第五節:夏のアミューズと、青空の余韻
午後四時過ぎ。
夕暮れ前の「Coeur Verre」の店内には、階段の上からわずかに初夏の乾いた風が吹き込んできていた。
地下特有のひんやりとした静けさの中、カウンターの上には、朝大田市場から届いたばかりの鮮やかな色彩が並んでいる。
水滴をまとった鮮やかなオレンジのナスタチウム、星型の深い青を湛えたボリジ、そして陽だまりのような山吹色のカレンデュラ。
朝露を吸い上げた花々は、室温に触れてふわりと青い野生の香気を放ち始めていた。
「ほう……これは見事なもんだね」
厨房から姿を現した姫織が、花びらの張りを指先で確かめながら感嘆の声を漏らした。
「日向ちゃんが信頼している契約農家さんのものです。無農薬で育てられていて、見た目だけではなく味の骨格と香りの輪郭がはっきりしています」
舟はすでに黒のソムリエエプロンを締め、手元のカッティングボードに向き合っていた。
横には薄く引かれたスモークサーモンと、細かく刻まれたフェンネル、そして冷やされたガラスの平皿が置かれている。
ピンセットを握った舟は、まるで精密な絵画を描くように、淡いサーモンの上にナスタチウムの花弁とボリジの青い星を散らしていく。
皿の縁には、柑橘のコンフィチュールとオリーブオイルが一筋。
「マスター、試食をお願いします。それと……このロゼを」
舟が抜栓したのは、淡い桜色をしたプロヴァンスの辛口ロゼだった。
グラスに少量注ぎ、皿の横へ静かに滑らせる。
姫織はフォークを取り、花びらとサーモンを一緒に巻き取って口へ運んだ。
咀嚼し、続けてロゼを一口含む。
数秒の沈黙ののち、姫織の眉が心地よさそうに緩んだ。
「……なるほどな。ナスタチウムのピリッとした辛味が、サーモンの脂をキュッと引き締める。そこにボリジのキュウリのような爽やかさが抜けて……このロゼのベリー香とミネラルが全部を綺麗に束ねていく。見た目の華やかさだけじゃない、ちゃんと舌の上で計算された一皿だ」
「ありがとうございます。」
舟が小さく息をつくと、姫織はグラスをカウンターに置き、悪戯っぽく口元を緩めた。
「しかし、あの夜型の舟が、朝の市場まで出向いて仕入れてくるとはね。……よっぽど、日向ちゃんとの約束が楽しみだったのかな」
「……からかわないでください。純粋に、香りの良い食材を確かめたかっただけです」
舟は視線を逸らし、眼鏡のブリッジを押し上げた。
だが、その耳朶がわずかに熱を帯びているのを、百戦錬磨のバーテンダーが見逃すはずもなかった。
「ふふ、まあそういうことにしておこうか。……でも、いい顔つきになったよ、舟。ここへ来たばかりの頃の、埃っぽいガラスみたいな硬さが抜けてきた」
姫織の言葉に、舟は手元に残った一輪のボリジに目を落とした。
――『私が繋いだバトンが、舟さんの手で今度は美味しい一皿やグラスに変わるんだって思ったら……なんだか私まで胸がいっぱいになっちゃって』
市場の喫茶店で、トーストを頬張りながらまっすぐに語っていた日向の瞳が、鮮明に脳裏をよぎる。
そして――助手席の微睡みの中で耳にした、あの短く苦しげな吐息。
(……少し、疲れていたのだろうか)
胸の奥に小さな棘のような引っかかりを残しながらも、去り際の彼女の眩しい笑顔を思い出し、舟は小さく頭を振って思考を払った。
ふと見上げると、カウンター奥の真白の席に飾られた一輪挿しには、今朝、日向が「おすそ分け」と言って置いていったばかりの小さなカレンデュラが、温かく咲いている。
「雨の降っていない日にも、花は届くんですね」
舟の呟きに、姫織が穏やかに頷いた。
「ああ。天気が晴れでも雨でも、いい店にはいい風が吹くもんだ」
階段の上の扉が開き、初夏のからりとした青空の匂いが、地下のバーへと静かに流れ込んできた。
夜だけの雨の約束だったふたりの時間に、確かな新しい季節が始まろうとしていた。




