第三節 陽だまりのセージ
真白の命日の夜が明けた翌日は、昨夜の冷たい雨が嘘のように青空が広がっていた。
梅雨の晴れ間特有の強い日差しがアスファルトを乾かし、街全体が湿気を含んだ熱気に包まれている。
開店準備前の静かな店内で仕込みをしていた舟に、カウンターの奥から姫織が声をかけてきた。
「舟、少し頼まれてくれないか」
手渡されたのは、丁寧に折りたたまれた麻のトートバッグだった。
「昨夜のお礼を兼ねて、美月さんに店用のハーブと週末に飾る花を頼んであるんだ。これから酒販の営業と少し打ち合わせがあってね。代わりに受け取りに行ってきてもらえないかい」
「……わかりました。花紡、ですね」
「ああ。場所はわかるかい? 店を出て左、突き当たりを右に曲がったところで看板が見えるはずだ」
姫織の穏やかな視線に見送られ、舟は麻袋を肩にかけて店を出た。
階段を上がり路地へと出た瞬間、初夏の陽光が容赦なく降り注ぐ。
地下の薄暗がりを住処にしている舟にとって、地上の昼光は酷く眩しく、無意識のうちに眉間に皺が寄った。
猫背をさらに丸め、日陰を選びながら歩く。
教えられた道を辿り、突き当たりを右に曲がると、アスファルトの熱気の中に、ふと青々とした草木の匂いと、水をたっぷり含んだ黒土の香りが混ざり始めた。
道の先へと目をやると、木製の小さな看板が見える。
そこには柔らかい筆文字で『花紡』と刻まれている。
軒先には、初夏の陽射しを浴びて背筋を伸ばす色とりどりの花苗や切り花が溢れんばかりに並んでいる。
店内からは、よく通る賑やかな声が響いていた。
「昇陽! その奥のアジサイ、日が当たってるから中に移動させて!」
「わかってるって! 姉ちゃんこそ、そのバラ早く水揚げしないと首垂れちゃうぞ(しおれちゃうぞ)」
「言われなくても今やってますー! ほら、ホース踏んでる!」
デニムのエプロンをつけ、長い髪を高い位置でまとめた日向が、生花ハサミを片手に忙しなく立ち働いていた。
昨夜、バーのカウンターでエーデルワイスを前に静かに涙を湛えていた姿はどこにもない。
額に汗を光らせながら、隣に立つ青年に向かって屈託なく笑い声を上げている。
ホースを器用に使いながら言い返しているのは、日向によく似た涼しげな目元を持つ青年だった。
白のTシャツにハーフパンツ。身のこなしには無駄がなく、どこか若々しい清潔感がある。
日向が以前話していた、看護学生の弟・昇陽だろう。
「……二人とも、あんまり騒ぐとお客さんに笑われちゃうわよ」
店の奥から、落ち着いた涼やかな声とともに現れたのは、日向の面影をそのまま重ねたような女性だった。
手入れの行き届いたエプロン姿と、穏やかに弧を描く目元。
彼女が姿を見せるだけで、騒がしかった店先がふっと柔らかな空気に包まれる。
太陽の光を浴びて、水を撒き、土を触り、家族が笑い合う風景。
過去を静かに悼む地下のバーとは対照的に、ここは陽の光をいっぱいに浴びて、生き生きとした今日という時間が流れていた。
「……あ」
バケツを運ぼうとした日向が、ふと顔を上げた。
店先に立ち尽くしていた舟と、真正面から視線がぶつかる。
日向の目が丸くなり、次の瞬間、まるで真夏の太陽そのもののような笑顔が弾けた。
「舟さん!」
エプロンの端を揺らしながら、日向が小走りで駆け寄ってくる。
その眩しさに、舟は思わず気圧されるように半歩後退り、慌てて眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……どうも。店長に頼まれて、店用の花を受け取りに」
「ええ、母から聞いてますよ。いらっしゃい、舟さん!」
日向の声に振り返り、母の美月が優しい微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「あなたが舟さんね。直人さんから連絡をもらっていたわ。昨夜は真白ちゃんのために、素敵なワインを選んでくださったんですってね。本当にありがとう」
「いえ……とんでもありません。ソムリエとして当然のことをしたまでです」
舟が慣れない調子で頭を下げると、ホースを片付け終えた昇陽が、珍しいものを見るような目で舟をじっと見つめながら近づいてきた。
「へえ……あんたが直人さんの店に新しく入ったソムリエさんか。姉ちゃんが昨日帰ってきてからずっと、『舟さんの選ぶワインは魔法みたいだ』ってうるさかったんですよ」
「ちょ、昇陽! 余計なこと言わなくていいの!」
日向が顔を真っ赤にして弟の腕を小突く。
昇陽は痛がる素振りも見せず、からかうように肩をすくめて舟に向き直った。
「東昇陽です。看護学生やってます。姉がいつも直人さんの店でご馳走になってるみたいで、すみません。……なんか、もっと気取ったキザな人が来るのかと思ってたら、意外と普通っていうか……むしろちょっと暗いんですね」
「昇陽、失礼でしょ!」
美月がピシャリとたしなめるが、舟は怒る気にもなれず、むしろその率直さに口元をわずかに緩めた。
「……よく言われます。地下の穴ぐらにばかりいるので」
「あはは、でもその方が直人さんの店っぽくて安心した。姉ちゃん、変な男に引っかかってないみたいでよかったよ」
「もう、なんなのその上から目線は!」
騒がしくやり合う姉弟の姿を、美月が目を細めて見守っている。
美月は店先から、丁寧に水揚げされた瑞々しいハーブの束と、淡いグリーンの小花をあしらった花束を抱えて戻ってきた。
「直人さんからのご注文よ。カクテル用のフレッシュミントとローズマリー、それからカウンター用のバイカウツギ。清涼感のある良い香りだから、夏のバーにぴったりだと思うわ」
麻袋に収められた植物からは、太陽の熱とハーブの爽快なアロマが立ちのぼった。
普段セラーで嗅ぐ冷涼な果実香とは違う、今まさに大地から命を吸い上げている植物の力強い匂いだった。
「……ありがとうございます。大切に運びます」
「舟さん、これ!」
店を出ようとした舟の手元へ、日向が小さな紙包みを差し出してきた。
包みの中には、細い銀緑色の葉をつけたフレッシュなパイナップルセージの小枝が、二、三本入っていた。
「さっき剪定したばかりなんです。葉っぱを指で少し擦ってみてください」
舟が言われた通り、親指の腹で小さな葉を軽く擦ると、甘酸っぱく弾けるような芳香が鼻腔を突き抜けた。
「パイナップル……」
「ね、果物みたいな匂いがするでしょ? 昼間の太陽をいっぱい浴びたセージです。これ、舟さんにあげます。疲れたときに嗅ぐと、頭がすっきりするから!」
日向の琥珀色の瞳が、初夏の光を浴びてきらきらと輝いている。
昨夜のバーで見た憂いを帯びた横顔とはまるで違う、一点の曇りもない生命力。
舟は手の中の小さな緑の小枝を見つめ、それからもう一度、日向の眩しい笑顔を見上げた。
胸の奥の、ずっと埃をかぶっていた何かが、陽だまりの熱で静かにほどけていくような気がした。
「……いただきます。仕込みの合間にでも」
短く答えて頭を下げた舟の耳朶が、またしてもわずかに赤らんでいた。
それを見逃さなかった日向が、悪戯っぽく、けれど嬉しそうに目を細めて手を振る。
「また雨の夜に、お店に行きますね!」
太陽の匂いを背中に受けながら、舟は麻袋を抱え直して歩き出した。
手元から香るセージの甘酸っぱさが、地下へ戻る足取りを、ほんの少しだけ軽くしていた。




