第四十六回
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。世界じゅうの文化圏で、まずその名を知らない者はいないであろう、大作曲家である。
しかしなぜ綺羅星のごとき大作曲家たちの中で、かればかりが突出して人口に膾炙しているのか。莫迦げた疑問のようで、考えてみれば不思議な話。クラシックの権化のようなイメージは、バッハでもモーツァルトでもワーグナーでもなく、なぜかれ一人に帰したのか。
おそらくそれは、運命交響曲に依るところ大なのだろう。運命が戸を叩く音だという、誰もが一度聴いたら忘れられないフレーズに続けて、じつはこの作曲家は耳が聴こえなかったと聞かされれば、人々が受ける衝撃は計り知れない。聴覚障害という「運命」を克服した大作曲家のドラマが、たった四つの音に籠められて、人々の胸を激しく叩く。
もしも、この曲だけが作られていなかったら。「英雄」や「田園」や「第九」はあっても、「運命」だけがなかったら、もしかするとかれは、ここまで広汎に名を馳せることはなかったかもしれない。
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
祖父は同名で、オランダ人の歌手だった。ドイツ方面へも出入りしており、二十歳ごろ、ケルン選帝侯にその才能を見出された。侯の宮廷のあったボンは、かつての西ドイツの首都でもある。ここで宮廷歌手となり、楽長にまで出世した。よほどの美声の持ち主だったのだろう。
ちなみに、ヴァン・ベートーヴェンの「ヴァン」は、例えばヘルベルト・フォン・カラヤンなどの、貴族をあらわす「フォン」とは異なる。かれの一家は立派な平民であり、ベートーヴェンという姓自体、「農家」を意味する。また、オランダ人で「ヴァン」といえば、どうしてもあの呪われた画家、ヴァン・ゴッホが思い出されよう。
ドイツ語の発音は「ベートホーヘン」に近い。レッド・バロンの異名をとった、第一次大戦時の撃墜王の名が、フォン・リヒトホーフェンであるが、若くして空に散った貴族の飛行家と、五十六歳まで音楽との苦闘を続けたフリーランスの作曲家の肖像を並べてみるのも、一興かもしれない。
楽長の息子、すなわちベートーヴェンの父、ヨーハンもまた宮廷歌手だったが、凡人でアル中だった。父親の反対を押し切ってマリア・マグダレーナという未亡人と結婚した。駄目男の典型と評されるヨーハンに対し、聖母のような優しい女性像が伝わる。同じマリアでも、マグダラのマリアという、娼婦としての伝説が色濃い名が気になるところではあるが。
私は先日、上野の美術館で「法悦のマグダラのマリア」というカラヴァッジョの絵を見た。死体と見紛うほど、蒼ざめた顔。憂鬱そうな表情。胸を大きくはだけた、日本の巫女を想わせる衣装。卵のような、あるいは自身が孕んでいるようにも見える、球形のクッションを抱いて、不自然な角度で首を曲げ、垂直に、半ば閉じた目で天を仰いでいる……一七七〇年十二月十六日、次男のルードヴッヒが生まれた。
云うまでもなく、後の大作曲家である。
その前年。
一七六九年八月十五日。ルイ十五世によってフランスに併合されて間もないコルシカ島では、ナポレオン・ボナパルトという男が生まれている。
さて、ヨーハンは、息子、ルードヴィッヒの楽才に気づくと、一日じゅう一室に閉じ籠め、クラヴィコードの奏法を叩き込んだ。また即興演奏が好きだった息子を叱りつけ、楽譜どおりに弾くよう強要したという。
後にベートーヴェンが名を上げたのは、まずは即興の天才としてだった。乱暴な云い方をすれば、天性のジャズマン! なるほど交響曲第五番が、たった四音から延々と展開してゆくさまは、ジャズを彷彿させる。けれども、幼少時に自由奔放な演奏を禁じられたことは、かれにとってプラスに作用したのではあるまいか。基礎が叩き込まれていてこその即興であろうし、推敲に推敲を重ねる、後年のスタイルへも繋がってゆくのだろう。
一七八七年三月下旬、ルードヴィッヒは初めてのウィーン旅行へ出発した。十六歳だった。
今でこそ独立した国だけれど、当時オーストリアは神聖ローマ帝国に属していた。事実上は複数のクニが分裂した恰好で、ベートーヴェンが生まれたボンに宮廷を構える、ケルン選帝侯も領主の一人だし、モーツァルトと決裂したザルツブルク大司教も、世俗の領主を兼ねていた。むかし「グリム童話」を読んで、どうしてこんなにたくさん王様がいるのだろうと、疑問に感じたものだが、実際にたくさんいたのである。
中でも二大強国が、ハプスブルク家の宮廷がウィーンにあるオーストリア帝国と、ベルリンに首都を構えるプロイセン王国だった。




