第四節 雨の終わりに、夜明けの約束を
梅雨の終わりを告げる雨は、初夏のそれよりもどこか生温く、街のアスファルトを重く濡らしていた。
「Coeur Verre」の開店直前、海棠舟はカウンターの片隅で、仕入れ用の手帳にペン先を走らせていた。
手帳の余白には、ワインの銘柄とともにいくつかのハーブや植物の名が走り書きされている。
カラン、と湿気を払うような軽やかなドアベルが鳴った。
「こんばんは! 今日も少し降っちゃいましたね」
青い傘を畳みながら現れた日向は、もうすっかりこの店の雨の景色に溶け込んでいた。
カウンターの奥、真白の席に飾られた小さなガラスの花瓶へ、今夜は透き通るような白と淡い紫のトルコキキョウが丁寧に生けられる。
「いつもありがとう、日向ちゃん。……舟、今日も彼女に一杯頼むよ」
奥で仕込みをしていた姫織が声をかけ、舟は静かに手帳を閉じてカウンターの中央へ歩み出た。
「あの……舟さん、先日のセージ、どうでしたか?」
丸椅子に腰掛けた日向が、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて覗き込んでくる。
舟は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、小さく息をこぼした。
「……ええ。とても香りが立ちました。少し葉を指先で揉んで仕込みの合間に嗅ぐと、柑橘とはまた違う甘酸っぱいトップノートが広がって……おかげで、新しいデザートのペアリングの着想が湧きました」
「本当ですか! よかった、あげてみて」
日向がぱっと顔を輝かせる。舟はその眩しさから逃れるように視線を落とすと、手元に寄せていた手帳をちらりと見やり、迷うように口を開いた。
「それで……少し、東さんに相談したいことがありまして」
「私に? なんですか?」
「夏に向けて、ワインに合わせるプレートやデザートに添える、香りの良いエディブルフラワー(食用花)を探しているんです。ただ、一般の卸ルートだと見た目ばかりが華やかで、ブドウの持つアロマに寄り添えるような、香りや苦味の質が良いものになかなか巡り会えなくて」
ソムリエとしての真剣な眼差しを向けられ、日向は背筋をぴんと伸ばした。
花のこととなると、彼女の瞳からはいつもの柔らかさに加えて、プロとしての凛とした光が宿る。
「エディブルフラワーですね。確かに、スーパーや通常の卸で見かけるものは、彩り重視で香りが飛んでしまっているものが多いです。……でも、私の知り合いの農家さんで、土づくりからこだわって無農薬で香りの強いハーブや花を育てている方がいますよ」
「本当ですか」
「はい! 来週の火曜日、朝の仕入れで大田市場の近くにあるその農家さんの集荷場に寄る予定なんです。……もしよかったら、舟さんも一緒に行ってみませんか? 実際に自分の鼻で嗅いで、味見もしてみたほうが絶対にいいと思いますし」
「え……」
思いがけない提案に、舟は言葉を詰まらせた。
夜のバーという閉じた空間、あるいは昼下がりの「花紡」の店頭。
それ以外の場所で、しかも仕事の仕入れを共にするという距離感に、頭の中の計算が追いつかない。
「でも、市場の仕入れとなると……朝、かなり早いですよね」
「あはは、市場ですからね。朝の五時半集合です! ……舟さん、夜型だから起きられませんか?」
クスクスと笑いながら小首をかしげる日向に、舟はたじろぎつつも、胸の奥で小さな熱が生まれるのを感じていた。
香りを追求したいというソムリエとしての純粋な欲求と、あの太陽のような光を放つ彼女の仕事の現場をもっと見てみたいという、言葉にできない衝動。
「……五時半ですね。目覚ましを八つはかけておきます」
舟が真顔でそう答えると、日向は堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ、八つも! じゃあ、寝坊したら私が電話で起こしますね」
カウンターの端で二人のやり取りをグラス越しに眺めていた姫織が、満足そうにふっと口元を緩める。
雨音だけが優しく満たす薄暗い店内で、二人のあいだに、夜の帳を越えた新しい時間が静かに結ばれようとしていた。




