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第十七話 不穏の音2

******


「まったく。ついに鬼門を開けて、入って来やがったか」


 氷雪は忌ま忌ましげに溜め息を吐いた。

 折角、蝶子と出かけて機嫌良くしていたのに、水池の異変に気がつき、飲みかけの湯飲みを置いて、慌てて玄関に飛び出す。鳥居を潜り、水池へと足を踏み入れ、ぱしゃぱしゃと水の上を走ると、くるりと振り返る。


 東門と北門の間の宙に、黒い渦が広がっていた。

 案の定、鬼門が開こうとしていた。

 こんな日ぐらい、遠慮してほしいものだ。氷雪は眉間に深い皺を寄せた。


「雪」


 氷雪のあとを童子たちが追う。わらわらと氷雪に近寄ると、心配げに氷雪を見上げた。


「大丈夫だ。たく、蝶子が来てから、毎日、呪詛を送って来やがって」


 蝶子を嫁にした夜から、人間界と繋がる北門からは邪が入り込もうとしていた。

 ここでいう邪は、誰かが使役した式神のことだ。


 使い道によっては、善にもなるし悪にもなる。しかし、入り込もうしている邪物は悪でしかない。酷い臭気を発している。


 蝶子が来た日から、頻繁に、北門の鳥居にある人間界への通り道に、邪物が神域に入り込もうと、体当たりしていた。


 ぶつかって来ようが、ここは結界が施されている。邪物の類いは、入って来られない。しかし、度重なる体当たりに、多少なりと結界は緩む。それが毎晩だ。

 連日、氷雪は、結界を強化していた。


「今朝は、お前のせいで蝶子に在らぬ誤解をされた。俺に蝶子、以外の女がいるなど……」


 蝶子の態度を思い出し、氷雪は心が折れそうになった。

 妾がいると勘違いされたうえに、蝶子が、いるはずも無い女のお世話をするなど、言語道断。


 日増しに邪物は増えていくが、昨晩は、本当にしつこかった。人間界の門の結界に、ぶつかっては消滅する。入れないとわかっているだろうに、相手は丑三つ時(午前二時から二時半頃)から明け方まで、絶え間なく、次から次へと続けた。


 術を掛ける方も、そうとうな消耗だろうし、そろそろ正気でいられなくなっているかもしれない。


「それでも」


 奴も、蝶子を諦めない。

 いい加減にしろ。


(蝶子は、すでに俺のものだ)


 昨日は少々そのことに苛ついた。

 だから、昨晩は、つい、氷雪は結界の外の人間界に出て、相手と応戦した。


 屋敷で眠っている蝶子を起こしたくもなかった。

 屋敷は唯一、蝶子の安心できる場所でありたい。

 余計なことに心を煩わせてなるものかと思った。


 それにしても、日増しに邪気が強まっている。もう、無視もできなくなってきた。

 人間界へと続く鳥居を攻めくるだけなら、まだ、よかった。


 まさか、水池の別の門である、鬼門をこじ開けて来ようとは。

 どれだけの対価を払ったのやら。

 氷雪は頬をひきつらせた。


 何を対価にしたのか、考えるだけで反吐が出る。

氷雪は上空を見上げる。


 鬼門をこじ開け、邪物が入ろうと北東の宙には次元を歪ませる渦が広がり、薄らと黒い柱が浮かび上がっていた。


 徐々に輪郭がはっきりし、黒い鳥居が宙に立つ。扁額には、蚯蚓みみずが這ったような血文字で”鬼門”と書かれていた。


 氷雪は、忌ま忌ましげに鬼門を見る。大きな陰が揺れる。


「土蜘蛛か」


 巨大な土蜘蛛が真っ赤な目をギラつかせ、鬼門から足を蠢かし、出てきた。


 そのまま、ぼとりっと水池に落ちる。池の水が波のように高くあがり、氷雪と童子に降りかかった。ざぶん、と水が覆い、去る。


『蝶子を返せ』

「断る」


 土蜘蛛から嗄れた声が響き、氷雪は間髪入れずに答えた。水を頭から被ったというのに氷雪は、まったく濡れていない。


『返せ』

「それしか、言えんのか」


勝ち誇った氷雪の言葉に、相手は戦慄き、怒りをあわらにした。


『返せ』


 話にもならない。戯れ言だ。

 氷雪は「ふん」と鼻で笑う。その態度が気に入らなかったのか、真っ赤な目玉をギラつかせて、土蜘蛛が氷雪に突進して来た。


 浅はかな行動だ。

 そんなことで蝶子が手に入るはずもない。させやしないが。

 強行突破でもしようとする土蜘蛛に氷雪は、冷たい視線を送る。


(阿呆が)

「ふん。おい、誰か蝶子の様子を見てこい」


 先ほどからの震動で、もしかしたら蝶子が気がつき、心を揉んでいるかもしれない。優先すべきは蝶子。氷雪は童子に命令した。


 しかし、童子たちは誰も動こうとしなかった。仕方なく、氷雪は「ひとに」と指名して促した。


「でも」


 ひとには上目遣いで氷雪を見つめた。

 どうやら氷雪を置いて、蝶子の元へ行くのを躊躇っているようだ。


「俺は、大丈夫だ。行け」


  ひとには、それでも立ち止まっていた。

 確かに連日の戦闘で心身ともに疲れてはいる。それを見抜かれて童子たちが心配をしているのだろう。


 しかし、氷雪は過信していた。

 こんな輩に負けはずがない。自信もある。


「ひとに、頼む」


 ひとにはキリリと眉をあげて頷くと、すぐに屋敷へと駆けて行った。氷雪は、それを横目で流し、近づいてくる土蜘蛛を凍てついた視線で見据えた。


「まったく、こんなくだらない物を残した、お前の先祖を恨みたくもなる」


 この式を放った者の血筋を考えると、氷雪は少し、ぞっとする。

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