第十六話 不穏な音1
仙天横町から帰って来て、部屋に戻ると蝶子は、頭がふわふわしていることに気が付いた。色々なことがあって、心と体が置いてけぼりになっている気がした。
小腹が空いたと氷雪が言うので、仙天横町でくず餅を頂いた。竹の筒の器に、半透明のくず餅が盛りつけられていて、とてもぷるぷるとしていた。黒蜜ときな粉をまぶし、箸でつかめないほど柔らかい。
ぱくり、と食べると、ほっぺが落ちそうに美味しくて、蝶子は、実は、もう死んでいるのではないかとさえ思えた。
(木の実、以外の甘味なんて、いつぶりだろうか)
こんな夢のような出来事が、現実にあっていいはずがない。
さらに、一本うどんが食べたいと、童子たちが言うので、夕飯として食べることになった。太くて長い、一本のうどんが、丸い丼の中にあり、あっさりとした、お出しと絡んで、とても美味しかった。
蝶子はくすりと笑った。
(なんだか、餌付けされている、雛鳥みたいね。わたし)
屋敷につくなり、水の入った桶を用意され、童子たちが蝶子の足を洗ってくれようとしていた。
蝶子は断り、逆に桶を受け取って、氷雪の足を洗った。気のせいか氷雪の目が、赤らんでいるように思えたが、きっと疲れていたのだろう。
そのまま蝶子は湯殿に通され、お風呂に入り、部屋に入ると仙天横町で買った着物が六枚ほど置いてあり、さらに、呉服店で反物を仕立てていたことを思い出す。
(これは夢ではないだろうか)
あまりにも現実離れしすぎて、蝶子は、ほっぺたを捻った。
(痛い)
部屋の違い棚には、香炉が置かれ、ゆらりと煙があがり、微弱な甘い香りが立ちこめていた。
氷雪の香りだった。
蝶子は襖を開け、縁側に出る。さわさわと優しい風が、風呂でのぼせた体を、撫でて行く。
星々を見上げる。こんなにゆっくりと空を眺めるのは、いつぶりだろうか。
と、そのとき。
どん。
と大きな音が玄関の方からして、同時に、ぱっと花火があがったように玄関側が光った。
「なに?」
どん。どん。どん。と断続的にその音はした。
「蝶子。大丈夫だよ」
童子のひとにが、いつの間にか、うしろに立ち、声をかけ「お部屋に入ろう」と促した。
「えっ。でも、何かあったのですか、急に空が明るく」
「ああ、あれね、気にしないで」
「でも」
笑顔で答える、ひとにに、蝶子は疑念を抱く。
気にしないでと言われても。先ほどから、微弱に、空気が震動していた。
なにかがあったとしか思えない。
顔に出ていたのか、ひとには蝶子を安心させるように言う。
「ほら、朝、仙天横町に行く時に、参道を通ったとき、雪が言ったでしょう」
「?」
「鬼門が開いたんだよ」
「鬼門……」
「そう、悪鬼が入り込もうと、門をこじ開けたんだ」
「大変」
良からぬ物が入り込んだのだ。蝶子は自分に出来ることはないか思案する。
「大丈夫。良くあることだから、ね。雪が祓ってくれるよ。残滓は仙漁の餌になるし」
そう言えば、そんなことを申されていた気がする。話している間にも、どん、と音は鳴り止まない。蝶子は、さらに不安になる。
「雪は強いから平気だよ。蝶子が行ったら、よけいに邪魔になっちゃう。ねっ。お部屋に戻ろう」
確かに、たかが蝶子に何が出来るというのだろうか。蝶子はコクリと頷いた。ひとには蝶子と手を繋いで、襖を開けて部屋に入る。いつの間にか布団を用意されていて、僅かに、ぎょっとした。
ひとには、蝶子を布団の上に座らせた。「少し待ってて」と言うと部屋を出て、お盆を持って戻ってくる。お盆の上には湯気のあがる湯飲み。
「さぁ、蝶子。これを飲んで」
ひとには、一杯の茶を蝶子に渡した。
氷雪が悪鬼を退治しているのに、蝶子が呑気にお茶を飲んでいてもいいのだろうか。
「落ち着くから」
ひとには、にこにこと言う。
「ありがとう」
折角の心遣いだ。蝶子はごくりとお茶を飲んだ。風呂上がりで、少し喉が渇いていた。喉が潤う。蝶子は、ほぅと息をこぼした。
「さっぱりとした、お茶ですね。美味しい」
「白茶って、言うんだよ」
「初めて飲みました」
「雪が好んで飲むんだ。唐土(中国)から取り寄せてるんだよ」
(これを氷雪様が)
氷雪の好む茶が飲めて、なんだか嬉しくなった。
蝶子は湯飲みの中の淡い琥珀色のお茶を見つめ、もう一口飲む。爽やかな甘みが広がり、なんだか氷雪から香る匂いに似ていた。
(あれ)
飲み終わると、急に視界が、ぐにゃりとして歪んだ気がした。ぐらつきながら湯飲みを、ひとにに渡す。
(なんか凄く。眠い)
意識が遠のく。
(どうしたのかしら)
目が開けていられない。
蝶子は、そのまま布団に倒れ込んだ。
「大丈夫。蝶子は気にしなくていいんだよ」
ひとにの、そんな声が朧気に聞こえた気がした。




