第四節:初夏のラジオと、助手席の微睡み
市場の出口ゲートをくぐり抜けると、初夏の陽光に洗われた湾岸通りがまっすぐに伸びていた。
軽バンの荷台からは、冷気とともにナスタチウムの青い刺激臭やハーブの瑞々しい芳香が、段ボールの隙間から車内へと静かに流れ込んできている。
運転席の東日向は、先ほどまでの喫茶店での賑やかさとは打って変わって、真剣な横顔でハンドルを握っていた。
クラッチとギアを手際よく操り、通勤ラッシュが始まりつつあるトラックや乗用車の群れの中を軽やかに縫っていく。
「舟さん、エアコン寒くないですか?」
「……いえ、ちょうどいいです」
舟は助手席でシートベルトに身を預け、努めて背筋を伸ばしていた。
だが、満腹になった胃袋と、市場での興奮から解放された安堵感が重なり、わずか二時間足らずの仮眠しか取っていない体に容赦のない睡魔が押し寄せていた。
まぶたが鉛のように重く、眼鏡の奥で、焦点がじわじわと滲んでいくのを自覚していた。
「舟さん」
赤信号で車が止まった瞬間、ふふっと小さく笑う声がした。
「寝てていいですよ。無理して起きてなくて大丈夫です」
「……いえ。乗せていただいている身で、助手席で眠るわけにはいきません」
「そんなこと気にしなくていいのに。早朝からあんなに市場を歩き回って、たくさん花を味わってくれたんですから。お店に着くまで、まだ三十分くらいありますよ」
「ですが……」
「舟さんの寝息、市場のトラックの音より静かそうですし、私、気になりませんから。……ほら、シート少し倒してください」
日向がいたずらっぽく眉を下げて言う。
その飾らない温かさに抗う気力は、もう舟には残っていなかった。
「……では、お言葉に甘えて。少しだけ、仮眠させていただきます」
舟は小さな声で呟き、眼鏡を外して胸ポケットに収めると、シートの背もたれに頭を預けた。
視界が暗転する。
低く唸る軽エンジンの振動、カチッカチッと一定のリズムで刻まれるウインカーの音。
カーラジオからは、ボリュームを絞った朝の交通情報と穏やかなインストゥルメンタルの音楽が流れていた。
意識が水底へと沈んでいくような、深い微睡み。
けれど、その境界線のような浅い眠りの中で、舟の鋭敏な耳が、ふと隣の僅かな気配を拾い上げた。
コトッと、ダッシュボードの小さなポケットが開く音。
銀色のアルミシートが擦れ合う、微かなプチッという破裂音。
そして――。
――っ……、ふぅ……。
胸の奥底から絞り出すような、ひどく短く、微かな日向の呼気。
舟の意識の端が、ぴくりと跳ねた。
何かを飲み込む喉の音。
それから、ペットボトルのキャップを閉めるプラスチックの摩擦音。
(……東さん?)
重い瞼を持ち上げようとした。
けれど、深く絡みついた睡魔の泥がそれを許さず、舟の思考は再び静かな闇の中へと呑み込まれていった。
「……舟さん。着きましたよ」
柔らかな声と、肩を叩く控えめな振動で目が覚めた。
ぱっと目を開けると、フロントガラスの向こうには見慣れたビルの谷間、そして「Coeur Verre」の裏口へと続く路地が広がっていた。
「……っ、すいません。完全に眠ってしまっていました」
舟は慌てて眼鏡をかけ直し、シートを起こした。 腕時計を見ると、すでに午前八時半を回っている。
「ううん、ぐっすり眠れてよかったです」
運転席の日向は、さっきと何一つ変わらない、朝露を弾くような明るい笑顔を浮かべていた。
血色のいい頬、澄んだ瞳。
先ほど夢現の中で耳にした、あの苦しげな吐息がまるで自分の聞き間違いか、あるいは浅い夢の断片だったかのように、彼女は元気そのものだった。
「お花、裏口の保冷庫の前まで運びますね!」
日向が身軽に運転席を飛び降り、後ろのハッチバックを開ける。
舟も急いで車を降り、冷やされた段ボール箱を両手で抱え上げた。
「本当に、何から何までありがとうございました。東さん」
「こちらこそ! 私の好きなお花たちを、あんなに素敵に見てくれて嬉しかったです。……夕方からの仕込み、頑張ってくださいね。どんな一皿になるのか、今からすっごく楽しみです」
「ええ。マスターと試作を重ねて、必ず素晴らしい形にします」
「はい! じゃあ、私、お店の開店準備があるから戻りますね!」
日向は小さく手を振ると、軽バンの運転席へと戻り、手際よくバックして路地を抜けていった。
白と緑のナンバープレートが角を曲がって見えなくなるまで、舟はその場所で見送っていた。
手元の段ボール箱からは、ひんやりとした命の香りが立ち上っている。
舟は小さく息を吸い込み、地下へと続く扉の鍵を開けた。




