第一節:朝露とコーヒー
午前五時二十分。
東京の東の空が、夜の濃紺から淡い白金色へと溶け始めていた。
初夏の生ぬるい風が吹き抜ける大田市場の花き棟前。
アスファルトの冷たさがまだ残る歩道に、海棠舟は立っていた。
黒のシンプルなシャツに薄手のジャケットという出立ちだが、その目元には隠しきれない濃い隈が落ちている。
普段なら、店の片付けを終えてセラーの温湿度記録をつけ、ようやく自宅のベッドに潜り込んでいるはずの時間だった。
眼鏡の奥の瞳は、容赦なく明るくなっていく早朝の空に痛そうに細められている。
「……五時半、か」
手元の腕時計を覗き込み、舟はかすかに喉を鳴らした。
昨夜、店を閉めてから自宅でベッドに倒れ込んだのが午前三時過ぎ。
鳴り響く八つの目覚まし時計を止め、重い体をなんとか引きずり起こしてここへ辿り着いたのだ。
普段なら一番深い眠りに落ちている時間帯である。
容赦なく明るくなっていく早朝の空に、眼鏡の奥の瞳が痛そうに細められた。
「舟さーーん!」
市場の喧騒を突き抜ける。
振り返ると、花き棟の搬入口近くに停められた白い軽バンの影から、小柄な人影が小走りで駆け寄ってくるのが見えた。
東日向だった。
いつものロングスカートやエプロン姿ではなく、動きやすそうなワークパンツに、袖を捲り上げたカーキ色の作業用ジャケット。
長い髪は崩れないよう後頭部で手際よくシニヨンにまとめられ、首元には汗拭き用の小さな手ぬぐいが巻かれている。
「おはようございます! 本当に来てくれた!」
日向は舟の真正面で足を止めると、まるで朝日の光そのものを浴びた花のようにパッと屈託のない笑みを咲かせた。
「……おはようございます。約束ですから。寝坊するわけにはいきません」
「ふふっ、でも舟さん、目が全然開いてないですよ。やっぱり眠いですよね?」
「……そうですね。体内時計が、今はまだ寝ている時間だと主張しています」
舟がどこか遠い目をして呟くと、日向は肩を揺らして吹き出した。
「あはは! ちゃんと約束通り起きてくれたんですね。……はい、これ。来る途中の自販機で買ってきたんです。眠気覚ましにどうぞ」
差し出されたのは、水滴をまとったブラックの缶コーヒーだった。
「……ありがとうございます。助かります」
プルタブを起こし、冷えた黒い液体を喉に流し込む。
強烈な苦味とカフェインが、霞んでいた頭の奥をチリチリと刺激した。
「じゃあ、行きましょうか! 七時前になると買い付けのトラックでごった返しちゃうので、今のうちに農家さんの集荷ブースを回っちゃいましょう」
日向は手慣れた足取りで踵を返すと、迷いなく巨大な市場の建物へと歩き出した。
舟は缶コーヒーを片手に、その背中を追う。
建物の中に一歩足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気が一変した。
冷房と大量の水によってひんやりと冷やされたフロア。
頭上を飛び交うフォークリフトや小型運搬車――ターレットトラックのエンジン音、タイヤが床を擦る甲高いスキール音、そして仲卸や買い出し人たちの威勢のいい怒声。
そして何より、舟の鼻腔を圧倒したのは「植物の匂い」だった。
何千、何万という切り花が放つ、青く瑞々しい茎の匂い、甘い花の蜜、冷たい水、湿った段ボールの紙の匂い。
地下の「Coeur Verre」で嗅ぐ、グラスに閉じ込められた熟成の香気とはまるで違う。
命そのものが剥き出しになって、呼吸を続けている匂いだった。
「足元、気をつけてくださいね! 床、水で滑りやすいですから」
すれ違う市場関係者に「おはようございます!」と元気よく挨拶を交わしながら、日向は人混みを軽やかにすり抜けていく。
小柄な体のどこにそんなエネルギーがあるのかと思うほど、その歩みには迷いがなく、背筋には一本の芯が通っていた。
(……仕事の顔だ)
バーのカウンターで見せる愛らしさや、真白の花の前で見せた儚げな憂いとは違う。
ここは彼女の戦場であり、生きている場所なのだと、舟は冷え切った缶を握りしめながら強く実感していた。
「舟さん、あそこです!」
日向が振り返り、仕分けエリアの奥に広がる一角を指差した。
色とりどりの小箱が整然と積み上げられたその棚の前に、朝の光が斜めに差し込んでいる。
「私がいちばん信頼してる、ハーブと食用花を育ててる加島さんのブースです。さあ、舟さん――とびきりの香りを、選びに行きましょう!」
日向が振り返って向けた笑顔は、市場のどんな花よりも鮮やかに、舟の眠った瞳を射抜いていた。




