれなくなった。


「ご、ご、ごめんなさい」


 合わせる顔がない。女としてあるまじき失態。蝶子は、兎に角、その場から逃げ出したかった。


(ここから、離れなきゃ)


 慌てて立ち上がる。

 すぱん。

 驚くほどの素早さで、氷雪は、締めたばかりの襖を、開けた。


「ああああああああ」


 蝶子は赤面し、青ざめ、逃げた。廊下を走り、少しでも氷雪と距離をとる。


「蝶子」


 氷雪は蝶子を追った。蝶子はさらに逃げる。屋敷のなかは広く、沢山の襖があり、蝶子は襖を開けては、閉じた。が、うしろからは、襖の開く音だけが聞こえてくる。


(追いかけられている)


 泣きたい気持ちが押し寄せてくる。


「蝶子」

「お許しください」

「落ち着きなさい」

「見ちゃいました」

「ああ。まぁ」

「しかり見ました」

「……よい」

(よくないです)


 蝶子は完全にパニックに陥っていた。と、ついに氷雪が腕を掴み、背後から蝶子を抱き留める。温もりが背中から広がり、蝶子はますます、顔を赤くした。冬場なら確実に頭から湯気があがっていたかもしれない。


「あ、ごめんなさい。ごめんなさい」

「こら。暴れるな。落ち着きなさい」


 蝶子が氷雪から離れようとする度、氷雪の腕が強まり、羽交い締めにされる。痛いわけではないが、蝶子は身動きが出来なくなった。


「まったく。恥ずかしいのは、見られた、俺の方なんだが」

「ああああ。ごめんんなさい」

「だから、落ち着きなさい。俺は朝は、あまり動けないんだぞ」


 なおも、逃げおおせようとする蝶子に、氷雪は言い聞かせた。


(そう言えば、氷雪様は体温が低いため、朝は日光浴をされていた)


 気怠そうな氷雪の姿を思い出し、蝶子はしゅんと項垂れた。


「ごめんなさい」


 ようやく、暴れるのを止める。しかし、心臓は未だに、どくどくと早鐘を鳴らしていた。沈黙。風が頬を掠めると、蝶子は落ち着きを取り戻す。


「あの、失礼なことをして」

「もう、謝るな」


 そう氷雪は言って、なぜか、蝶子の頭に擦り寄り、顎を蝶子の頭に乗せた。密着度が高まり、蝶子はどうしていいのかわからなくなった。


(離して下さらない)


 落ち着きだした心臓が、また、騒ぎ出す。


「怒っていらっしゃいますよね」

「なぜ、そんな風に思う」


 優しく問われ、蝶子は言葉を詰まらせた。

 いつまでもお手を離してくれない。逃げないように。

 心なしか、腕に回された手に力がこもったような気がして恥ずかしかった。


「普通は怒るところかと」

「夫婦になったのにか?」

「えっと」

(まだ、契りを結んでないので、夫婦と言えるのでしょうか)

「ふふ。いずれ見慣れる」


  氷雪は蝶子の心の声を呼んだように楽しげに言い、その言葉に蝶子の顔が、また茹で蛸のようになった。


「ちょっと、虐め過ぎたな。なにか用事が、あったのではないのか」

「あの、わたし、なにか、お仕事が欲しくて」

「しなくても良い」


 氷雪は蝶子の頭から顎を除けて、腕の力を緩めると、微かに唇を尖らせて蝶子の横顔を見つめた。緩まった腕から、蝶子は頭だけで振り返る。


「ですが……わたし、氷雪様に、なにかしたくて、あの、もしよろしければ、今晩はわたしが手料理を作ってもよろしいでしょうか、お嫌でなければ」


 蝶子は、羞恥の潤んだ目で、氷雪を見上げた。


「手料理、俺に食わせたいと」

「はい」


 氷雪の頬が、微かに赤みを帯びた。蝶子を見つめ、喉がコクンと嚥下する。朝食がまだなので、お腹が空いたのかもしれない。

 氷雪はそっぽをむいて、ようやく、手を離した。


「好きにしなさい」


 蝶子は感極まって、微笑んだ。


「お口に、あうかわかりませんが頑張ります。それから、なにか他に出来ることがあれば、お言いつけください」

「他に」


 氷雪は目元を少し赤らめ、目を彷徨わせ、悪戯っぽい笑みを零した。


「ならば──」

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