第十三話 仙天横丁2
氷雪は優しげに笑いながら、氷の様な目で──バキ。と、櫛を二つに折った。蝶子は突然のことに唖然とした。
(折ってしまわれた)
「最低です」
なにやら、さらに童子たちが氷雪から二歩下がって、ボソボソと言い合っていた。氷雪はジロリと童子たちを睨む。「はっぴゅ」と変な息を吸って、童子たちは怯えたように、両手で口を押さえた。氷雪は目を細める。
「帰りに金平糖を買ってやろうと思ったが、いらないようだな」
「はぴゅ」
「はぴゅ」
「はぴゅ」
童子たちは言うと、半泣きになり、わらわらと氷雪の膝元に掛けよって、裾を掴んで訴えた。
「生類憐れみの令ぃぃぃ」
「命ある生き物の殺生を禁ずるぅぅぅ」
氷雪はすかさず、反論する。
「阿呆が、誰が殺生をした。それに、くだらん悪法を持ち出すな。犬公方など」
「憐れみ」
「憐れみ」
「憐れみ」
童子たちは一致団結して講義した。
蝶子は頭を巡らす。生類憐れみの令は、確か、蝶子が産まれる、ずっと前の法令だったはず。蝶子の父は鷹匠だったし、祖父は御鳥見の仕事だった。そのもっと前の時代のことだ。
なんだったか、犬を縄で縛ってはいけない。とか、怪我した犬を見かけたら助け治療しないといけない。とか、犬を放置し、虐待する者は斬り殺されたり、罰を与えられたとかの法令だったと、蝶子は思い出す。
(あれって、将軍様が犬年のお産まれだったから、犬の殺生を禁じていたとか、だったかしら)
そんな昔の歴史まで知っている童子に驚き、見た目と知識とは、随分と掛け離れているように思えた。
童子たちは、はらはらと涙まで流し出した。それほどまでに、金平糖が欲しいのならば、蝶子に櫛を買うよりも、童子たちに、金平糖を買い与えて欲しいと、可哀想になった。
「あの」
蝶子が言いかけたところで、店の外から、白い中型犬が店に入り、蝶子の言葉を奪いさった。
「てやんでい、犬って呼んだか」
へっへっへっと舌を出して犬は氷雪に近づく。氷雪の回りは、可愛らしい生物に囲われていた。
「なんでもない」
「おいら、耳はいいんだ。犬って、言っただろう、そう聞こえたぞ」
「生類憐れみの令」
「まだ、言うか」
童子たちの悲しそうな訴えに、氷雪は溜め息を吐く。しかし「生類……」と犬は呟くと、みるみるうちに、恐ろしい形相に変わっていった。頭の毛と胸の毛が、わさわさと黒くなっていく。
「あの、クソ、悪法かぁ、人間めぇ」
牙を剥き出し、蝶子は、その変貌ぶりに戦慄き、一歩下がる。
「クソ、クソ。てやんでぇ。バカ野郎が。憐れみだって、なにが憐れみだ。おいらの仲間は増やすだけ、増やしやがって、狂犬病になって気が狂うは、最終的には、犬収納所に詰め込まれて、処分されたんだぞ、この野郎」
「処分……」
蝶子は、ぼそりと呟いてしまった。
「そうでぇい、処分たら、処分だ」
後ろ足をタシタシと蹴って興奮している犬に、さっと氷雪は蝶子を庇うように前に立ちはだかった。蝶子は目をしばたいた。
「おい。怒りを抑えろ。地獄に行きたいか」
どす声で氷雪が言うと、犬は、はっとしたようだった。
「いけねぇ。つい腹が立って、人間全部を嫌ってるわけじゃねぇーんだった。餌もくれたりする、優しい奴もいたしな。それに、おいらは運がいい。なにせ処分された跡地に、桃の花を植えてもらえたから、怨みを浄化されて、ここにいられるんだからなぁ。怨みを持ったままの仲間なんて、未だに、がりがりに痩せ細って、ひもじくて、お腹もいつも空かせて、地獄に落ちちまった。それも、そこで人間を怨みながら、働いてるって聞いたぜ。ああは、なりたくないねぇ。その点、おいらは、ここで、届け物屋として、働かせてもらってる。うんうん。おいらは、飛脚なんかより、早いからね。えっへん」
犬は言いながら、落ち着いてきたのか、黒に染まりかけた毛が、真っ白な毛に戻った。氷雪の顔に警戒の色が解かれた。蝶子は生唾を飲んだ。
神様の世も色々あるようだ。
「店主。手紙だよ。ここに置いておくぜぇ」
そう犬は言うと、手紙を口で咥え机の上に置き、ご機嫌にお尻を振って「ルンタ。ルンタ」と言いながら後足をリズムよく蹴って、店をあとにした。
「犬畜生が」
ぼそりと氷雪はぼやくと、くるりと蝶子の真っ正面に立った。
「さぁ、櫛を買おう」
「えっと……」
うやむやにして終わらせようとしていたのだが。
蝶子は氷雪の絶対に買う。とゆう圧に勝てず、椿の彫刻の、つげ櫛を買ってもらった。そのついでに、青い鹿の子も付いてきた。
こんなに買ってもらっていいのだろうか。
蝶子は遠慮して安物を選ぶが、ことごとく、氷雪に却下され、上等な贈り物を頂いた。
「金平糖」
「金平糖」
「わかったから、騒ぐな」
一行は櫛屋を出た。童子たちは嬉しそうに兎のように、ぴょんぴょこ道路で跳ねると「飛ぶな」と氷雪は注意して叱った。
「さぁ、次に行くか」
「他にも、なにか買われるのですか」
蝶子は、耳を疑った。すでに反物につげ櫛をいただいている。これ以上は申し訳無い。
「俺の店に行く」
「氷雪様の店?」
神様とは祀られるだけの存在だと思っていた。
商いをする神様に蝶子は首を傾げた。
「神だろうが生活があるからな。それに、金はタダでは、懐に入って来ない」
そうか。高天原でも市場があるのだ。物買いするのに、先だった金は不可欠。
人間界だろうが天界だろうが、勝手にお金が入ってくる訳がない。
蝶子の顔が曇った。いったい今日だけで、どれだけ、お金を使わせてしまったのだろうか。
たかが蝶子に、高価の物を買い与えてくださった。
たかが蝶子のために、貴重なお金を使わせてしまった。
そのお金は、氷雪が汗水垂らして働いた対価だ。
気が塞ぐ蝶子。
しかし、氷雪は蝶子の様子に目ざとく気が付き、心配そうにした。
「どうした蝶子。まだ体調が悪いか」
「いえ」
どうやら、沈んでいる理由には気づかれていないようだ。
微笑を浮かべる蝶子に、氷雪はそれでも心配げに見下ろしてくる。視線を感じるが、蝶子は下を向いて、足取り重く、とぼとぼと歩いた。




