第十七話 不穏の音2
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「まったく。ついに鬼門を開けて、入って来やがったか」
氷雪は忌ま忌ましげに溜め息を吐いた。
折角、蝶子と出かけて機嫌良くしていたのに、水池の異変に気がつき、飲みかけの湯飲みを置いて、慌てて玄関に飛び出す。鳥居を潜り、水池へと足を踏み入れ、ぱしゃぱしゃと水の上を走ると、くるりと振り返る。
東門と北門の間の宙に、黒い渦が広がっていた。
案の定、鬼門が開こうとしていた。
こんな日ぐらい、遠慮してほしいものだ。氷雪は眉間に深い皺を寄せた。
「雪」
氷雪のあとを童子たちが追う。わらわらと氷雪に近寄ると、心配げに氷雪を見上げた。
「大丈夫だ。たく、蝶子が来てから、毎日、呪詛を送って来やがって」
蝶子を嫁にした夜から、人間界と繋がる北門からは邪が入り込もうとしていた。
ここでいう邪は、誰かが使役した式神のことだ。
使い道によっては、善にもなるし悪にもなる。しかし、入り込もうしている邪物は悪でしかない。酷い臭気を発している。
蝶子が来た日から、頻繁に、北門の鳥居にある人間界への通り道に、邪物が神域に入り込もうと、体当たりしていた。
ぶつかって来ようが、ここは結界が施されている。邪物の類いは、入って来られない。しかし、度重なる体当たりに、多少なりと結界は緩む。それが毎晩だ。
連日、氷雪は、結界を強化していた。
「今朝は、お前のせいで蝶子に在らぬ誤解をされた。俺に蝶子、以外の女がいるなど……」
蝶子の態度を思い出し、氷雪は心が折れそうになった。
妾がいると勘違いされたうえに、蝶子が、いるはずも無い女のお世話をするなど、言語道断。
日増しに邪物は増えていくが、昨晩は、本当にしつこかった。人間界の門の結界に、ぶつかっては消滅する。入れないとわかっているだろうに、相手は丑三つ時(午前二時から二時半頃)から明け方まで、絶え間なく、次から次へと続けた。
術を掛ける方も、そうとうな消耗だろうし、そろそろ正気でいられなくなっているかもしれない。
「それでも」
奴も、蝶子を諦めない。
いい加減にしろ。
(蝶子は、すでに俺のものだ)
昨日は少々そのことに苛ついた。
だから、昨晩は、つい、氷雪は結界の外の人間界に出て、相手と応戦した。
屋敷で眠っている蝶子を起こしたくもなかった。
屋敷は唯一、蝶子の安心できる場所でありたい。
余計なことに心を煩わせてなるものかと思った。
それにしても、日増しに邪気が強まっている。もう、無視もできなくなってきた。
人間界へと続く鳥居を攻めくるだけなら、まだ、よかった。
まさか、水池の別の門である、鬼門をこじ開けて来ようとは。
どれだけの対価を払ったのやら。
氷雪は頬をひきつらせた。
何を対価にしたのか、考えるだけで反吐が出る。
氷雪は上空を見上げる。
鬼門をこじ開け、邪物が入ろうと北東の宙には次元を歪ませる渦が広がり、薄らと黒い柱が浮かび上がっていた。
徐々に輪郭がはっきりし、黒い鳥居が宙に立つ。扁額には、蚯蚓が這ったような血文字で”鬼門”と書かれていた。
氷雪は、忌ま忌ましげに鬼門を見る。大きな陰が揺れる。
「土蜘蛛か」
巨大な土蜘蛛が真っ赤な目をギラつかせ、鬼門から足を蠢かし、出てきた。
そのまま、ぼとりっと水池に落ちる。池の水が波のように高くあがり、氷雪と童子に降りかかった。ざぶん、と水が覆い、去る。
『蝶子を返せ』
「断る」
土蜘蛛から嗄れた声が響き、氷雪は間髪入れずに答えた。水を頭から被ったというのに氷雪は、まったく濡れていない。
『返せ』
「それしか、言えんのか」
勝ち誇った氷雪の言葉に、相手は戦慄き、怒りをあわらにした。
『返せ』
話にもならない。戯れ言だ。
氷雪は「ふん」と鼻で笑う。その態度が気に入らなかったのか、真っ赤な目玉をギラつかせて、土蜘蛛が氷雪に突進して来た。
浅はかな行動だ。
そんなことで蝶子が手に入るはずもない。させやしないが。
強行突破でもしようとする土蜘蛛に氷雪は、冷たい視線を送る。
(阿呆が)
「ふん。おい、誰か蝶子の様子を見てこい」
先ほどからの震動で、もしかしたら蝶子が気がつき、心を揉んでいるかもしれない。優先すべきは蝶子。氷雪は童子に命令した。
しかし、童子たちは誰も動こうとしなかった。仕方なく、氷雪は「ひとに」と指名して促した。
「でも」
ひとには上目遣いで氷雪を見つめた。
どうやら氷雪を置いて、蝶子の元へ行くのを躊躇っているようだ。
「俺は、大丈夫だ。行け」
ひとには、それでも立ち止まっていた。
確かに連日の戦闘で心身ともに疲れてはいる。それを見抜かれて童子たちが心配をしているのだろう。
しかし、氷雪は過信していた。
こんな輩に負けはずがない。自信もある。
「ひとに、頼む」
ひとにはキリリと眉をあげて頷くと、すぐに屋敷へと駆けて行った。氷雪は、それを横目で流し、近づいてくる土蜘蛛を凍てついた視線で見据えた。
「まったく、こんなくだらない物を残した、お前の先祖を恨みたくもなる」
この式を放った者の血筋を考えると、氷雪は少し、ぞっとする。




