第二節:香りを噛む
「おはよう日向ちゃん!今日は早いね」
ブースの奥から顔を出したのは、日に焼けた浅黒い肌に、人の良さそうな深い目尻の皺を刻んだ五十代半ばの男性だった。
首にタオルを巻き、泥のついた前掛けをしている。
「おはようございます、加島さん! 今日はね、前に話してた知り合いのソムリエさんを連れてきたんです」
日向が誇らしげに胸を張って振り返ると、舟は缶コーヒーを片手に、小さく頭を下げた。
「……海棠と申します。ワインバーでソムリエをしております。無理を言って同行させていただきました」
「あーあのソムリエさんかい! 日向ちゃんから聞いてるよ、鼻の利く面白い人がいるって。うちは花屋卸がメインだけど、料亭やフレンチに卸す無農薬のハーブと食用花も作っててね。好きなだけ見て、触って、味見してみてよ」
彼は豪快に笑うと、並べられた手のひらサイズの透明なパックの蓋を次々に開けてくれた。
冷やされたパックの中から、赤、橙、黄、青、紫と、まるで絵の具を散らしたような鮮やかな花弁が顔を覗かせる。
スーパーの野菜売り場で見かけるような、ただ彩りのためだけに添えられる萎れた花とはまるで違う。
一枚一枚の花びらが、朝露の湿り気と大地の力強い張りを保っていた。
日向が指先で、鮮やかなオレンジ色の花を一輪、そっと摘まみ上げた。
ラッパのような形をした、どこかユーモラスな花だ。
「舟さん、これ。ナスタチウムです。……ちょっと花びらをちぎって、噛んでみてください」
舟は言われるがまま、日向から手渡された花びらを舌の上にのせ、奥歯で静かに噛み締めた。
その瞬間、舟の眉がぴくりと動いた。
「……辛い」
「ふふ、そうなんです! 見た目はこんなに可愛いのに、クレソンやワサビみたいにピリッとするでしょ?」
「ええ……ただ辛いだけじゃない。噛んだ瞬間に弾ける青いベジタブルの香りと、奥から追いかけてくるマスタードのような鋭い辛味。そして後口には、かすかな甘みとみずみずしい水分が残る」
舟のトーンが、自然とプロのそれへと切り替わっていた。
眠気で霞んでいた瞳の奥に、研ぎ澄まされた光が宿る。
「……この刺激なら、甘やかな果実味を前面に出したプロヴァンスの冷やしたロゼ、あるいは少しオイリーなテクスチャーを持つアルザスのピノ・グリに完璧に合います。脂ののったサーモンや白身魚のカルパッチョにこの花を散らせば、ワインの持つ酸と花の辛味が手を取り合って、魚の脂を綺麗に流してくれる」
淀みなく紡ぎ出される具体的な情景に、加島が感嘆の声を漏らした。
「おいおい……すごいな、あんた。花びら一枚噛んだだけで、料理の皿からワインの産地までパッと出てくるのかい」
「今度はこっちも試してみて」
日向が今度は、深い夜空のような青色をした星形の花を差し出した。
表面には、細かな銀色の産毛がびっしりと生えている。
「ボリジです。ハーブのルリジサですね」
舟はその花を受け取ると、鼻腔に近づけて香りを吸い込み、ゆっくりと口に含んだ。
「……キュウリ」
「当たり! 爽やかでしょう?」
「ええ、驚きました。みずみずしいウリ科の芳香と、わずかに感じる蜜の甘さ。テクスチャーは柔らかく、産毛の舌触りがかすかに心地いい。……これなら、ロワールのサンセール、あるいはニュージーランドのマールボロのような、刈りたての芝生やハーブの香気を持つソーヴィニヨン・ブランと最高のマリアージュになります。ライムを搾ったジンベースのカクテルに浮かべても、香りの輪郭がぐっと引き締まる」
舟は次々と花を手に取り、香りを吸い、舌の上で転がした。
カレンデュラのほろ苦いハーブ香、ビオラの持つ微かな甘酸っぱさと土のニュアンス――。
普段は静かで控えめな舟が、香りと味という自身の領域に足を踏み入れた途端、まるで水を得た魚のように雄弁になる。
その横顔を、日向はじっと見つめていた。
ただ花を「綺麗」と褒めるのではない。
その花が育った土、吸い上げた水、花弁の奥に秘められた香気や苦味の成分までを解き明かし、グラスの中のワインと結びつけて、ひとつの完成された物語へと昇華させていく。
(……やっぱり、この人はすごい)
日向の胸の奥が、ぎゅっと熱く掴まれたように跳ねた。
自分が愛し、農家が丹精込めて育てた花たちが、舟の言葉を通して全く新しい命を吹き込まれていくのを見るのが、誇らしくて、たまらなく嬉しかった。
「東さん、このナスタチウムとボリジ、それからこのカレンデュラを分けていただけますか。姫織と相談して、夏限定のアミューズとペアリングのコースを組み立てたい」
舟が眼鏡を押し上げ、まっすぐに日向を見つめた。
その真剣な眼差しを受け止めた日向は、頬をわずかに上気させながら、とびきりの笑顔で頷いた。
「はい! 最高の状態で仕入れて、お店にお届けしますね!」
加島が目を細め、「若いってのはいいなぁ」と楽しそうに笑いながら、パックを手際よく専用の段ボール箱へと詰め始めた。
市場の冷涼な空気の中、ふたりの専門性が初めて完璧な形で交差した瞬間だった。




