第三節:ふたりの素顔
仕入れた花やハーブの箱を日向の軽バンの荷台に積み終えた頃には、空はすっかり明るくなり、市場全体がトラックの排気ガスと朝の陽射しに包まれていた。
「舟さん、お腹空きませんか? せっかく早起きしたんだし、市場の喫茶店で朝ごはん食べていきましょうよ!」
日向に連れられてやってきたのは、関連棟の二階、細い通路の奥にある昭和の匂いを色濃く残した喫茶店だった。
古びた食品サンプルが並ぶショーケースの横を抜け、使い込まれた茶色いビニールレザーのボックス席に腰を下ろす。
店内には、仕入れを終えた花屋や仲卸の男たちが集まり、スポーツ新聞を広げながら煙草や珈琲の湯気を燻らせていた。
「ここ、競りの合間にみんなが駆け込む場所なんです。メニュー、いろいろありますけど……」
日向は手慣れた手つきでパウチされたメニュー表を舟の前に差し出すと、目を輝かせて身を乗り出してきた。
「ここの厚切りバタートースト、すごく美味しいんですよ。市場のパン屋さんから仕入れてて、外はサクサクで中はもちもちで……あ、でも舟さん、朝はあんまり食べられない派ですか? サンドイッチとか、軽めのものもありますけど」
「……いえ。せっかくなのでそのトーストをいただいてみようかと思います。飲み物は、ホットのブラックで」
「本当ですか! よかった、じゃあ同じので」
日向はパッと表情を明るくして手を挙げ、店員へ声をかけた。
「すみません! バタートーストセットふたつ、飲み物は両方ホットコーヒーでお願いします」
テキパキと注文を済ませると、日向はテーブルの上に両肘をつき、満足そうにふうと息を吐き出した。 額に貼り付いた後れ毛を指先で払い、舟の顔を覗き込んでくる。
「どうでした、朝の市場? 舟さん、途中で眠気で倒れちゃうんじゃないかって心配してたんですよ」
「……刺激が強すぎて、逆に目が冴えました。あんなに朝早くから、これほど多くの人間と植物がすさまじい速度で動いている場所があるとは思いませんでした」
舟が眼鏡を押し上げながら正直に告白すると、日向は嬉しそうに目を細めて笑った。
「そうでしょう! 私、子どもの頃からこの場所が大好きなんです。小学生のとき、夏休みになるとお母さんの仕入れによく付いてきて。競り落とされた花がベルトコンベアみたいに流れていくのを見てるだけで、ワクワクして全然飽きなくて。仕入れが終わると、いつも母がこの席でココアを頼んでくれたんです」
日向は身振り手振りを交えながら、楽しそうに言葉を弾ませる。
「その頃から、市場に来ると元気がもらえるんです。生産者さんが泥だらけになって育てた命が、競りにかけられて、街中の花屋さんに散らばって、最後は誰かの家や記念日を彩る……その最初のバトンを受け取る場所なんだって思うと、背筋がシャンとしません?」
「……バトン、ですか」
「はい! さっきの加島さんの花もそうです。舟さんがああやって味や香りを言葉にしてくれたとき、加島さん、すごく嬉しそうな顔をしてました。私が繋いだバトンが、舟さんの手で今度は美味しい一皿やグラスに変わるんだって思ったら……なんだか私まで胸がいっぱいになっちゃって」
屈託なく語る日向の瞳には、一切の打算も飾り気もない純粋な情熱が宿っていた。
「はい。厚切りバタートースト2つとホットコーヒーね。ごゆっくり」
運ばれてきた厚切りのバタートーストからは、香ばしいバターと焦げた小麦の甘い湯気が立ち上っている。
日向は「いただきます!」と手を合わせると、迷いなくトーストをサクッと頬張った。
口元に小さなパンくずをつけながら、幸せそうに目を細める。
「んー、やっぱり市場のトーストは最高! 舟さんも冷めないうちにどうぞ」
「……いただきます」
舟もトーストに手を伸ばし、一口小さくちぎって口に運んだ。
外はカリッと香ばしく、中は驚くほどもっちりとしている。
深く焙煎された苦味の強いブレンドコーヒーが、舌に残るバターの脂をすっきりと洗い流した。
「舟さんって、普段朝は何時に起きてるんですか? いつもお店が終わるの、深夜の二時とか三時ですよね」
カップを置き、じっと見つめてくる日向の質問に、舟は少し視線を泳がせた。
「……日によりますが、大体は昼の十一時頃です。ベッドに入るのが四時や五時になるので」
「ええっ、昼の十一時! じゃあ、今頃はまだ夢の中じゃないですか!」
「……そのとおり、正直な話今すぐにでもベットに倒れ込みたい気分です」
舟が眉をひそめて小さくため息を漏らすと、日向はツボに入ったように肩を揺らして笑った。
「あははっ!あ、ごめんなさい! でも、そんな舟さんが今、朝の七時に市場でバタートースト食べてるなんて、なんだか不思議ですね」
「……私自身が一番そう思っています。自分がこんな時間に、市場の喫茶店にいるなどと」
ぽつりとこぼした舟の口元に、ほんの微かに、けれど確かな自嘲じみた笑みが浮かんでいた。
いつものバーのカウンターでは見せない、どこか肩の力が抜けた、素の表情だった。
朝の強い光が、ガラス窓を透かしてテーブルの上のふたつのカップを白く照らしている。
雨の夜の静寂でもなく、薄暗い地下の閉ざされた空間でもない。
陽光の中で笑い合う日向の姿を、舟は珈琲の湯気の向こうから、静かに見つめていた。




