第1節 雨宿りのゲヴュルツトラミネール
雨脚が強まるにつれ、地上の喧騒はアスファルトにしみ込む水音へと溶けていく。
路地裏の半地下に店を構えるワインバー「Coeur Verre」の重い樫の扉は、外の湿度を遮断するように固く閉ざされていた。
店内を包むのは、古い真空管アンプから微かに流れるビル・エヴァンスのピアノと、クリスタルガラスが擦れ合うかすかな摩擦音だけ。
カウンターの奥で、ソムリエの海棠舟は猫背のまま無言でクロスを動かしていた。
少し伸びた黒髪が銀縁の眼鏡にかかり、着崩した黒のベストと緩めたタイが、どこか世間との間に引いた境界線のように馴染んでいる。
ボルドー型の大きなグラスを光に透かし、曇りひとつないことを確かめると、彼は小さく息を吐いた。
「舟、今夜は一段と降るな」
低く落ち着いた声でそう言ったのは、この店の店主でありチーフバーテンダーの姫織直人だった。
仕立ての良いシャツを完璧に着こなした姫織の視線は、カウンターの最も奥、誰も座っていない端の席へと静かに向けられている。
雨の夜、その席にはいつも、亡き妹・姫織真白の面影を偲ぶ小さなガラスの花瓶が置かれることになっていた。
「ええ。この降り方だと、今夜のお客は二人か三人……それも、雨宿りついででしょうね」
舟がボソリと返す。
口数は少ないが、その声には酒と静寂を愛する男特有の柔らかな沈黙が混ざっていた。
そのとき、階段を降りてくる軽やかな足音とともに、真鍮のドアベルがチリンと澄んだ音を鳴らした。
湿り気を帯びた外気とともに店内に滑り込んできたのは、雨の冷たさを一瞬で塗り替えるような、青く瑞々しい植物の匂いだった。
「こんばんは! 『花紡』です。雨、すっごく強くなってきちゃいましたね!」
ずぶ濡れのビニール傘を傘立てに滑り込ませ、大きな雨合羽を脱ぎながら現れたのは、実家の花屋「花紡」で働く東日向だった。
店内の薄暗がりがパッと息を吹き返したかのように、彼女のまわりだけ光の粒子が散っている。
滴を払う仕草も、濡れた頬を手ぬぐいで拭う手つきも、どこまでも屈託がない。
彼女が抱えていたのは、丁寧にワックスペーパーで包まれた、雨粒の残る花々だった。
「直人さん、今夜のお花持ってきました! 雨の夜は空気が重たくなるから、ワインの香りを邪魔しないように選んでみたんです。透き通るような青のデルフィニウムに、細かな泡みたいなホワイトレースフラワー。アクセントにリキュウソウの蔓を添えてます!」
日向がカウンターへ広げた花束から、雨露を含んだ澄んだグリーンと、ほんのりと清涼感のある甘やかな香りがふわりと立ちのぼる。
日向はカウンターの中でクロスを止めている舟に気づくと、くしゃっと屈託のない満面の笑みを向けた。
「舟さん、こんばんは! 今夜も眼鏡がちょっと曲がってますよ」
「……あ、どうも。……足元、濡れてませんか」
舟は不意に正面からその光を浴びたように、わずかに視線を泳がせ、人差し指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「平気です! 長靴履いてきたので無敵ですよ」
そう言って胸を張る日向。
舟の視線は、彼女の濡れた前髪から、カウンターの上に広げられたデルフィニウムの深い青へと自然に移った。
雨水を湛えた花弁の質感、そして立ち上る微細な芳香。ソムリエとしての舟の嗅覚が、無意識のうちに記憶の引き出しをめくり始める。
「……デルフィニウム、ですか」
舟がぽつりと呟いた。
「雨の日の湿度は、花の青さを一番綺麗に見せますね。……それに、レースフラワーの少しスパイシーなグリーンノートは、冷えた空気によく合っている」
「わ、わかります!?」
日向がぱっと目を丸くし、カウンターに身を乗り出した。大振りの琥珀色の瞳が、舟を捉える。
「湿気が強い日って、強い香りの花を持ってくるとワインバーの邪魔になっちゃうでしょう? だから、鼻に抜けるのが爽やかな子たちばっかり集めたんです! さすが舟さん、やっぱり一瞬でバレちゃいましたね」
嬉しそうに笑う日向の勢いに、舟は思わず半歩だけ後退り、居心地悪そうに首筋を掻いた。
「……いえ。香りを嗅ぎ分けるのが、私の仕事ですから」
「ふふ、照れちゃって」
そのやり取りを、姫織はカウンターの端から氷を削る手を止めずに、どこか懐かしむような穏やかな眼差しで見守っていた。
「日向ちゃん、配達はこれで終わり?」
氷を丸く削り終えた姫織が、手ぬぐいで指先を拭きながら、ふっと目元を緩めて声をかけた。
「あ、はい! 今夜はもう直人さんのところでおしまいです。母からも『雨が酷いから、配達終わったら寄り道しないで帰っておいで』って言われてて」
「そうか。でも、外はさっきより本降りになってきたみたいだよ」
姫織が目配せすると、路地へ続く半地下の小窓に叩きつける雨音が、トントンと小刻みに重さを増していた。
「雲が抜けるまで、三十分くらい雨宿りしていきなよ。身体も冷えちゃっただろ。……舟、日向ちゃんに何か一杯出してあげて」
「えっ、でも私、仕事着のままだし……」
恐縮して手を振る日向の言葉を遮るように、舟は無言のままカウンターの下から、ボウル部分がゆったりと膨らんだ大振りのグラスを取り出した。
これまで日向が花を届けてくれる際、軽く言葉を交わすことはあった。
だが、彼女はいつも次の配達へと慌ただしく駆け戻り、舟もまた必要以上の会話を自分から広げることはなかった。
彼にとって日向は「雨の夜に光を連れてくる、少し眩しすぎる花屋の娘」であり、日向にとっても舟は「いつもカウンターの奥にいる、静かで博識なソムリエ」の域を出ていなかったのだ。
舟が日向のためにワインを選ぶのは、今夜が初めてだった。
「……アルコールは、飲めますか」
ボソリと問う舟に、日向は少し驚いたように瞬きをして、それから嬉しそうに頷いた。
「はい! 強くはないですけど、お酒の匂いや味は好きです」
「では、少しだけ」
舟は背筋をわずかに伸ばし、ワインセラーの重いガラス扉を開けた。
薄暗いセラーの奥から、彼が迷うことなく指をかけたのは、背の高いすらりとした形状のボトルだった。
フランス・アルザス地方の白ワイン。
ラベルには黄金色の紋章が刻まれている。
カウンターに戻った舟の手つきは、先ほどまでの猫背で気だるげな佇まいとはまるで別人のように、無駄がなく滑らかだった。
ソムリエナイフのスクリューが吸い込まれるようにコルクの中心を捉え、微かな音とともに抜栓される。
グラスへと静かに黄金色の液体が注がれた瞬間、日向の鼻腔を、鮮烈なアロマがくすぐった。
「……わっ……!」
日向が思わず声を漏らす。
グラスの淵から立ちのぼってきたのは、まるで今まさに満開を迎えた花束を鼻先に寄せられたかのような、圧倒的な芳香だった。
ライチや白桃の瑞々しい果実感、そして何より、雨露に濡れた白い薔薇やスイートピーを思わせる、甘やかで気品のある香気。
「ゲヴュルツトラミネールです。アルザスの、少し樹齢の古いブドウから造られたもの」
舟はグラスを日向の前のコースターへ滑らせ、眼鏡の奥の瞳を静かに伏せた。
「あなたが今日持ってきてくれた花……デルフィニウムの澄んだ青と、レースフラワーの少しスパイシーなグリーンの気配に、このワインの持つ華やかな香りがよく寄り添うと思いました。雨の夜の湿度は、このブドウの持つアロマを一番柔らかく開かせてくれるんです」
日向は両手でそっとグラスを持ち上げ、信じられないものを見るように目を丸くした。
グラスの底に揺れる淡い黄金色の中に、カウンターに飾られたデルフィニウムの青と、彼女自身の驚いた笑顔が映り込んでいる。
「すごい……舟さん、これ……グラスの中にお花が咲いてるみたいです」
日向が顔を上げ、心の底から感嘆の吐息を漏らした。
その無防備で眩しい笑顔に射抜かれ、舟は小さく咳払いをすると、逃げるように手元のクロスへと視線を落とした。
「……大袈裟ですよ。ただの、香りの組み合わせです」
「ううん、違います。私、お花を売る仕事をしてるのに……お花って、こんなふうにグラスの中でも咲くんだって、初めて知りました」
日向は両手でグラスの脚を包み込むようにして、もう一口、今度は舌の上で転がすようにワインを含んだ。
喉を通ったあとも、鼻の奥にふわりと甘く瑞々しい花の余韻が残り続けている。
「……本当においしい。身体の芯が、じわってあったかくなってきます」
日向はほっと息を吐き、カウンターに置いたままの自分の手元をまじまじと見つめた。
爪のあいだには、水仕事と茎の手入れで落ちきらなかったわずかな土の跡がある。
「私ね、小さい頃からずっとお花に囲まれて育ったんです。母の『花紡』の手伝いをするのも大好きで。でもたまに、『お花って、ただの飾りなのかな』って思っちゃうことがあって」
舟はグラスを拭く手を止め、視線だけを日向へと向けた。
普段の底抜けに明るい笑顔の奥に、ふっと落ちた影。
日向は恥ずかしそうに小さく笑って、肩をすくめた。
「父は緩和ケアの先生で、弟の昇陽も今、看護師を目指して実習で毎日ヘトヘトになってて。二人ともすごくカッコいいんです。誰かの苦しい時に寄り添って、命と向き合ってて。それに比べたら、お花屋さんって、別になくても人は生きていける仕事じゃないですか」
「ワインも、同じです」
低く、けれど迷いのない声だった。
舟は眼鏡のブリッジに指を添え、カウンター越しに日向の前に置かれたグラスを指先で示した。
「水やパンと違って、人が生きていく上で絶対に摂取しなきゃいけないものじゃない。なくても命に別状はない……いわば、贅沢品です」
舟の言葉は淡々としていたが、その奥には確固たる矜持が宿っていた。
「でも、人はただ息をして心臓を動かすためだけに生きてるわけじゃない。打ちのめされた夜や、冷たい雨に降られた帰り道に、心の手触りを取り戻すためにワインを飲むんです。……あなたの持ってくる花も、きっとそれと同じですよ」
舟は視線をカウンターの端、姫織が静かに一輪挿しを置いた誰もいない席へと向けた。
「あの席に花があるだけで、雨の夜のこの店は、ただの暗い穴ぐらじゃなくなる。……少なくとも私は、あなたが花を持ってきてくれる雨の日を、悪くないと思っています」
口下手な舟にしては、珍しいほどの長台詞だった。
言い終えた瞬間、舟は自分が柄にもなく熱弁を振るってしまったことに気づき、気まずそうに目を逸らして小さく咳払いをした。
「……まあ、ソムリエの独り言です」
日向は丸くした目をぱちぱちと瞬かせ、それから、今まで舟が見たどの瞬間よりも深く、柔らかく微笑んだ。
「……舟さんって、やっぱり優しい人ですね」
「……買い被りです」
「ううん。すっごく救われました。私、この仕事やっててよかったなぁ」
日向は嬉しそうにワイングラスを空にすると、名残惜しそうに唇を拭った。
小窓を叩く雨音は、いつの間にか微かな小ぬか雨の気配へと弱まっている。
「あ、雨、少し引いてきたみたいです。ごちそうさまでした! 本当においしかったです。……あの、これ、お代……」
日向がエプロンのポケットから小銭入れを取り出そうとするのを、カウンターの奥から姫織が手で制した。
「いいよ、日向ちゃん。今夜は僕が舟に頼んだんだ。雨の中、いつも綺麗なお花を届けてくれるお礼さ」
「えっ、でも……」
「その代わり」
と、姫織は悪戯っぽく笑ってカウンターの花を指差した。
「また次の雨の日も、とびきりの花を頼むよ」
「……はい! もちろんです!」
日向は満面の笑みで頷き、合羽を羽織り直すと、傘を手に取った。
扉へ向かいかけた彼女は、ふと思い出したように振り返り、カウンターの舟に向かってぺこりと頭を下げた。
「舟さん! また、雨が降ったら!」
「……ええ。お気をつけて」
チリン、と澄んだ真鍮のドアベルが鳴り、樫の扉が静かに閉まる。
店内に残されたのは、雨露を含んだデルフィニウムの青い香りと、日向が空にしたグラスの底に残る、かすかなゲヴュルツトラミネールの芳香だけだった。
再び訪れた静寂の中、舟が無言で空のグラスを下げようとした時、横から低く含み笑いをする声が聞こえた。
「舟」
「……なんですか、直人さん」
「お前があんなに長い台詞を喋るの、この店に来てから初めて見たよ」
姫織が手元のグラスを磨きながら、面白そうに目を細めている。
舟は仏頂面のまま、グラスを洗い場へ運んだ。
「別に。……ソムリエとして、客の問いに答えただけです」
「客、ねえ。普段の常連さんには『果実味が豊かです』くらいしか言わないくせに」
「……うるさいです」
蛇口から流れる水の音で誤魔化すように、舟はスポンジを動かした。
否定しながらも、自分の耳たぶが微かに熱を持っているのを、舟自身が一番よく分かっていた。
カウンターの隅、姫織の亡き妹のために飾られた一輪挿しの中で、雨露をまとった青いデルフィニウムが、薄暗い間接照明を受けて静かに咲き誇っている。
いつもの陰鬱な雨の夜が、ほんの少しだけ違った匂いを帯びて、二人の男のあいだを流れていった。




