第二節 白い星とアルプスの雪解け水
六月の半ば、予報通りの冷たい雨が、薄暗い夕暮れの街をしとしとと濡らしていた。
半地下のワインバー「Coeur Verre」のカウンター奥。
いつもは空のまま静けさを保っているその席の前に、店主の姫織直人は開店前から静かに立ち尽くしていた。
磨き上げられた黒檀のカウンターの上には、水を入れた小さなガラスの花瓶がひとつ、ぽつんと置かれている。
「……舟」
「はい」
手元のクロスを止めた海棠舟に、姫織は振り返らず、ポツリと呟いた。
「真白が生きていれば、今年でちょうど二十歳になるんだ」
低く、どこかかすかに震える声だった。
「体が弱くて十五で逝ってしまったけれど……生きていたら今年、初めてここで乾杯してやれるはずだった。あいつ、アルプス山脈の写真集ばかり眺めては、『大人になったら、本物の雪山を見に行って、そこでお兄ちゃんのお酒を飲むんだ』って笑っていたよ。今夜花紡に、真白の好きだった花を頼んでいるんだ」
「……聞いています」
舟が小さく息を呑んだその時、階段を降りてくる控えめな足音とともに、真鍮のドアベルが静かにチリンと鳴った。
現れた東日向は、いつも羽織っている明るいレインコートではなく、落ち着いた藍色の傘を携え、濡れた雫を丁寧に拭ってから入ってきた。
その腕の中に大切そうに抱えられていたのは、白木の小さな木箱だった。
「こんばんは、直人さん。……舟さんも」
いつもの飛び跳ねるような声のトーンを少し抑え、日向は柔らかく微笑んだ。
日向はカウンターの奥、姫織の前へ進むと、木箱の蓋をそっと外した。
中から取り出されたのは、綿毛のような細かな銀色の毛をまとった、雪のように白い星形の花だった。
派手な主張はない。
けれど、過酷な断崖に根を張る高山植物特有の、凛とした気高さが薄暗い店内に満ちていく。
「母がスイスから取り寄せてくれたんです。今年も、綺麗に咲いてくれました」
日向の手によって、小さなガラスの花瓶へと静かにエーデルワイスが生けられた。
暗がりのバーの中で、その白い花弁はまるで自ら微光を放つ星のように浮かび上がっている。
「……ありがとう、日向ちゃん。きっと真白も喜んでいるよ」
姫織の瞳に、かすかな潤みが走ったのを舟は見逃さなかった。
姫織はふっと息を吐き、いつもの穏やかなマスターの顔に戻ると、カウンターの中央の椅子を手で示した。
「日向ちゃん、座って。冷たい雨の中を歩かせてしまったね。……舟、頼めるかい。日向ちゃんと、そして真白に」
「……もちろんです」
舟は背筋を伸ばし、セラーの最下段、最も温度管理に気を配っている冷涼なスペースへと手を伸ばした。
彼が引き抜いたのは、細身の美しいボトル。
ラベルにはスイス連邦の小さな十字の紋章が刻まれている。
「スイス・ヴァレー州の白ワインです。品種は、プチ・アルヴィン」
舟の淀みのない所作でグラスへと注がれた液体は、青みがかった透明感のあるプラチナゴールドだった。
注がれた瞬間、湿気を帯びた空気の中に、グレープフルーツや白い野花、そして何より濡れた石を思わせる、ピンと張り詰めたミネラルの芳香が立ち上がる。
「エーデルワイスと同じ、アルプス山脈の雪解け水を吸って育ったブドウから造られています」
舟は日向の前、そしてカウンター奥のエーデルワイスの前に、それぞれグラスを滑らせた。
「厳しい高地の気候に耐え抜いたブドウだけが持つ、芯のある酸と塩味を含んだミネラルがあります。……冷たく澄んでいるけれど、奥に確かな生命の力強さを宿している。二十歳を迎える真白さんが憧れた景色と、彼女の愛した花に、これ以上のテロワール(大地)はないと思いました」
日向はそっとグラスに口をつけた。
冷涼な液体が舌の上を滑り落ちた瞬間、日向の琥珀色の瞳が驚きに揺れ、やがてじんわりと温かな色を帯びた。
「……すっごく、綺麗。冷たいのに、全然トゲトゲしていなくて……山を吹き抜ける風の匂いがします」
「ああ、本当だね」
姫織もまた、真白の席のグラスを手に取り、妹の遺影代わりの花に向けて掲げてから、一口含んで静かに目を閉じた。
「真白がずっと憧れていたアルプスの風を感じるよ。あいつもきっと、胸を張って『おいしい』って笑ってる。……舟、とびきりの二十歳の祝い酒をありがとう」
「……喜んでいただけて何よりです」
舟は恐縮するように眼鏡のブリッジを押し上げ、いつものように視線を伏せた。
けれどその横顔には、姫織の深い傷跡に寄り添い、亡き妹への約束を果たせたことへの静かな誇りが滲んでいた。
エーデルワイスの白い星が、雨の夜のグラスの横で優しく咲き誇っている。
雨音だけが優しく響く地下の空間で、三人の心は、亡き妹への祈りを通してひとつの家族のように静かに重なり合っていた。




