第四十八回
「ベートーヴェンの音楽の『毒性』については、いみじくもトルストイが言及しておりますね」
美月の囁きを明子が伝えた。後を受けた鞠花の声には、どこか自失したような響きが含まれていた。
「ヴァイオリンソナタ第九番。通称、『クロイツェル』」
「ベートーヴェンファンではなくとも、この曲を好んでいる人が、意外に多いのです。私も何度かヴァイオリニストと組んで、『クロイツェル』メインのリサイタルを行いましたが、例えば『ハンマークラビーア』などを演奏する時とは、客層が微妙に異なっているのを感じます」
明子の口の動きが、美月とほんのワンテンポしかずれていないのは驚異的と云えた。幻惑されたのか、背格好はともかく、基本的に顔立ちの異なる二人が、一卵性双生児のように、しだいに似通ってくるのだった。彼女は続けた。
「ご存じのとおり、第九番はヴァイオリンとピアノが等価値で絡むという、当時としては革新的な曲でした。もちろん、私のピアノではなく、ヴァイオリンの演奏を目当てに来るかたも多いのでしょう。けれども、例えば第五番の『春』しか演らないときと、『クロイツェル』を入れた場合とでは、やはり違いを感じるのです」
「どのような?」
私は覚えず口に出した。明子と美月の視線が、同時にこちらへ向けられた。
「明らかに、この曲『だけ』を聴きに来る何割かの客がいる。そう感じます」
「まるで取り憑かれたように……」掠れた声で、堀川がつぶやいた。
トルストイの中編小説「クロイツェル・ソナタ」は、まさに、この曲に憑かれた男の話だと云える。狂気じみた嫉妬に駆られ、ついに妻を殺す男。あたかもかれは、最初のハードロックと見做されるビートルズの「ヘルター・スケルター」を聴いてアタマをぶっ飛ばされ、血みどろの殺人へと突っ走った、チャールズ・マンソンの原型ではなかろうか。
咳払いして、蒲良が云う。
「作中、トルストイは、音楽を武器に例えておりましたね。兇器と言い換えても宜しいか。音楽は、自分という位置情報を喪失させ、異次元へ連れ去るのだとか」
「ワーグナーに憑かれたヒットラーのように、か」
京林が眉根を寄せたあと、ここぞとばかりに、堀川が畳みかけた。
「これほど恐ろしい破壊力を持つ兇器が、何の規制も受けないまま、世の中にごろりと転がっている。いみじくも文豪が予言したとおり、これは由々しきことなのかもしれません。人の心を狂わせ、操り、場合によっては殺めてしまう。その象徴として、ベートーヴェンの楽曲が取り上げられているのは、果たして単なる偶然でしょうか」
芝居気たっぷりに、明子から鞠花までぎろりと見渡し、言葉を継いだ。
「そして我々は『偶然』、一つの楽譜を手にしました。それはまさにかれが、音楽を一つの兇器として用いたものなのです」
下界を列車が通り過ぎる音が、ごく幽かに聴こえた。沈黙に耐えかねたように、鞠花が口を開いた。
「実際に演奏してみたの?」
「いいえ、一度も。これは是非とも、最高のキャスティングで行いたかったので」
血走った目で、堀川は鞠花を見つめ、次に美月へ視線を移した。ゆっくりと手を叩く音が響き、私をぎょっとさせた。
「拍手を、諸君。喜劇は終わった……いいえ、喜劇の幕が上がるのは、これからというわけね。面白いわ。あなたたちも、そう思わない?」
苫江はゆったりと身を反らし、背後に居並んでいるメイドたちに顔を向けた。さっきからずっと不動の姿勢を崩さないので、まるで置物か何かのように、彼女たちの存在を忘れかけていたほど。
「何か見解はないの? 勅使河原」
テシガワラと呼ぶ声が、鞭打つように冷たく響いた。傲慢さと底意地の悪さが、その一言に凝縮されていた。それでいて苫江の態度が、一枚の絵として秀でていたことは、認めざるを得ない。そこには現代社会から絶滅して久しい、一人の「女帝」が確かに座っていた。
三白眼のメイドが瞬時、眉根を寄せるのが判った。すぐに持ち前の無表情に戻ると、腰から奇麗に三十度、一礼した。
「ございません」
「私は見解を求めてるのよ。見解という言葉が、判らない?」
さも苛々した風に、女帝はテーブルを指で四回叩いた。その音が、私の耳にはバカモノと響いた。メイドはけれど、顔色一つ変えず、いや、もともと顔色はよくないのだが、さっきと全く同じ角度で、もう一度頭を下げた。
「申し訳ございません、奥さま。僭越ながら、私は、九という数字に興味を覚えました」
三白眼のメイドは「私」を「わたくし」と発音した。




