第四十九回
苫江の顔に軽蔑しきった、けれども幾分、感心したような表情が浮かんだ。
「あなたは、いわゆるナンバー9の呪いのことが言いたいの?」
「仰言るとおりでございます、奥さま」
実に巧みな逃げ方だ。私は苫江とは別の角度から、この名前も態度も風変わりなメイドを、見直さずにはいられなかった。最下層の労働を厭と云うほど経験した私には、よく判る。もしここで全面的に同意せず、持論を展開していたら、間もなく揚げ足を取られ、「出しゃばり」を叱責されたことだろう。
鉄壁のポーカーフェイスの裏側に、かなり個性的な考えを秘めていることが、ほの見えた気がした。
「ベートーヴェンにおいて、五番と九番が特別な意味を持つのは、何も交響曲ばかりではない。ヴァイオリンソナタの第五番『春』と第九番『クロイツェル』は、この後、壮大に展開されるシンフォニーの雛形とも云える。あなたはそう云いたいのでしょう」
上機嫌で、女帝は捲したてた。そんなことは判りきった事実だが、莫迦なメイドにしては、よく思いついた。露骨にそういう意味を含ませて。ちなみに「クロイツェル」が書かれたのは一八〇三年。交響曲第三番、いわゆる「英雄」が完成したのと同じ年であり、もちろん「運命」や第九は、この耳の病との格闘を開始した作曲家の中に、まだ可能性として眠ったままだ。また、かれのヴァイオリンソナタは、第十番まで存在する。
当時のヴァイオリンソナタはピアノがメインであり、あくまでヴァイオリンは助奏として従属させられた。ベートーヴェンが革新性は、二つの楽器をまるで協奏曲のように競わせた、スリリングな仕上がりにある。ブラームスの時代になると、ピアノとヴァイオリンの主従が逆転してゆく。
十九世紀の 「ヘルター・スケルター」。これは当時の、ハードロックだったのかもしれない。そして「ヘルター・スケルター」といえば、同じ「ホワイト・アルバム」の二枚めのディスクにに収録されている、ビートルズの最も前衛的な曲、「レボリューション9」を思い起こさずにはいられない。
ジョン・レノンの声が執拗に、悪夢的に繰り返す、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン……というフレーズ。
ジョンは十月九日に生まれ、十二月八日に兇弾に倒れたが、ヨーコ・オノの故郷である日本時間では、十二月九日になっていた。
ナンバーナインの呪い。
「数字は魔術ですから。人を確実に呪縛します」
蒲良がつぶやき、私は胸を突かれた思いがした。カバラは数秘術の元祖だ。メイドの一言によって、私は数に溺れ始めているのか。
女帝がまた身を反らし、今度は小柄なほうのメイドへ、射るような視線を向けるのが判った。
「出水、あなたはどうなのです?」
勅使河原とは対照的に、イズミと呼ばれたメイドは頬をぱっと赧らめ、不動の姿勢を無残に崩して、俯いてしまう。
「お許しください、奥さま。正直に申し上げて、私には難しすぎます。私が何を申し上げても、皆さまを白けさせて、恥をかくばかりでございます」
「構いません。何でも好いから、仰言い。私は下々の者の見解が知りたいのです。それともまさか、こんな近くに立っていながら、全く聴いてなかったわけではないのでしょう?」
出水円香は唇を噛んで、小鳥のように震えている。エプロンの裾をぎゅっと握りしめ、目にいっぱい涙を浮かべて……もしも彼女の「裏面」を知らなかったら、よもやこれが演技とは、気づかなかったろう。
苫江はわざと沈黙を保ったまま。舌舐めずりせんばかりに、「下々の者」をいたぶる愉しみに浸っているようだ。しきりに助け船を出したがっている様子の妖怪・堀川も、雰囲気に圧倒されたのか、咳払いするのがやっとである。
「ほら、どうしました? お客さまの前ですよ。あなたが話すのを、皆さん、待ちかねていらっしゃるのだから」
「あの、では、質問させていただいても宜しいでしょうか?」
消え入りそうな声は痛ましく震えていた。懇願するような目の奥に、けれども私は、ある種、野獣的な光が閃くのを見た。苫江の承諾を受けて、円香は姿勢を正した。
「音楽が武器になると、さっきのお話にありました。他人をコントロールできるのでしたか。ならば、音楽を用いて、例えば密室で自ら縊れ死にさせることも、可能なのでしょうか」
すでに声は震えておらず、むしろ未知の力が漲っていた。瞳は玉座の上の苫江をまともに見下ろしている。けれど、何より私が驚いたのは、彼女が確実にトルストイの「クロイツェル・ソナタ」を読んでいると知れたことだ。
音楽による人間の遠隔操作。これはあの小説を「読んで」いなければ、絶対に出てこない発想だから。




