第四十五回
「いわゆる、モーツァルト効果」京林の声は、どこか心ここになかった。
「よくご存じですね」
「モノを書くとき、少しばかり調べたことが。アメリカのラウシャー博士でしたか。かれが一九九六年に『ネイチャー』に発表した論文だったと記憶します。モーツァルトを聴かせると、IQが一時的に上がるという」
「はい。持続するのは十五分程度ですが。あと、残念ながら、ベートーヴェンやショパンでは、効果が出なかったとか」
「ふぅーん。それなら受験の直前に聴いておけば、ちょっとは点数が上がるんじゃないの」
顎を指で支え、からかうように鞠花が尋ねた。
「そういう理屈になるかしら。むしろ聴きながら受験勉強するが、合理的だと思うけど」
「バッハじゃだめなの?」
そういえば、この席で姉妹が言葉を交わすのは、これが始めてではなかったか。しかも美月は明子の「口を借りている」のだから、なおさら奇怪な構図が現出する。
父親が違うと云った、誰かの声が胸裏に反芻された。また美月が囁き、明子が云う。
「少しは、効果があったようだけど。モーツァルトほどではなかったみたい」
「胎教に好いとか、観葉植物がよく育つとか。兎角、かれの曲に関しては妙な噂がつき纏いますな」
うなずく代わりに、美月は堀川に大きく瞬いてみせた。
「血圧を下げる効果もあるようです」
「しかし腑に落ちませんね。真面目なバッハやベートーヴェンを差し置いて、なぜかれの音楽ばかりが、あちこちで奇跡を起こすのでしょう。『アマデウス』が真実でないにせよ、やはり挙動に問題の多い男だったのは事実でしょうに」
「派手好き、好色、見栄っ張り、下品、ギャンブル狂……最高の男じゃないか」地下の国の猫のように、蒲良が笑う。
「天才とは、そういうものかもしれません」
耳にほつれ毛をかける仕草が、美月と明子で完璧に揃った。彼女は続けた。
「実際にかれが病気を抱えていたという説も、少なからずあります」
「モーツァルトの奇行は、病状のあらわれだった?」
「ええ。例えばかれは少年の頃、恐怖症と呼べるほど、トランペットを怖がりました。金管楽器の疳高い響きによって、てんかんに近い発作が引き起こされたようです。また晩年に、幻覚を見るようになった話は有名ですね。まるで『ドン・ジョヴァンニ』において、放蕩者を地獄へ追いつめる石像のような、黒い影につき纏われます」
「死の影に、か」京林が溜息をついた。
「幻影に苦しめられながらも、かれは仕事をする手を休めません。曲を書いている時のほうが、気分が好いのだと述べた書簡も残っています。一説によると、モーツァルトの曲に治癒力があるのは、かれ自身を治癒するために必要な音が、無意識に選ばれているからだとか。とくに若い頃、てんかんに似た発作に見舞われていた時の曲には、ドーパミン不足を補う効果があるそうです」
「それで、血圧を下げたり、認知症にも効いたりする?」
再び美月は、大きく目を瞬かせた。静かだが鮮烈な艶に射られて、さすがの妖怪も身震いを禁じ得なかったようだ。
「『魔笛』といえば、云うまでもなく、かれの最晩年のオペラのひとつなのですが。この作品の中で、かれはドン・ジョバンニを罰した恐ろしい幻影を克服しています。作曲者自身は、間もなく死に呑み込まれてしまいますが、作品は永遠の勝利をうたい続ける……感動的でもあり、芸術の凄まじさを見せつけられる思いもします」
最初は敵だと思っていた魔術師が、じつは偉大な男で、主人公の青年はかれの元で修行をし、真の敵を倒す。シカネーダーという、山師まがいの興行師によるいい加減な台本に、モーツァルトが最高の音楽をつけた、不思議なオペラだ。
けれど、私も演劇の台本をたまに手がけるので、シカネーダーの心境がよく判るのだ。芝居の前半と後半で善玉と悪玉が入れ替わるのは、それぞれの役者たちに見せ場を持たせようと、気を遣った結果にほかなるまい。
しかしさっきのプロテイン音楽の話題といい、有坂美月という人は、神秘よりも合理的な解釈を好む性格とみた。オフィーリア役が似合いそうな、どこか常に夢を見ているような雰囲気と異なり。
「変人という点では、例のLVB氏も引けを取らなかったのではなくて?」
女帝・有坂苫江が、威厳たっぷりにそう云った。




